会田誠の作品について(5/1トークより抜書き)

去る5月1日、大阪で行われた合宿勉強会「集まるのが大事vol.2」(テーマ=反抗)の二日目に登壇し、以下のような内容で90分ほどのトークをした。 

 

「反抗 vs 反抗 」の外へ―性的表現と性差別批判の弁証法


【概要】
美術に現れる女性の裸体表現は、かつては神話の文脈と宗教の縛りの間にあったが、次第にその制約を離れ、個としての性表現へと変化・多様化してきた。一方フェミニズム批評による美術史の読み直しにより、作品中の男性視点や性規範が指摘されるようにもなった。近年は強い反発と撤去要請が起こるような事案も散見される。
議論を呼んだ主な女性ヌード表現及び批判の文脈を辿り、「反抗 vs 反抗」の隘路から「外」に出る視点について考える。


【内容】
 ① 「女を見る」をめぐる男/女の非対称性
 ② 西洋美術における女性ヌードの位相
 ③ 近代日本の西洋美術、性道徳の受容
 ④ 「性差別」という批判の始まり
 ⑤ バルテュス会田誠への抗議
 ⑥ 抑圧・規範・権力への「抵抗」とは
 ⑦ 反映論と還元論
 ⑧ 「<女>は存在しない」

 

ここでは最近Twitterの一部でまた話題になった森美術館における会田誠の作品*1についての解説と、それに直接関わる箇所を抜き出す(この原稿はトークの前に作っておいたものであり、実際のトーク内容とほぼ同じである。ポイントは太字で示した)。

 

 

 [前略]

「女性像を見る」ということにおいては、当然ながら男/女の性の「非対称性」がはっきりと現れます。

アートにおける性表現をめぐる問題の、最大のネックはここにあります。これはつきつめていくと、男/女という二項の、決定的な「出逢い損ね」の問題に帰着する、という仮説をここでたてておきます。

それは異性愛者だけの問題で、それ以外のセクシュアリティを無視しているのではないか?という意見もありましょうが、そういうことではありません。

男/女という分別は、この社会や文化や個人の心理など、あらゆるところに浸透している、有形無形の制度です。もちろんそこから比較的自由な人もいるでしょう、でも、性が1ではなく2であるという現実から逃れることは、やはり非常に難しいことです。

それから、私の語りは男女の違いを強調することで、今ある男女の分断を促進するのではないか?という意見もあるかもしれません。それについては、分断を結論とするのではなく、むしろ分断から始めるべきというスタンスです。

男/女、二項のスラッシュの部分、この分断、断絶の意味を一旦受け入れた上で、性について深く考えられるかどうかが肝だと考えています。

 

 [中略]

 

森美術館会田誠「天才でごめんなさい」

2013年から翌年にかけて六本木の森美術館で、会田誠の大型回顧展「天才でごめんなさい」が開催されました。この展示について、ある人権団体から抗議が上がりました。これはメディアも取り上げたりして当時かなり大きな話題になりました。とりわけ問題視された作品の中から、5枚ほど見ましょう。会場では断り書きがありゾーニングされています。

(スライド)※ここには画像を貼らない。確認したい人は要検索。

会田誠 <<犬(雪月花のうち”月”)>>1996
会田誠 <<犬(雪月花のうち”雪”)>>1998
会田誠 <<犬(雪月花のうち”花”)>>2003
会田誠 <<とれたてイクラ丼>>(「食用人造少女・美味ちゃん」シリーズ)2001
会田誠 <<ジューサーミキサー>>2001

 

抗議した団体であるポルノ被害と性暴力を考える会(略称PAPS)は、プリントの資料2フェミニズムの流れとポルノフラフィ批判の中で名前を出しています。その抗議文と森美術館の回答文をプリントしたものがあると思いますが、全部読むのは時間がかかるので今は太字にしたポイントだけざっと目を通してください。(プリントを読んでもらう)

▶︎森美術館への抗議文
https://old.paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement/
▶︎森美術館の回答
https://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html
▶︎森美術館HP上の作家のコメント
https://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html

 

まずPAPS側の熱量に対して、美術館は冷ややかですね。非常に一般的なことしか言っていません。会田誠のコメントもごく穏当です。現代美術作家なら、だいたい皆こうした答え方にならざるを得ないでしょう。この書簡のやりとりの後、PAPSと森美術館とで対話の場が持たれたそうですが、完全にすれ違いに終わったということです。

PAPSはおそらく、これらの作品が美術作品ではなくイラストで、成人向けとして書店にあるだけならここまで言わなかったでしょう。アートとして美術館に展示されているから抗議となったんですね。つまり「アートは良いものであるはずなのに、なぜ性差別や暴力を肯定的に描くのか?」と言っている。

一方美術館は、「アートは多様なものの見方を提供してくれる良いものだ」と言っている。
どちらもアートは良いもの、では共通しています。もっといえば、「芸術は万人のためにある」とか「芸術に触れると精神が豊かになる」という近代以降生まれた芸術への信仰を、両者は一定限度共有しているんですね。

むしろ芸術の側がそうやって啓蒙してきた結果、PAPSのような人々の目にも触れることになったわけで、まあ半ば自ら招いた事態とも言えます。

 

もう一つ、両者に共通している点があります。

まずアーティストの側、会田誠もそうですし先程取り上げたバルテュスも、またクールベにしてもマネにしても皆、それぞれの時代の性道徳や規範に対しては意識的です。そこで作品がどういう効果をもつのかについても、自覚しているということです。そうやって社会を覆っているものの見方あるいは規範に否をつきつける、抑圧や権力に反抗、抵抗する姿勢は、モダンアート、コンテンポラリーアートの王道であり、宿命でもあります。

