『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』、『モスクワは涙を信じない』(連載更新されました)

年末も押し迫り、急に冷え込んできましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私はうっかり風邪気味です。。
「シネマの女は最後に微笑む」第99回と第100回(最終回)のお知らせです。

 


◆『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』(クレイグ・ガレスピー監督、2017)

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90年代、オリンピックに二度出場したアメリカのフィギュアスケータートーニャ・ハーディングの、波乱に満ちた半生を描いた作品。
ナンシー・ケリガン襲撃事件やリレハンメル五輪での前代未聞のトラブルなど、ダークな印象を残してスケート界を去った彼女を、マーゴット・ロビーが熱演しています。もともとアイスホッケーのチームに所属していたそうで、アクションが得意な彼女のこと、プロスケーターやCGも使っているものの、キレのある動きを見せてくれます。

上品さや出自の良さといったイメージを求めるフィギュアスケート界において、労働者階級出身で泥まみれな中で戦ってきたトーニャ、という人物造形。70%くらい寄り添いつつも、30%は突き放したドライな視点が良いです。
そして何より、トーニャの母を演じるアリソン・ジャネイが凄い。名演。

 


◆『モスクワは涙を信じない』(ウラジーミル・メニショフ監督、1980)

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(画像はイメージです)

 

この作品を最終回に取り上げようと、前から決めていました。初見は1990年頃でしたが、去年久々に見直して、まさに「現代女性」のドラマだと思ったからです。

第一部は1950年代末のモスクワで働く若い女性、第二部は彼女の20年後を描いています。
今から40年余りも昔の旧ソ連の作品でありながら、モチーフはほとんど古さを感じさせません。今でも”あるある”な話が満載。
随所にユーモアやアイロニーを散りばめつつ、骨太な「女の半生」物語になっています。
また、テキストの最後の方に編集者が、主役を演じたヴェーラ・アレントワの近影を入れてくれました。胸熱です。

 


四年に亘った連載「シネマの女は最後に微笑む」、今回にて終了します。当初は40回くらいで行き詰まるかと思いましたが、なんとか100回まで漕ぎ着けました。お読み下さった皆様、ありがとうございました。
以下から全回読めます。

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さて、来年からは同じくForbesJAPANにて、新連載がスタートします。映画関連ですがテーマはがらりと変わり、これまでの月2回から月1回の更新になります。その分、スペシャルな内容にしたいと思っていますので、引き続きどうぞよろしくお願い致します。
始まりましたら、ここでまたお知らせします。乞うご期待!

『本当の目的』、『これが私の人生設計』(連載更新されています)

「シネマの女は最後に微笑む」第97回、第98回のお知らせです。
たまたま対照的な作品になりましたが、いずれも脇で登場する年配の女性の描写が素晴らしいです。

 

◆『本当の目的』(ダリヤン・ペヨフスキ監督、2015)

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マケドニアコソボ合作の異色ミステリー(画像はイメージ)。
双子ものです。感の鋭い人は、中盤くらいで察するでしょう。抑えたトーンの中の、静かな緊迫感に満ちた女優の演技、ひんやりとした色使いで引き締まった映像、脚本の見事さ。
後半に出てくる村で唯一の高齢女性、現地の人かと思うほどのリアリティでした。おすすめ。

 


◆『これが私の人生設計』(リッカルド・ミラーニ監督、2014)

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女性建築士が有名男性建築士の助手と偽って自分のプランを通していこうと画策する、イタリアで大ヒットしたコメディ。
設定の巧さと俳優達の好演が光ってます。笑えるシーンが満載。時たま出てくる田舎のおばちゃんが面白い。様々な「誤解」に焦点を当ててみました。

『シンプル・フェイバー』、『フラワーショウ!』(連載更新されています)

「シネマの女は最後に微笑む」第95回と96回のお知らせです。
今回は本文から抜き書きで。


◆『シンプル・フェイバー』(ポール・フェイグ監督、2018)

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シングルマザーのステファニー(アナ・ケンドリック)がリッチなエミリー(ブレイク・ライヴリー)とママ友になり、互いの秘密を打ち明けるほど親しくなったところで、仕事の都合で子供を預けられるのだが、その日からエミリーはふっつり姿を消す。
彼女の夫ショーン(ヘンリー・ゴールディング)にも勤務先のアパレル会社にも所在がわからない中、ある日なぜか離れた場所で水死体となって発見されるエミリー。
打ちのめされたショーンを支えようとするステファニーだが、しばらくすると死んだはずのエミリーの影が周囲にちらつき始める‥‥。

