『マイ・ブックショップ』に見る志の継承(連載更新されました)

週末バタついて告知が遅れました。

「シネマの女は最後に微笑む」第62回は、「非常事態」下の書店の状況を枕に、『マイ・ブックショップ』(イザベル・コイシェ監督、2017)を取り上げてます。

 

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舞台は1959年のイギリス海岸沿いの小さな町。一人の女性が、さまざまなハードルをクリアして書店を立ち上げる。お客さんも徐々に入り始める。

ほのぼのしたハートウォーミングなドラマかと思いきや、後半ちょっとキツい方向に展開してゆき、「あーあ、とうとう‥‥」と思った最後の最後で突如明らかになるのは、ある純粋で破壊的な意思表示。度肝を抜かれます。

その驚愕は、深い納得と感慨と感動に。

 

 映像が非常に美しく、自然の描写から建物、室内、ファッションなど見所がたくさん。役者もいいです。読書家の偏屈老人を演じるビル・ナイ、素敵。

コロナ禍で様々なお店がひっそり廃業していく中、「場」の継続と志の継承について考えさせられる、今改めて観たい作品。超おすすめです。

対話が隠蔽する「加害」としての芸術

「さいたま国際芸術祭2020https://art-sightama.jp/jp/の中の「市民プロジェクト」の一環として作られた批評誌に、拙文を寄せております。

 

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芸術祭は新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、開催を延期したまま当初予定されていた会期が昨日終わっていますが、批評誌はあちこちに置かれているようです。

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個人的に名古屋圏であまり配れませんでしたので、とりあえず拙文だけここにアップしておきます。

 

 

 対話が隠蔽する「加害」としての芸術

 

 「現代美術の場における対話」で必ず思い出される、30年以上前の体験がある。

 1980年代、名古屋の中心街からやや外れた場所に、A.S.G.という「実験的」なギャラリーがあった。オーナーの意思で商業ギャラリーではなかったそこが「実験的」と見なされていた理由は、一階の画廊スペースの経営が二階にある居酒屋の収益によって賄われていたこと、企画には当初は地元の美術批評家が当たって(後に作家たちの自主運営へ)東京から川俣正を始め若い現代美術作家を精力的に招いており、搬入期間は約二週間、会期は三週間半という特にインスタレーション系の作家にとっては魅力的な場だったということがある。

 さらに画廊の二階に居酒屋があったため、居酒屋に来た特別現代美術に関心のない人も行きがかり上展示を覗きやすい環境ができていた。もっと言えば、店の客に対して「まず一階の作品を観てから二階においで下さい」という空気があった。その空気は、美術関係者で客層がほぼ固められていた現代美術の画廊とは毛色の異なるこの場を愛し、若手作家を応援するという運営主旨に賛同し、普段から居酒屋に集うさまざまな業種の人々によって醸成されていた。

 1983年の自分の初個展を契機に私がこのA.S.G.に深く関わったのは、他でもない対話、それも作家と観客との対話が、ここでは理想的なかたちで実現するのではないかと思ったからである。具体的には、開催される展覧会毎に二階の居酒屋において、作家と人々との対話および交流の会である「夜話会」が開催されるようになったことを指す。

 

 それまで私が知っていたのは、美術関係者による美術関係者のためのシンポジウムやトークイベントであり、そこでは「日本における現代美術の状況」は前提として共有された上で、専門性の高い内容の話が繰り広げられていた。「日本における現代美術の状況」を踏まえた話を理解するためには、欧米中心で推移してきた近現代美術史を知悉している必要性があるのは無論のこと、「日本の現代美術村の政治」まである程度押さえている必要があるらしかった。

 しかし美術史はともかくとして美術業界話は、駆け出しの作家だった私にとって本質とかけ離れた瑣末な情報に思われた。それより当時の私が軽い苛立ちの中で感じていたのは、現代美術にはさまざまななものの見方・考え方のヒントが埋まっているのに、それが人々に使われるようにならないのはなぜなのかということだった。あちこちで開催される芸術祭に何十万人という人が出かけるようになった現在と異なり、現代美術はまだ一般の人の関心をそれほど引いていない時代である。