一方、批判する側も、それらの作品は社会の中心にいる男性の価値観や視点で描かれたものだ、女性をある性的イメージの中に押し込める差別的なものだ、としている。PAPSの批判は単純で一面的だと私は思いますが、自分たちは抗議を通して性的な差別抑圧に抵抗していると彼らは考えていると思います。

つまり対象が違うだけで、どちらも自分にとっての性の規範や権力に反抗、抵抗しているんですね。どちらも自分は抑圧を受ける側、加害者/被害者でいえば被害者側にいて、自分の上に「性とはこういうものだ」というマジョリティの規範や権力がある、という設定になっている。

そういう態度を精神分析ではヒステリーと言います。これは必ずしも悪い意味ではないのです。抑圧に抵抗することは大事ですからね。ただ、権力や規範に対して下の位置から問いかける立場というのは、相手がまず主体としてあって、自分はそのアンチということになります。アンチというのは、相手がいないと成り立たない副次的な立場です。そしてヒステリー者の問題は、このアンチ、抵抗するというポジション、被抑圧者の副次的な立場を手放せなくなっていくということです。それによって権力との関係に依存し、関係を固定化してしまうんですね。

そういう意味で両者は似ている。だからこそすれ違い、闘争も終わらない。

 

では次に、両者の違いを見ましょう。

批判側の論理は反映論です。

作品は社会に起こっている出来事や作家の心理、感情を、そのまま反映させるものだ。性差別や暴力をそれが罰せられていないかたちで描けば、それを肯定していることになるのだ、という考え方ですね。図像をそのままベタに受け取ると、そうなるでしょう。意外と、美術に対してこういう素直な見方をしている人は多いです。

一方、アート側の論理は還元論です。

作品は現実の素朴な反映ではない。現実の要素を抽出し、一回操作を加えて再構築し、普遍的な何かに還元しているのだと。それを理解するには、作品のコンテクストを読めとよく言われます。具体的に言えば、描かれたものをただそのまま受け取るのではいけなくて、この場合だと「女の子がこんな目にあってる。ひどい」と反応してはならないということです。いや、してもいいんだけど、そこで止まってしまうと作品を見たことにならない。

 

では少し作品を細かくみましょう。

この一連の作品は「犬シリーズ」と呼ばれ、<雪月花>と名付けられています。雪、月、花です。自然美の代表として言われる言葉で、日本画でもよく描かれるモチーフです。まず現代美術作家が、そうした伝統的な日本画の題材をわざわざ借りてきている、しかもいかにも日本画風な描き方で描いている、というその問題意識が注目点です。

会田誠は東京藝大の油画出身です。うまいですよね、絵が。私は少し上の年代ですが、会田誠が芸大に入った頃も、油画の倍率は40倍近くあったと思います。なのでこれは、もともとうまい上に美術予備校で鍛錬して入った、ある意味では優等生的、東京藝大的な絵のうまさです。必要に応じてうまくも描けるしヘタウマもできる、非常に達者な画家ですね。

それから「美少女」は会田誠の主題の一つですが、日本の現代社会における「美少女」の特権的な位置付けがその背景にあります。日本ほど美少女イメージに溢れた国はないですからね。

会田は、「美少女」と大きく描かれた字を見ながら、自分がマスターベーションし射精に至るという映像も作品にしています。字だけで妄想するんです、チャレンジャーですね。つまりそこで「美少女」はもはや、一つの観念に還元されているということです。

この絵の、少女が首輪をつけられ四肢を寸断されているさまは非常に猟奇的ですが、SM雑誌とか昔のエログロ系の雑誌などに登場する典型的なかたちの一つです。それが意識して選ばれている。

つまり、日本画の伝統的形式と、サブカル猟奇趣味を、「美少女」という特権的な記号のもとに結びつけ、一つのイメージへと還元させている作品であり、そのやり方が大変巧みである、ということになります。さまざまなジャンルを横断して編集・再構成するのは、現代美術でよく使われてきた手法ですからね。

 

しかし、こういう図式的な説明で満足しない人は当然いるでしょう。いろいろ手法を使ってはいるのはわかるけれども、結局自分の倒錯的な欲望を、露悪的に作品に表出させているのではないかと。会田誠については、よく露悪的だという指摘がされます。ザワつかせるとわかって、あえてやってるねってことです。

しかし、ある種の男性の作り手においては、自分の性的欲望のあり方と表現が切り離せず、あたかも「症状」のように作品に現れてしまう、ということがあると思います。バルテュス会田誠作品には、当然そういう面もあるでしょう。作品は意識的、知的に構築されているけれども、ある部分は無意識です。もちろん無意識の部分がなかったら、表現なんか成り立ちません。

作品は作り手の「症状」である、ある欲望のあり方を複雑な回路を経て症状として示すものであるという見方は、別に私個人の意見ではなく、美術以外のジャンルでも使われている精神分析的な見方ですが、非常に重要なものだと思います。

従って、「世間で言うところの猥褻性や女性差別といわれるような要素があっても、作り手がそれを作品内で批判的に描いたり相対化したりしていればいいんだ」といった簡単なものではないのです。そんなことはできないから「症状」になるのです。

 

そして、それが一定の女性にとって、「セクハラ」効果となってしまう。そこには、性暴力被害者としての女性の位相が関わってきていると私は考えています。
作品を見た人の個人的体験の中に性暴力被害が含まれていた場合、あるいはそこまでいかなくても、性差別の記憶が蓄積されていた場合、こうした表現に拒絶反応を示すということはあり得るでしょう。