ミステリードラマとしてよくできている本作だが、では謎解きのスリルに重点が置かれているのかと言えば、ちょっと違う。

 

YouTubeVlog画面で始まり終わる本作は、ミステリーの形式をとりつつ二人の女性の関係性をブラックな笑いを散りばめて描く快作。

アナ・ケンドリックブレイク・ライヴリーも上手い! 少しずつ斜め上に行く展開と、ヒロインを失笑させるキャラにしているところが新鮮です。


◆『フラワーショウ!』(ビビアン・デ・コルシィ監督、2014)

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英国王立園芸協会主催のチェルシー・フラワーショウ2002年大会で、かつてない「雑草の庭」を創出して優勝し、ガーデニング界に新風を巻き起こしたメアリー・レイノルズの実話ドラマである。ざっとあらすじを見ておこう。
1974年、アイルランドの田舎で生まれ自然に親しんで育ったメアリー(エマ・グリーンウェル)は、ガーデン・デザイナーを目指してダブリンに上京、著名人を顧客に持つ造園家シャーロットのアシスタントになる。
シャーロットの豪華絢爛なデザインに次第に違和感を覚えていた頃、メアリーは初めて行ったロンドンのチェルシー・フラワーショウで出会った植物学者クリスティ・コラード(トム・ヒューズ)と意気投合。クリスティはエチオピアの緑化や灌漑に力を注いでおり、メアリーと深いところで価値観を共有できる人物だった。

 

「自然と共に生きること」を巡って、若くユニークなガーデン・デザイナーと、エチオピアの灌漑・緑化に挺身する植物学者の、価値観の共有とずれ、一筋縄ではいかない関係性が興味深い。最後まで結構ハラハラさせられます。映像も美しいです。

『ワタシが私を見つけるまで』、『レイトナイト 私の素敵なボス』(連載更新されてます)

バタバタしていて更新が大幅に遅れました。すみません。
「シネマの女は最後に微笑む」第93回、94回のお知らせです。


◆『ワタシが私を見つけるまで』(クリスチャン・ディッター監督、2016)

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原題はHow to Be Single。邦題は個人的には今ひとつ好みじゃないですが、アラサー独身女性の群像を描いた作品としてなかなかよくできてます。
恋人と一旦別れてニューヨークに出たヒロインが出会っていく人々の背景が興味深く、一つ一つのエピソードに捻りが効いてます。会話をはじめとした細部が光っており、それぞれの最終的な選択、落ち着き方にも好感が持てます。特に30歳前後の方にお勧め。
ヒロインはダコタ・ジョンソン演じるアリスですが、友人ロビンを演じる、コメディエンヌとしてのレベル・ウィルソンが、非常にキレがあって面白い。

メラニー・グリフィスの娘ダコタ・ジョンソンは、顔の雰囲気がイザベル・アジャーニにちょっと似ていると思いました。たまにアン・ハサウェイも入るかな。コスチューム・プレイが見てみたいです。

 

◆『レイトナイト 私の素敵なボス』(2019)

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著名な女性TV司会者と男ばかりの部下、そこに「多様化枠」で形式的に採用される一人のインド人女性‥‥。どこでも叫ばれるようになった「多様性」の実質を、アイロニカルに描く快作。
司会者キャサリン役のエマ・トンプソン、生き馬の目の抜く業界でトップに上り詰めた女性の剛腕、奢り、融通の効かなさ、裏と表のギャップを、これでもかというほどリアルに演じています。

彼女に憧れるインド人モリーを演じるミンディ・カリングは、実にチャーミング。
そして、ボスには戦々恐々としつつ、モリーを歯牙にもかけなかったライターチームの男たちが徐々にですが変わっていくさまも、ユーモアをもって見事に捉えられています。

面白いです! 