 よく言われることだが、美術作品は直接何かの役に立つものではない「もの」であり、「非-人間」である。美術は近代以降、「人間的、世俗的なあらゆる営み」から最も遠くまで行こうとしてきたジャンルであるから、その志向を端的に「非-人間」と呼んでよいだろう。そして多くの人々が「現代美術はよくわからない」と感じているのも、その「非-人間」性にあるととりあえずは言えるだろう。

 しかしその「非-人間」志向に何らかの「思想」があるならば、それは多くの人々がいずれは「使える」ようになるべきではないか。たとえば仮に、現代美術の究極の思想が「無意味への到達」であっても、見た人が「無意味」について感じ考えることによって、見慣れたこの世界が新たに立ち上がり、さらにはそこで見た人の振る舞いも更新されていく、といったものであるべきだと当時の私は考えていた。

 そのために、「作品はどのように受容されるのか。その時、体験した人の中で何が起こるのか。その出来事は最終的に何になるのか」について、具体的に知りたいと思った。それも、あらかじめ美術の専門知識で武装し見方を訓練されているのではない人々において知るのでなければ、意味がないと思えた。   

 A.S.G.で個展をする作家と居酒屋に集まる一般の人々が直接やりとりをする「夜話会」の設定に積極的に賛成したのは、主に以上のような個人的理由による。

 

 私がA.S.G.に関わった約2年間の「夜話会」の模様を詳述する余裕はないが、そこで発見したのは、「多くの人々は、作品以上に作家本人に関心を持つ」ということである。

 作家は通常、現代美術についての知識のあまりない一般の人々に向けて話す機会がない。ギャラリートークをした場合も専門用語を使った話になりがちであり、もしそこに専門知識を持たない人々がいたとしても、作家にいちいち質問していいのかどうか躊躇うだろう。両者の間には最初からうっすらとした壁がある。

 これを避けるための手段の一つとして、作家が個人史を語るというやり方がある。いつ頃なぜ美術を志したのか、親の反対にあったかどうか、続けていくにあたっての苦労はどんなことか、どんな作家に関心があるか、など。

 「夜話会」でも、こうした個人的な話題がしばしば出た。作家が作品について解説した後で、唐突にそのような質問が観客からなされるケースもあった。通常のギャラリートークではあまり考えられないことである。

 「ゴッホ神話」が繰り返し語られ、一つの芸術家像が作られる中で作品が広く受容されていったという例を出すまでもなく、作家個人にまつわる話は一般の人々に好まれる傾向がある。作品を見て「わからん」と思い、コンセプトを聞いて「やっぱりよくわからん」と感じているような人が、作家の人柄が偲ばれる親しみやすいエピソードの一つも聞くと、急に関心や共感を示したりする。

 もちろん作品についての質問もあり、作家から現代美術の「文脈」について説明がなされたりもするのだが、そこから話が深まっていくというよりは、やはり最終的に作品を作った人間へと関心が向くのだ。「あんな難解な作品を作っている芸術家も普通の生活人だ」という安心なのか、「自分とそう変わらない感覚の人間が自分の想像を超えたものを作っている」ことへの興味なのかはわからない。

 いずれにせよ、芸術の評価軸を持たない人々、少なくともその作品のどこがどう優れているのか自分には判断できないと感じている人々は、作家本人から得た印象を重要な参照項とする、という実に素朴な事実を私は目の当たりにした。

 つまり人々は、「作家の芸術への欲望を欲望する立場」に置かれているのだった。そこで「作品はどのように受容されるのか。その時、体験した人の中で何が起こるのか。その出来事は最終的に何になるのか」を純粋に観測するのは不可能だった。

 

 だがそうした中で、はっきり言語化はされないまま空気のように漂っている人々のモヤモヤとした感情を、私は次第に感じ取るようになった。それは、「自分と同じ社会に生きている人間が、なぜ美術という特殊な形式を通じて何かをこちらに問うてくるのか。それに対して自分はどういう態度を示したらいいのか」という戸惑いである。これは現代美術に対面した人間が抱く、極めて根源的な戸惑いである。なぜなら現代美術体験とは端的に言って、作品という「加害」を受け止めることに他ならないからである。

 「加害」などと言うと美術関係者からお叱りを受けるかもしれないが、現代美術がもし現在も「非-人間」としての試みを全うする志向を持つのであれば、それが何らかの暴力として成立する空間がどこかにあり、「被害」を受ける者がいても不思議ではない。昨年のあいちトリエンナーレにおける「表現の不自由」展騒動で、「作品を見て傷ついた」という感想が出てくるのも、当該作品が「暴力」や「加害」の名に値するかどうかは別として、当人にはそれが「非-人間」なるものとして突き刺さったからだろう。