性に関して傷ついた経験、そこでの怒りや屈辱などが深くその人の中に刻みつけられていると、こういう作品を見て反射的にトラウマや怒りが蘇ってしまう。そして「かつて傷つけられたあの経験は決して忘れられないし、忘れてはいけない。でも、他人がそれを思い出させるのは許さない」となってしまう。それはその人の責任では無論なく、そういう回路が自動的にできてしまうということが、もしかしたらあるのではないか。
ネットで炎上するケースも、こうした感情が根底にある人が声をあげていることが多いのではないかと思われます。

 

女性を描いた表現を女性が見た時に何が起こっているか、もう一度整理してみます。

まず女性の方は、描かれた女性イメージと自分が同じ性別であることを認識する。しかし対象は現実の個別の女性である自分とは違って、既になんらかの抽象化、取捨選択を経たファンタジーです。それは社会や文化の影響を被っており、そこには男性の視線がまた何らかのかたちで溶かし込まれている。

女性は当然それを感知する。この社会ではそうした女性イメージを通して自分が見られているかもしれない、とそこで女性は感じるわけですね。

一方で、その抽象化されたイメージと自分の個別性とは、常にずれもある。ここで女性の自我は引き裂かれる。引き裂かれを辛いと感じる人は違和感や抵抗感を表明するでしょう。一方、引き裂かれを回避し安定するために、「女」を見る視線を内面化する、あるいはこのイメージに自ら近づくということも起こります。

イメージにもよりますが、そうしている女性は案外いるのではないかと思います。スライドで出てきた<鏡のヴィーナス>はまさにそのことをストレートに構図化したもので、男性が自分を見ているのを鏡を通して確認し、その視線によって自分の女性性なり美しさなりを自覚している、という図でした。

 

主として男性の手によるこうした「女」のファンタジーは、古今東西あらゆるところで山ほど生産されてきました。聖女から毒婦、母なる女性から汚れのない乙女まで非常に多種多様です。

女性も男性をファンタジー化します、たとえばBLはそうかもしれません、が、歴史を見るとやはりその量やバラエティにおいては、圧倒的に男の生産してきた女性像に敵いません。まるでヘテロ男性という存在に、「女をファンタジー化する」というアプリがインストールされているかのようです。

いずれにしても、幻想を通してしか両者は接近し得ない。そして幻想とはいつか崩れるものです。崩れるから何度も何度も再構築され、夢見られるわけですね。

 [以下略]

 

 

●配布した資料の一部

【資料2】

フェミニズムの流れとポルノグラフィ批判

 

●第一波フェミニズム

 19世紀末から20世紀前半にかけて、女性の相続権、財産権、参政権を求めた運動

 例:サフラジェット‥‥イギリスの闘争的な女性参政権獲得運動

 ▶︎第一次ポルノグラフィ批判1800年頃から1920年代にかけ、アメリカにおいて、男性に対して女性の道徳的優位を主張するための、キリスト教系女性団体による性表現規制運動

 

●第二波フェミニズム

 1970年前後から「個人的なことは政治的である」をスローガンに、妊娠中絶の自由、性暴力の告発、労働の男女間平等など、さまざまな性差別を問題化し社会的な抑圧全体を問い直した女性解放思想・運動

 ▶︎フェミニズム批評:文学作品に隠された女性蔑視を解き明かし、テクストにおける性差別を撤廃しようとするもの。美術においてはアメリカの美術史家リンダ・ノックリンの論文「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」(1971)が先鞭となり、男性に偏重した美術制度や女性の作品に対するステロタイプな位置付けの見直し、新たな女性作家の発掘などが行われた。

 ▶︎第二次ポルノグラフィ批判:ポルノに出演した女性の被害、ポルノによる性犯罪の助長、女性蔑視の再生産などを理由とした反ポルノグラフィ運動(アンドレア・ドウォーキン、キャサリン・マッキノンなど)

●第三波フェミニズム

 1990年代から2000年代、第二波フェミニズムを批判的に継承し、人種やセクシュアリティ、ポストコロニアリズムなどの問題の重要性を強調しつつ、多様性や「私らしさ」という個性を追求する思想・運動(他、クイア・フェミニズムトランスジェンダーetc)

 例:ライオット・ガール‥‥1990年代初頭にアメリカで始まったフェミニストによるパンクやインディー・ロックおよびフェミニズムと政治を組み合わせたサブカルチャー運動

 

●第四波フェミニズム

 2010年代以降、主にSNSを舞台としたフェミニズムの大衆化(一部保守化?)を指し、未解決となっている第二波フェミニズムの問題提起を広く共有しようとする傾向が見られる。

 例:#MeToo

 

 

※文中の作品解説は、特に私独自の視点が入っているものではなく、美術作品を観るにあたっての基本的な見方であり、図録『天才でごめんなさい』テキストも一部参照しているが、これだけが正解だと言うつもりはない。

 

●参考ツイート

 

●参考記事

ohnosakiko.hatenablog.com

ohnosakiko.hatenablog.com

 

 

*1:また話題を呼んでいる「表現の不自由展」の実行委員会の中心メンバーが森美術館への抗議者側であり、あいちトリエンナーレの際、会田家(会田誠一家)の作品「檄」を展示に入れることを強く拒んだという事実が、Twitter上で津田大介氏によって改めて明かされたということが背後にある。

『マダム・マロリーと魔法のスパイス』と『フェアウェル』(連載更新されました)