 

『私をくいとめて』、『ポルトガル、夏の終わり』(連載更新されています)

どっか行っちゃってた夏が戻ってきて、ちょっとお暑うございますね。
「シネマの女は最後に微笑む」第91回、92回のお知らせです。


◆『私をくいとめて』(大九明子監督、2020)

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同じ原作者(綿矢りさ)と監督の『勝手にふるえてろ』と同様、独身女性の自意識との戦いを描いたドラマですが、エピソードは若干盛り込みすぎかなとも感じるものの、より冒険的でポップな味に仕上がっています。
主演ののんの素晴らしさを満喫できます。相手役の林遣都も初々しいし、配役は隅々までばっちり。のんの恋を示すものとして、「揚げ物」に注目してみました。

ネタばれですが、ラストに大瀧詠一の『君が天然色』が使われています。よくぞこの曲使ってくれたという感じがします。みずみずしく多幸感溢れる楽曲の効果と相まって、実に鮮やかなエンディング。


勝手にふるえてろ』については以前書きました。

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◆『ポルトガル、夏の終わり』(アイラ・サックス監督、2019)

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イザベル・ユペール主演。さまざまな人間模様を描く、淡々として滋味に満ちた大人の映画。
ポルトガルのシントラという遺跡の多い古い避暑地が舞台で、映像が非常に美しいです。マリサ・トメイブレンダン・グリーソンなど脇の人々も安定の良さ。

主役の「大物女優」の役は、イザベル・ユペール以外の誰がやっても重さやアクが出てしまうのではないかと思います。あまり貫禄がある人はダメでしょう。まさにユペールのような、痩身でクールな威厳の中に微かな棘を潜ませることのできる女優に相応しい役。
なんだかんだ言ってイザベル・ユペール大好きです。

 

本連載内で扱った他のイザベル・ユペール主演作品は、以下の二作。エキセントリックな、あるいは病んだ役で輝く彼女ですが、中でも私の一番好きな『ピアニスト』は、著書『あなたたちはあちら、わたしはこちら』で気合い入れて書いてます。どうぞよろしく。

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※書籍のご紹介

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『デンジャラス・ビューティ』、ミスコンを巡る笑いのバランス(連載、更新されています)

連日、お暑うございます。
次まで少し間があいてしまうので、「シネマの女は最後に微笑む」第90回のお知らせしておきます。

 

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サンドラ・ブロック主演のサスペンス・コメディ『デンジャラス・ビューティ』(ドナルド・ペトリ監督、2001)。懐かしいって人、多いですよね? ちょうど20年前の作品になりますが、定番の展開ながら今見ても十分面白いです。

ミスコンの扱い方にバランス感覚が発揮されています。テキストでは言及していませんが、ステージから恋人への愛を叫ぶレズビアン女性とか、放送局での上司と部下の感覚のズレとか、細部までよく考えられているなと。
そして、マイケル・ケインの「ヒギンズ教授」が嵌り役。最高ですね。

 

疲れることの多い毎日ですが、さっぱりした笑いをどうぞ。

 

会田誠の作品について(5/1トークより抜書き)

去る5月1日、大阪で行われた合宿勉強会「集まるのが大事vol.2」(テーマ=反抗)の二日目に登壇し、以下のような内容で90分ほどのトークをした。 

 

「反抗 vs 反抗 」の外へ―性的表現と性差別批判の弁証法


【概要】
美術に現れる女性の裸体表現は、かつては神話の文脈と宗教の縛りの間にあったが、次第にその制約を離れ、個としての性表現へと変化・多様化してきた。一方フェミニズム批評による美術史の読み直しにより、作品中の男性視点や性規範が指摘されるようにもなった。近年は強い反発と撤去要請が起こるような事案も散見される。
議論を呼んだ主な女性ヌード表現及び批判の文脈を辿り、「反抗 vs 反抗」の隘路から「外」に出る視点について考える。


【内容】
 ① 「女を見る」をめぐる男/女の非対称性
 ② 西洋美術における女性ヌードの位相
 ③ 近代日本の西洋美術、性道徳の受容
 ④ 「性差別」という批判の始まり
 ⑤ バルテュス会田誠への抗議
 ⑥ 抑圧・規範・権力への「抵抗」とは
 ⑦ 反映論と還元論
 ⑧ 「<女>は存在しない」

 

ここでは最近Twitterの一部でまた話題になった森美術館における会田誠の作品*1についての解説と、それに直接関わる箇所を抜き出す(この原稿はトークの前に作っておいたものであり、実際のトーク内容とほぼ同じである。ポイントは太字で示した)。

 

 