 そういう「傷つき」に対して、「芸術は新たな価値を生産するものだ」といった啓蒙や「対話をして理解を深めよう」という提案、ましてマジックワードのごとく乱用されている「多様性」という言葉は実効性を持たない。多様な意見や立場が並存しているかに見える状況は、「これを認めれば自分が否定される、だからその前に相手を否定する」というさまざまな敵対関係の集合でしかないことが、最近ますますはっきりしてきたからだ。

 現代の「多様性」はその内に大量の「排他性」、つまり対話不可能性を内包している。そうした空間で対話が成立していると見えるのは、何らかの利害に基づいて対話らしき形式を維持しようという強い抑制が、互いに同じ力だけ働いている場合のみである。

 そこから再度考えると、現代美術の場で一般の人々が示した作家への人間的な関心や共感は、作品が実は「加害」であること、つまり自らの足元を掘り崩すようなものかもしれないことを否認し、それによる「傷つき」を回避するための、無意識の防衛機制だった可能性も否定できない。

 だがそれを言うならそもそも、作家と人々の対話という一見開かれた、しかし芸術の側の啓蒙欲に満ちた形式自体が、他でもない芸術の「加害」性の隠蔽として機能してしまっていたのではないか?と問うべきかもしれない。私がそれまで対話だと思っていたものは、作家と観客の非対称的関係性を利用した押しつけがましい啓蒙とその失敗に過ぎなかったのではないか?と。

 先の鑑賞者の戸惑いを突き詰めていけばおそらく、「作品を作ったのがなぜ相手であって自分ではないのか」「なぜ自分は芸術をめぐって他者の欲望に巻き込まれているのか」という、芸術という形式存立における圧倒的な非対称性への疑問に突き当たるはずである。その疑問こそ、「加害」としての芸術――そうしたものがまだあるならば――が受け止めるべきものだ。もしも”対等”な対話が成立し得るとすれば、その地点をおいて他にはないだろう。

 

大野左紀子(文筆家)

「異物」を排除する共同体を描いた『獣は月夜に夢を見る』(連載更新されました)

告知遅くなりました。

「シネマの女は最後に微笑む」第61回は、コロナ禍の「自粛警察」の話を枕に、デンマークとフランスの合作映画『獣は月夜に夢を見る』を取り上げています。

 

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デンマークの漁村を舞台に、少女の体に異変が起き「獣」になっていくという、ホラーとミステリーが入り混じった少し不思議なテイストの作品。

『ぼくのエリ 200歳の少女』ともよく比較されている模様です。思い切って自由に解釈してみました。

 

 

二つの暴力が描かれます。一つは「異物」を差別し排斥しようとする共同体の暴力。もう一つは、「異物」であるヒロイン自身の、外見と内面に芽生えていく暴力性。

自身の変化に怯える少女から、それを隠さなくなっていく女へ。ヒロインを10代で演じたというソニア・ズーの、繊細な中に強靭さも感じさせる存在感が素晴らしい。セックスの最中に「獣化」が進むところはちょっとうっかり笑ってしまいましたが。

 

 

佇まいからしてすごく雰囲気のある、父親役を演じたラース・ミケルセンは、マッツ・ミケルセンのお兄さん。家を出ていく娘を見送る眼差しに胸を締めつけられます。

後半ちょっとスプラッターな展開になっていくので、血の苦手な方はご注意を。全体的にはカメラワークが素晴らしく、独特の美しい映像を楽しめると思います。

 

予告編

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自分でも自分の行動の先が読めない・・・『若い女』(連載、更新されました)

「シネマの女は最後に微笑む」第60回は、フランスの若手女性監督の長編デビュー作『若い女』(レオノール・セライユ監督、2017)を取り上げてます。第70回のカンヌ国際映画祭で新人監督賞受賞。

 

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ヒロイン役のレティシア・ドッシュが、すごく新鮮な感じです。最初は「うわぁ、ウザい女」と引きますが、だんだんと親近感が湧き、「この人、面白い。ずっと見ていたい」と思ってしまいます。