いよいよ梅雨が明けましたが、まだなんとなくスッキリしませんね。
「シネマの女は最後に微笑む」第88回と89回のお知らせです。


◆『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(ラッセル・ハルストレム監督、2014)

forbesjapan.com

ヘレン・ミレン演じるマダム・マロリーが「魔法のスパイス」で傾きかけたレストランを立て直す細腕繁盛記‥‥ではありません。原題はThe Hundred-Foot Journey(100フィートの旅)。あるフレンチレストランとその前にできたインドレストランの距離が100フィートなんですね。
若きインド人シェフの成長物語を軸に、フランス/インドのさまざまな距離、対立、和解、調和が描かれる。もちろんヘレン・ミレンはフレンチレストランのオーナーという、重要な役どころ。とても面白いです。

 

◆『フェアウェル』(ルル・ワン監督、2019)

forbesjapan.com

 ラッパーとしても有名なオークワフィナが主演。祖母へのガン告知をめぐり、祖国中国と西洋的価値観の間で悩む女性を中心に、さまざまな家族の像が描かれるコメディ。
非常によくできた脚本で、オークワフィナ初め俳優陣も好演。思わず笑ったりホロリとなったりさせられながら、日本人にも深く関係する古くて新しいテーマがじんわりと浮かび上がってくる秀作です。おすすめ!

タロと名を呼ばれた時はタロになる自分が誰か俺は知らない

 

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飼い犬のタロ(柴のオス)が詠み手という想定の「犬短歌」をTwitterで詠み出して、半年経った。短歌や俳句に関して私はまったくの素人でほとんど作ったことがなかったが、偶然、主体が犬の俳句ができたのをきっかけに、面白がって始めた。
俳句もいくつか作ったが、短歌の方が圧倒的に多い。最初は犬画像とセットで出していたので、画像がないと若干意味不明になっているのも最初の方にはある。

 

「これはかなり制約だな」と思ったのは、人が抱くような複雑な感情を詠めないことだ。その代わり、子供目線は持てる。犬目線とは、私にとっては子供目線に近い。
もちろんそれも、私が勝手に想定している実はありえない犬の目線だ。私の「犬短歌」とは関係妄想の産物である。

 
途中で、歌人荻原裕幸さんが目に留めて下さり、「タロのキャラクターがわかるようなのもほほえましいが、タロなのか大野さんなのかわからないようなのが、短歌としてはいいと思う」との感想を頂いた。

たしかに、人間の想像した犬目線で詠む歌は、犬を主人公にしたマンガと同じでキャラクター化しやすいし、そういう擬人化されたわかりやすい歌の方が、Twitterではいいねを集めるようだ。
そこを一歩進めて、「犬のつもりで詠んでいるが人間が混じっている」「人間が詠んでいるはずなのに犬が混じっている」感じの歌を詠むのは、結構難しい。
他人から見れば、別に犬なんかまったく関係ない普通の短歌じゃない?というのも出てくる。ただ一応全部、タロと一緒にいる時に思いついたりタロを思い浮かべながら詠んでいるので、自分にとっては「犬短歌」になる。

 
Twitterでフォローしている短歌アカウントの歌をしばしば目にして、発想や言葉の使いかたが私はまだ狭いし自由じゃないなぁと思う。でも楽しいのと、日記代わりに続けている。いつまでできるかわからないけど。

以下、この六ヶ月間の「犬短歌」、216首。だいぶ溜まったのでここに置いておく。

 ※末尾に「/サキコ」とあるのは、タロ設定ではない私の歌。

 ※特に気に入っているのは、最後に*をつけた。

 

 