 [前略]

「女性像を見る」ということにおいては、当然ながら男/女の性の「非対称性」がはっきりと現れます。

アートにおける性表現をめぐる問題の、最大のネックはここにあります。これはつきつめていくと、男/女という二項の、決定的な「出逢い損ね」の問題に帰着する、という仮説をここでたてておきます。

それは異性愛者だけの問題で、それ以外のセクシュアリティを無視しているのではないか?という意見もありましょうが、そういうことではありません。

男/女という分別は、この社会や文化や個人の心理など、あらゆるところに浸透している、有形無形の制度です。もちろんそこから比較的自由な人もいるでしょう、でも、性が1ではなく2であるという現実から逃れることは、やはり非常に難しいことです。

それから、私の語りは男女の違いを強調することで、今ある男女の分断を促進するのではないか?という意見もあるかもしれません。それについては、分断を結論とするのではなく、むしろ分断から始めるべきというスタンスです。

男/女、二項のスラッシュの部分、この分断、断絶の意味を一旦受け入れた上で、性について深く考えられるかどうかが肝だと考えています。

 

 [中略]

 

森美術館会田誠「天才でごめんなさい」

2013年から翌年にかけて六本木の森美術館で、会田誠の大型回顧展「天才でごめんなさい」が開催されました。この展示について、ある人権団体から抗議が上がりました。これはメディアも取り上げたりして当時かなり大きな話題になりました。とりわけ問題視された作品の中から、5枚ほど見ましょう。会場では断り書きがありゾーニングされています。

(スライド)※ここには画像を貼らない。確認したい人は要検索。

会田誠 <<犬(雪月花のうち”月”)>>1996
会田誠 <<犬(雪月花のうち”雪”)>>1998
会田誠 <<犬(雪月花のうち”花”)>>2003
会田誠 <<とれたてイクラ丼>>(「食用人造少女・美味ちゃん」シリーズ)2001
会田誠 <<ジューサーミキサー>>2001

 

抗議した団体であるポルノ被害と性暴力を考える会(略称PAPS)は、プリントの資料2フェミニズムの流れとポルノフラフィ批判の中で名前を出しています。その抗議文と森美術館の回答文をプリントしたものがあると思いますが、全部読むのは時間がかかるので今は太字にしたポイントだけざっと目を通してください。(プリントを読んでもらう)

▶︎森美術館への抗議文
https://old.paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement/
▶︎森美術館の回答
https://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html
▶︎森美術館HP上の作家のコメント
https://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html

 

まずPAPS側の熱量に対して、美術館は冷ややかですね。非常に一般的なことしか言っていません。会田誠のコメントもごく穏当です。現代美術作家なら、だいたい皆こうした答え方にならざるを得ないでしょう。この書簡のやりとりの後、PAPSと森美術館とで対話の場が持たれたそうですが、完全にすれ違いに終わったということです。

PAPSはおそらく、これらの作品が美術作品ではなくイラストで、成人向けとして書店にあるだけならここまで言わなかったでしょう。アートとして美術館に展示されているから抗議となったんですね。つまり「アートは良いものであるはずなのに、なぜ性差別や暴力を肯定的に描くのか?」と言っている。

一方美術館は、「アートは多様なものの見方を提供してくれる良いものだ」と言っている。
どちらもアートは良いもの、では共通しています。もっといえば、「芸術は万人のためにある」とか「芸術に触れると精神が豊かになる」という近代以降生まれた芸術への信仰を、両者は一定限度共有しているんですね。

むしろ芸術の側がそうやって啓蒙してきた結果、PAPSのような人々の目にも触れることになったわけで、まあ半ば自ら招いた事態とも言えます。

 

もう一つ、両者に共通している点があります。

まずアーティストの側、会田誠もそうですし先程取り上げたバルテュスも、またクールベにしてもマネにしても皆、それぞれの時代の性道徳や規範に対しては意識的です。そこで作品がどういう効果をもつのかについても、自覚しているということです。そうやって社会を覆っているものの見方あるいは規範に否をつきつける、抑圧や権力に反抗、抵抗する姿勢は、モダンアート、コンテンポラリーアートの王道であり、宿命でもあります。