あまりにも自然に生き生きと役柄を演じていて、うっかりドキュメンタリーでも見ている気分になりますが、エッジの効いたカメラワークや色彩の鮮烈さにハッとすることしきり。

 

前振りで、「ソーシャル・ディスタンシング」と「ソーシャル・ディスタンス」の違いについて書いています。メディアではほぼ同じ意味として使われていますが、実は違うらしいんですね。

紛らわしいので、WHOが新しい言葉を提案したのですが、少なくとも日本では広まらなそうです。「ソーシャル・ディスタンス」がもう定着しちゃったし。

 

実は最初にコロナ関連の話題をもってくるのはもうやめようかと思っていましたが、今回かなりぴったりする側面が見えたので、またそれになりました。今現在の状況が、普段無視されたり隠されたりしているさまざまな出来事を、いかに浮き彫りにしているか‥‥ということなのだと思います。次回の前フリもコロナ関連になりそうです。

 

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現実よりも心的現実に真実が宿る『ブラック・スワン』(連載更新されています)

「シネマの女は最後に微笑む」第59回は、「自粛要請」の二律背反を枕に、ナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』(2010)を取り上げています。

 

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現実と心的現実(幻覚)が交錯して描かれるこの作品、後者に焦点を当てて振り返ってみました。なぜなら、この作品が伝えたかったことは、心的現実において読み取るべきだと思うからです。

現実に起こった出来事の方を見れば悲劇的なラストですが、ニナの心的現実においてはそうではないのです。連載タイトルではないですが、彼女が「最後に微笑む」のもそのためです。

 

今回改めてDVDで観直しましたが、この時期のナタリー・ポートマンでなければ演じられなかっただろうと思うくらい、ハマっていますね。

 

ところでこの連載は、冒頭に時事ネタか季節ネタを入れることになっており、編集部からは「いつもネタ振りから映画への導入が見事」とお褒めの言葉を頂いているのですが、ここのところニュースはコロナ一色なので、どう繋げるかで苦心しています。

今回は実はちょっと無理しました。

 

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「偶然」に翻弄される女の過酷な運命『題名のない子守唄』(連載、更新されました)

「シネマの女は最後に微笑む」第58回は、ニュー・シネマ・パラダイス』や『海の上のピアニスト』で有名なジュゼッペ・トルナトーレ監督の、『題名のない子守唄』(2006)を取り上げています。

 

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2007年のヨーロッパ映画賞とイタリア・アカデミー賞において数々の賞を受賞した佳作。強制売春や子供の売買を行う闇組織から逃げ出した女性のヒューマン・ミステリーです。

性暴力シーンなど残酷な場面があるので日本ではR-15指定ですが、最後まで少しずつ予想を裏切っていく展開に引き込まれます。過去と現在が行き来する脚本も素晴らしい。

 

ヒロインがすがった希望が皮肉にもまったくの偶然であり、偶然によって彼女の行動が決定され運命が翻弄されていくところ、そして喪失の後に思いがけない贈与があるところは、以前取り上げた邦画『よこがお』とも似ています。

ミステリーですので最後の方はボカして書いています。ラストで私は泣きました。

 

 

パンデミック映画にして女性映画『コンテイジョン』(連載、更新されました)

お知らせ遅くなりました! 「シネマの女は最後に微笑む」第57回は、新型コロナウイルスの感染拡大を前フリに、『コンテイジョン』(スティーブン・ソダーバーグ監督、2011)を取り上げています。

 

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コンテイジョンとは接触感染という意味。先月からネットの一部では話題になっていました。

パンデミックを主題にした映画としては若干地味かもしれませんが、その分リアルです。特に「今」こそリアルに感じられる作品だと思うので、おうちにこもりがちの皆さんは是非どうぞ。

 

俳優陣がびっくりするほど豪華です。グウィネス・パルトロウマリオン・コティヤールマット・デイモンジュード・ロウケイト・ウィンスレットも、主役級の俳優が群像劇の一人として登場します。

興味深いのは、良い面でも悪い面でも女性が重要な役を担わされているということです。

パンドラの箱よろしく意図せずに災厄を振りまいてしまうのも女、戦うのも女、犠牲になるのも守られるのも女。男性は「正義の人」か「悪党」。

これは明らかに意図された「女性映画」でしょうね。