◆一月

あけましておめでとうとか言うけれど昨日も今日も俺には同じ

ご主人は朝から酒をかっくらうきっと夜にもかっくらうだろう

人間は愚かなものと知りつつも共に暮らせば日々が正月

遊ぶのも遊んでやるのも遊ばれるのも楽しいよ俺と遊べよ  

なぜそんな草の匂いを嗅ぐかって嗅いでと草が俺に言うから   *

遠くまで行こうよ行こうと言ったのに悲しからずや道戻る君

笑うなよ葉がついての知ってるよ人間だって鼻隠してるだろ

おばさんが寒いと一言言うたびに俺の姿は消えていくのだ

この泥は遊びではない言うなれば掘り職人の神聖な泥

今だけをただ今だけを生きている藁にまみれて俺は金色   *

電柱よお前の過去を話してみ他の犬には内緒にするから

白菜の中にはきっと犬がいる白菜色の小さな犬が   *

雨上がりタルコフスキーのゾーンから来る黒犬と橋で落ち合う   *         

畑は今十二コースの整備終えドッグレースを待つばかりなり

冬の畑大根どもは戦へり腕がゴロゴロ脚がゴロゴロ

待てだとかお座りだとか伏せだとか言われる方に生まれた運命

生きるとは水を飲むこと日を浴びて喉を鳴らして水を飲むこと

おばさんはいつも後ろをついてくるきっと道順知らないのだろう

ちょっと待てここは結界選ばれし犬が入れる俺は入れる 

おばさんの声は左の耳で聞き右は世界の音を聴いてる

タロと名を呼ばれた時はタロになる自分が誰か俺は知らない   *

神様が雪を食パンに変えたなら俺は喜び庭駆け回る

柴犬はバンビになれる茶の背なに雪の斑点ポチポチつけて

おばさんの六十二歳の誕生日この雪景色をプレゼントする

おばさんが携帯ばかり見てるからわれ所在なくわがシッポ追う

バラに訊く元気だろうかこの家のずっと姿を見せない犬は 

あの角でこっち見ているあのワンコ挨拶しよか迷う距離感   *

四つ辻を不在のものの行き過ぎて遠くの町につむじ風立つ   


◆二月

樹の下を通るものには犬にまで喋りたそうな紅いサザンカ

キャベツからベビー誕生したあとのキャベツ畑の無惨なことよ

何もない場所の何でもない土に何かが起こる予感の二月

冬眠のカメムシを見た日の午後は公園で静かに草を食む

菅田将暉似の少年がスケボーに乗る強風の空に訓練機   *

朝よりも早く走ろうまだ今日は誰の足跡もついてない日

子ら連れた笛吹きがここを通ったら断固阻止して子犬奪還

きもの着た日のあのひとはいつもとは違う匂いで少し冷たい   *

朝七時口に入れたら溶けそうな春のお菓子の匂いする空

寒空は画用紙の白 ムクドリの飛び去った巣は木炭の黒

匂いだけ残して瞬間移動するその者の名を猫様と云う

収穫に間に合わなかった大根の葉の自己主張青々として

ひだまりに遊べる鳩の六、七羽我ら集った遠いあの日よ

菜の花も柴犬の鼻も照らされて朝の一刻夢をむさぼる

くっつきも離れもしないこの距離で月まで歩いていけたらいいな

家の無い土地を守っている鉄の門扉を飾る百獣の王

いいことをしていないのにいい子ねと言われたどんな顔したらいい   *

忠犬になどならなくていいのだと匂いの中にただ身を任す

鳥たちは革命の準備春を呼び冬を血祭りに上げよと囀る

日除け幕はためき春の砂塵舞う道を名も無きステップで行く   *

詰襟に詰められて行く少年のさわやかすぎる朝の挨拶

風寒し鳥除けの杭の空き缶はコーヒーBOSSと麒麟淡麗

おばさんは最近変だ宙を見て指折り広げ何か呟く

人間の親子は不思議「ワンちゃん」と母は指差し子は「イヌ」と言う   *

舞い降りた天使の羽根で肛門をくすぐられたりわれ脱糞す

朝早し犬連れた人の二、三組ある中うちだけ人連れた犬

朝露は鳥の背中に乗せられて草葉の先に配達されり

散歩中かわいいワンコ見つけたら伏せの姿勢で待つ犬紳士

サッカーしていると自分が犬なのかサッカーなのかわからなくなる   *

ヒナギクの絵のあのバスに乗りこんで「幼稚園」なる国に行きたし

幸せは二人で分ける食パンの最後のかけら譲られること

ガラス越し雛飾りたるあのひとの手つき優しく背中小さく

お座りのままお預けのご馳走は夜中の雛大宴会のため

人間は抱きしめるには前脚が届かないので手首ハグする

飼い主が同じ背丈に縮むよう呪文唱えるがまだ効いてこぬ

枯れ草は女の乾いた白い髪寒風の中そっと匂い嗅ぐ

ゾウの絵の「マスクは鼻まで」のポスター ゾウも困るしマスクも困る

西風が雪の女王のうわさしてメダカは甕の底に隠れり

春の雪こまやかにきまじめに舞い我も景色もスーラの絵になる

黄金の背に春光を煌めかせ廃墟の庭にネコ君臨す   *

甘噛みは愛の手加減本当は食べたいけれど我慢している

若犬の跡嗅いでるとおばさんは「かたいのふとん?」と言うがなにそれ

鳥たちの無血革命われもまた春の柴犬へ生成変化

賑やかに雲雀の歌う空の下 俺はいまだに恋を知らない

毛皮着て生まれてきたから「寒いね」と呟く人にはそっと寄り添う

見つめあう関係よりも同じほう見て歩くのが好きだよ犬は

制服の少女の白いソックスは俺と同じだ行ってらっしゃい

箱型の奴より人に近い気がする旧式の郵便ポスト

オオイヌノフグリは気前のいい春が空のかけらをふりまき咲かす 

去勢したオスの睾丸埋めた場に小さなイヌノフグリの花咲く

曇天に見えぬ機影の音響き遠い畑から烏飛び立つ

昼下がり『昴』歌う声もれ聞こえあとは静まるカラオケ喫茶   *

犬たちよ満月の夜は牙を剥き遠吠えくらいはしようじゃないか

キズイセン、ナノハナ、オウバイ、花たちの黄色いリレーで春が近づく


◆三月

人間は互いの匂いも嗅がないでどうやって仲良くなるんだろ

最近は歴史が歩みを止めたらしいけれども今日の雨は止まない

風に乗り空をさまよう我が心明け方タロの体に帰還す   *

霞む空映した甕のメダカたち鯨になった夢から覚める

いと美味し初めて食すフランスパン フランスに住む犬うらやまし

童貞の俺は七歳もうとうに魔法使えているはずなのに

オオカミが減りコヨーテが増えている世界で次の覇者は柴犬

「すぐ来るよ」わかっていたけど長かったコンビニ前で待った一分   *

「柴犬は正しい」とまず呟いてそれを基準に考えようよ

早咲きの桜の町に引っ越して二年 散歩の歩みも緩し

翳ひなた縞模様の路地行く猫は黒かグレーかはちみつ色か   *

こんな日は慌てた兎を追いかけてmadな茶会に招かれたいな

少しずつ違う顔して異議ありとさんざめきたるヴィオラ議員団

傷ついた白鳥のように落ちているビニール傘になお小雨降る

ひらひらと飛ぶのは死んだ犬たちが生まれ変わったモンシロチョウチョ  

ごはんよと呼ばれ聞こえないふりをした桃の匂いの溶ける夕暮れ   *

凶器にはならず打たれし鉄製の猫の眼窩の深き闇色

おばさんはオスなのメスなのどっちでもいいけど俺より長生きしなよ

明日きみを公園の隅の新鮮なサラダバーへと招待しよう

世界から「犬」という語が消えたとき俺は存在してるんだろか   *

タロという名の犬は世の中にたくさんいるのになぜ俺なのか

わきまえがあるから時にわきまえのなさで空気をぶち壊せるのだ

暖かい雨が優しく残酷な言葉のごとく我が背を濡らす

花も実も飛ばして風の又三郎タロにガラスのマントおくれよ

知らなくていいことを知りたい時は柴犬を思い出すがよろしい

木陰から俺を射抜いたキジトラよ君の瞳は一万ボルト♪

一瞥し静々と遠ざかる猫いつか一緒に海が見たいな

クリームパンみたいな柴と友になる花見日和の甘い青空

きれいねと桜愛でる人の隣で決めたよ今度は桜に生まれる

犬の知能ヒトで言ったら二歳だがあのひとよりは賢いつもり

永遠の二歳児であれわが犬よ春に咬みつき夏に転がれ/サキコ

カタバミの匂いによぎる幼犬期ミルクの味は思い出せない

撫でられて気持ち良すぎて涎垂れ昔のことはみんな忘れた

世の中に間に合うことはないと知りつつもなぜだか走り出してる   *

まっくろなちいさい猫よ日を避けて菜花の下に隠れておいで

チビ犬にグルルと唸られ電柱の匂いかぐふりするオトナ犬


◆四月

エイプリルフールは俺には無関係フリはするけどウソはつけない

寝不足の疲れを隠す笑み淋し残したごはん黙って食べる   *

鉄線の蕾の中に目玉あり空を見る日を待ち焦がれてる

ふと過去の秘めごと思い出すように雨の夜に咲く赤い鉄線

花の名はひとつも知らない生きているものの匂いを嗅ぎ分けるだけ

タタタタと軒打つ雨にリクエスト タロタロタロと打ってみなさい   *

夜も更けて手持ちぶさたに土を掘る削れた爪は空の三日月

遠くまで散歩してそのまま二人知らない国へ旅に行けたら

ラッセンに描いてほしいな虹色のイルカのようにしたたる犬を   *

虹色にしたたる俺はラッセンの青いイルカに乗った少年

ワンワンと吠えているけど飯椀に水の椀だけシンプルライフ

宝石のような日だけを取っといて最後は首飾りにしてあげる

早咲きの紫陽花切って指切って血の色の花桃に笑われ

お手なんかできるわけない誰の手も握ったことないこの前脚で

紫に4月を染めるミセス・ユキ花は咲いたかミセス・サキには

短めのおかっぱにしたおばさんは磯野ワカメの半世紀後か

名を知らず親類でもない飼い主が名乗る「おばちゃん」俺の「おばちゃん」

雨の日は沈黙を守る あの人がちょっと気にして覗きに来るまで

三日月の白く冷たい舌先にブルーラピンの蕾は固し

友達の一人もいないカメムシが大河を臨む屋上の庭

雀らが恋のバトルでかしましい軒下でわれ惰眠を貪る

思い出のまだない麻の服を着たあの人の匂い知らない匂い

ふと甘いバニラの香りで気がついた俺に内緒でアイス食べたな   *

こんな春こんな春などもう二度と厭だ本日注射を打った

南極の氷溶け出し重心の傾く星でアイスひと舐め   *

犬たちは犬死しない生きるのが目的だからそれだけだから

音楽会に行けない今宵花たちの声を聴こうよナハトムジー

舌先で気圧をちょちょいと操作して頭痛の人に感謝されたい

もう五日ガードレールにもたれてる白地に黒の水玉の傘

吹きつける風雨にうつむく人に添い犬は空仰ぎ見つつ歩む 

おばさんと出会った時にかけたのだ俺が死ぬまで死ねない呪いを


◆五月

稲妻に光る雨足ティンパニの強き連打に五月を祝う

エスでもノーでもないよ子をもたぬ犬と女の雲早き午後   *

絡まった関係ほぐしたいですかそのままにしておきたいですか

一重でも八重でも咲ける何ひとつ禁じられてることはないのだ

計画も予定もなくて雨の日は雨の音聴く犬の生活   *

いつもより散歩の時間が早いのはレモンサワーが飲みたいからだね

プツプツとレモンサワーの呟きのようにツイート流れゆく午後/サキコ

若冲の仔犬が可愛くないわけは狛犬の血が混じっているから

花を撮る人の隣でしばし待つ昔は愛を知らなかったよ

おばさんもパンチパーマにしてみれば?トイプーみたいで可愛いかもよ

人間のあいだに愛はないそれは犬が持ち込んだウイルスだから

知らないでヒトに感染させた愛どんな病気かあとで知ったよ

散歩とはあのひとを連れてゆくこと誰も知らない世界の裏に

狛犬は裏の世界じゃ俺のダチ神様の秘密教えてもらう

鉢割ってすぐ「ごめんね」が出ないのは花に嫉妬をしていたからだね

犬よ犬おまえたちには近代はないこれからも仲良くしてね/サキコ

穴は良い寛いで良し寝ても良し飽きたらあいつを埋めるのも良し

土掘りは犬の権利にとどまらずわれを犬たらしめることなり

犬の皮被った人のマンガ見て可愛いと言う人の不思議さ

あの角で俺を待ってた侍のような黒柴と明日旅に出る   *

ふかふかの犬用綿毛に乗っかってまだ見たことない海を見にいく

イケメンの基準に悩むおばさんよ目の前のイケメンに気づけよ

夕暮れの風に揺れる百合頷いているのか違うと言っているのか

おばさんがクルエラならばこれまでだ101匹も犠牲にさせない

濡れた路地一つ落ちたる皮ボタン見れば昼寝をする蝸牛   *

渦巻きの花弁だけでも謎なのに霜降り肉に擬態する薔薇

赤い薔薇ピンクの薔薇は遠慮して黄色を手に取るような人生/サキコ

なぜ人は長生きしたいと思うのか今より未来がそんな大事か

さわさわと噂するのに振り向けばひんやり牛蒡の畑静まれり

はっきりとしない天気も言いすぎた言葉も五月の緑でふちどる

横丁で子猫がニィと鳴いたのに耳すましてる垣根のツツジ

室内用ペットと思い妬いていたルンバの奴が今日は静かだ   *

犬という字は大の字に点を打つ 鼻のホクロはたぶんその点


◆六月

ホテル飯よかった皆やさしかったよ毎日窓から雲だけ見てた

チクワだと思って噛んだら血の味がしたおばさんの指だったとは

ギターの弦みたいな送電線を張る鉄塔の上の男の孤独

闇雲に斧投げていた手が今は背中を撫でる紫陽花の候

雨上がり立ちのぼる千の匂いあのひとの匂いは千分の一

ハンカチの染みに刺繍をするように誰かの傷を隠してあげたい

田舎どこ?俺は美濃だよ美濃柴さ だけど親父は流れ者だよ

帰る家ないと寂しいんじゃない?と独り実家で頑張る老母/サキコ

子雀の骸朽ちゆく昼下がり飛び立てたはずの空は水色   *

あのひとの日傘の影に入ったり出たりおニューのサンダル見たり

おばさんはステイタスとは無縁だねトロフィードッグも飼えないだろね

見上げれば熟れたる枇杷の金色のにゃん玉のごと丸み愛しき   *

紫陽花を探して知らない場所に来た今日のアイスはスーパーカップ

梅干しの保存容器を何にするかで揉めている塩っぱい夫婦

舐めた手のトマトの匂い酸っぱくて夏はまだかな夏はまだかな

おばさんの預金が三桁になったらばおやつを買って川辺に行こう

青空を抱えた田んぼに飛び込めば「タロちゃん雲に乗る」が始まる   

見つけられませんようにと隠れたる蟷螂の子の初夏の青さよ

稲妻の夜は古城にたどりつき人造犬と踊る夢見る   *

背を山にしたキジトラが怖すぎてヒメジョオンの陰で泣いています

犬を抱き散歩している人を見た 人を抱いてる犬は見ないね

なぜメダカだけこんなにも増えたのかおばさんもいつか増えるんだろか

街灯の届かぬ闇に一吠えす夜の者たちの声聴きたくて

六月の雲雀は空のオペラ歌手ヘリの音すら伴奏にする

夕焼けが紫陽花色ねと呟いた初老の主と夏を迎える

黄金虫色のバイクの少年は迎えに来ない青春だったね

もうだいぶ犬として生きた気がしますここらでちょっと交替しますか

庭埋めた夏草たちに見守られ無人の窓辺で朽ちる鉢植え

降ってきた降ってきたよと言いながら走る彼女に合わせて走る   *

背を向けてクールにシッポで応えたい日もある俺は猫じゃないけど

梅雨空はサイダーの色軒下に干した浴衣の水玉swinging

本当は喋れるでしょ?と見つめられウインクしたいがうまくできない

心電図検査した日のおばさんがいつまでも聴くこの胸の鼓動

神様は存在するのかしないのか未知数のまま過ぎる六月

 

 

2021年後半の犬短歌はこちら。

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『パーマネント野ばら』と『ライド・ライク・ア・ガール』(連載更新されています)

「シネマの女は最後に微笑む」第86回と87回のお知らせです。


◆『パーマネント野ばら』(吉田大八監督、2010)

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港町に生きる三人の女性の姿を通して浮かび上がる愛と哀切。第三者的叙述の中に、主人公視点を巧みに取り入れた演出。個人的には原作より好きです。再見して、笑ってちょっと泣きました。
主人公の秘密についてはテキスト後半で軽く触れますが、知っていて見るとなお一層味わいの増す作品かと思います。未見の方は是非。


先月NHKあさイチ」に出演し、子育ての大変さを語っていた菅野美穂を見ました。ひと段落ついたらまた活躍してほしいな。

 


◆『ライド・ライク・ア・ガール』(レイチェル・グリフィス監督、2019)

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2015年に女性で初のメルボルンカップを制した騎手の実話ドラマ。ケレン味のない演出で、女性差別に対するヒロインの鬱屈も過剰に焦点化されることなく、却って彼女の強さを際立たせています。
オーストラリアの自然や馬たちを捉えるカメラワークが秀逸で、瑞々しく美しいシーンがいくつも。
そして父親を演じるサム・ニールが渋い。素晴らしい俳優だなと改めて思いました。

 

『グッドライアー 偽りのゲーム』と『ブルーバレンタイン』(連載更新されました)

ForbesJapanに連載中の「シネマの女は最後に微笑む」第84、85回、2本続けてのお知らせです。それぞれ一組の男女のドラマですが、いずれもキャスティングが素晴らしいです。

 

◆『グッドライアー 偽りのゲーム』(ビル・コンドル監督、2019)

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 投資話で相手から資産を巻き上げようとする老詐欺師と資産家の老女の、一筋縄ではいかない関係を描くミステリー。ヘレン・ミレンイアン・マッケランという組み合わせが、まさに眼福もの。並んでいるだけで絵になる二人ですね。
前半は「男の物語」かと思わせておいて、後半に「女の物語」へとすべてのカードが裏返っていく展開がスリリング。なぜに歳を重ねた二人なのかという点も、それぞれの過去が明らかになっていく中で説得力を増してきます。

大詰めのアクションシーンは個人的にはちょっとくどいかなと思いましたが、まあよくやりましたねお二人ともなかなかの根性‥‥という印象。

 

◆『ブルーバレンタイン』(デレク・シアンフランス監督、2010)

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 愛の始まりと終わり、その圧倒的な落差を酷薄なまでに描き切った傑作。「最後に微笑む」映画からは外れますし、「鬱映画」と言われたりもしていますが、どうしても取り上げておきたかったので。
どちらが悪いということではない、頂点を迎えてからは徐々に落ちていくしかなかった恋愛の悲劇。出会いと別れを経験したことのある人なら、エグられるシーンは多いでしょう。
ライアン・ゴズリングミシェル・ウィリアムズの組み合わせが最高です。アメリカのどちらかというと低所得の若いカップルの雰囲気が、よく出ている感じがします。
どちらにより感情移入できるかというのは人によるでしょうが、妻の意識についていけてない夫が少し気の毒かなと思う人は、わりと多いのではないでしょうか、どうでしょうか。

『ONCE ダブリンの街角で』と『私の知らないわたしの素顔』(連載更新)

お待たせしました。ForbesJapanに連載中の「シネマの女は最後に微笑む」第82、83回と、2本続けてのお知らせです。

いずれも、ある男女の関係がモチーフですが、偶然まったく対照的な作品になりました。

 

◆『ONCE ダブリンの街角で』(ジョン・カーニー監督、2007)
音楽が主役です。俳優達はミュージシャン。そのせいか、たくさんある演奏場面もごく自然なところがとてもいいです。ところどころにユーモアを込めながら、なんとなくドキュメンタリーを見ているような雰囲気も醸し出されています。
偶然町角で出会い、音楽を通じて共鳴し合い、次第にそれぞれの背後の生活風景も見えてきて、次の一歩を踏み出すための別れを迎えるまでの、本当にさりげなくも貴重な一期一会がみずみずしく描かれます。
終わったあとにじんわりくる、たぶん、たまに見直したくなる作品。

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◆『私の知らないわたしの素顔』(サフィ・ネブー監督、2019)
なかなか怖いドラマです。ネット上で若い女性を装うことで、疑似恋愛にはまり込んだ中年の大学教授。電話でも甘い会話を楽しむうちに相手の心に火がつき、リアルで会う約束をしてしまう。
というサスペンスに、二重三重の仕掛けが施されています。なかなか見事な脚本。

そして主役を演じるジュリエット・ビノシュの、表向きは冷静に振る舞いつつ、加齢に怯えながら若い異性からの承認に飢える感じも、非常にリアル。美人なだけに煩悩が深くなるんでしょうね。煩悩が妄執となるあたりから、しみじみした怖さが襲ってきます。カメラワークが美しいです。

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『15年目のラブソング』と『おもかげ』

お待たせしました。「シネマの女は最後に微笑む」第80回と81回のお知らせです。

 

◆『15年目のラブソング』(ジェシー・ペレッツ監督、2018)

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邦題がいまいちですが、中年前期の男女の微妙なずれの描き方がリアルで、何気ない細部も楽しめる作品。ヒロインを中心に、オタクな大学講師の恋人と、彼が崇拝するロックスター(今は落ちぶれている)との対比が、だんだん鮮やかになっていくさまが見事です。
とりわけ、元ロックスターを演じるイーサン・ホークが素晴らしい。妻や恋人との間に子供を作っては捨てられたり逃げたりするダメ男で非常に情けないけれども、そこを「ま、しかたないよね」で終わらせないところがいいです。
一方、クリス・オドネルの演じる自分の世界にこもり切りの恋人も、非常に「いるいる」感があり、なかなか笑えます。

客観的に見ればどちらも身勝手な男ですが、元ロック・スターの方に年の功とユーモアが感じられます。ヒロインは一緒に成長していける相手を選んだのでしょう。しかし大人になるのは難しいものです。

 

◆『おもかげ』(ロドリゴ・ソロゴイェン監督、2019)

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2017年に多くの賞を得た短編がそのまま置かれている冒頭の15分でかなりもっていかれ、その後、幼い息子を突然失ったエレナの10年後が描かれます。
エレナに恋する美少年ジャンの「クソ生意気さ」が、さすがフランス人のガキンチョという感じです。親が海辺に別荘を持っているプチブルの16歳でどうやら既に性体験済み、友達も多く頭も悪くなく23歳も年上の女性に臆せず対等に接しており、変な策を用いず無邪気な点だけが年相応。
こんな男の子、日本人に置き換えてみると希少種、むしろファンタジーの領域でしょう。うんと年上の女を落とそうと寄ってくるのはもっとチャラい遊び人の少年だろうし、そうでなければ恋愛感情を抱いてもあそこまで近づく勇気は持てないはず。
積極的な16歳と大きな傷を抱えた39歳という設定でも少し危うさを感じさせるのに、それが「息子と母」であったら完全にヤバい領域に足を踏み入れます。この作品はその瀬戸際を主人公に行ったり来たりさせていて、その意味でもかなり大胆な試みをしていると感じました。深い後味の佳作。