一方、批判する側も、それらの作品は社会の中心にいる男性の価値観や視点で描かれたものだ、女性をある性的イメージの中に押し込める差別的なものだ、としている。PAPSの批判は単純で一面的だと私は思いますが、自分たちは抗議を通して性的な差別抑圧に抵抗していると彼らは考えていると思います。

つまり対象が違うだけで、どちらも自分にとっての性の規範や権力に反抗、抵抗しているんですね。どちらも自分は抑圧を受ける側、加害者/被害者でいえば被害者側にいて、自分の上に「性とはこういうものだ」というマジョリティの規範や権力がある、という設定になっている。

そういう態度を精神分析ではヒステリーと言います。これは必ずしも悪い意味ではないのです。抑圧に抵抗することは大事ですからね。ただ、権力や規範に対して下の位置から問いかける立場というのは、相手がまず主体としてあって、自分はそのアンチということになります。アンチというのは、相手がいないと成り立たない副次的な立場です。そしてヒステリー者の問題は、このアンチ、抵抗するというポジション、被抑圧者の副次的な立場を手放せなくなっていくということです。それによって権力との関係に依存し、関係を固定化してしまうんですね。

そういう意味で両者は似ている。だからこそすれ違い、闘争も終わらない。

 

では次に、両者の違いを見ましょう。

批判側の論理は反映論です。

作品は社会に起こっている出来事や作家の心理、感情を、そのまま反映させるものだ。性差別や暴力をそれが罰せられていないかたちで描けば、それを肯定していることになるのだ、という考え方ですね。図像をそのままベタに受け取ると、そうなるでしょう。意外と、美術に対してこういう素直な見方をしている人は多いです。

一方、アート側の論理は還元論です。

作品は現実の素朴な反映ではない。現実の要素を抽出し、一回操作を加えて再構築し、普遍的な何かに還元しているのだと。それを理解するには、作品のコンテクストを読めとよく言われます。具体的に言えば、描かれたものをただそのまま受け取るのではいけなくて、この場合だと「女の子がこんな目にあってる。ひどい」と反応してはならないということです。いや、してもいいんだけど、そこで止まってしまうと作品を見たことにならない。

 

では少し作品を細かくみましょう。

この一連の作品は「犬シリーズ」と呼ばれ、<雪月花>と名付けられています。雪、月、花です。自然美の代表として言われる言葉で、日本画でもよく描かれるモチーフです。まず現代美術作家が、そうした伝統的な日本画の題材をわざわざ借りてきている、しかもいかにも日本画風な描き方で描いている、というその問題意識が注目点です。

会田誠は東京藝大の油画出身です。うまいですよね、絵が。私は少し上の年代ですが、会田誠が芸大に入った頃も、油画の倍率は40倍近くあったと思います。なのでこれは、もともとうまい上に美術予備校で鍛錬して入った、ある意味では優等生的、東京藝大的な絵のうまさです。必要に応じてうまくも描けるしヘタウマもできる、非常に達者な画家ですね。

それから「美少女」は会田誠の主題の一つですが、日本の現代社会における「美少女」の特権的な位置付けがその背景にあります。日本ほど美少女イメージに溢れた国はないですからね。

会田は、「美少女」と大きく描かれた字を見ながら、自分がマスターベーションし射精に至るという映像も作品にしています。字だけで妄想するんです、チャレンジャーですね。つまりそこで「美少女」はもはや、一つの観念に還元されているということです。

この絵の、少女が首輪をつけられ四肢を寸断されているさまは非常に猟奇的ですが、SM雑誌とか昔のエログロ系の雑誌などに登場する典型的なかたちの一つです。それが意識して選ばれている。

つまり、日本画の伝統的形式と、サブカル猟奇趣味を、「美少女」という特権的な記号のもとに結びつけ、一つのイメージへと還元させている作品であり、そのやり方が大変巧みである、ということになります。さまざまなジャンルを横断して編集・再構成するのは、現代美術でよく使われてきた手法ですからね。

 

しかし、こういう図式的な説明で満足しない人は当然いるでしょう。いろいろ手法を使ってはいるのはわかるけれども、結局自分の倒錯的な欲望を、露悪的に作品に表出させているのではないかと。会田誠については、よく露悪的だという指摘がされます。ザワつかせるとわかって、あえてやってるねってことです。

しかし、ある種の男性の作り手においては、自分の性的欲望のあり方と表現が切り離せず、あたかも「症状」のように作品に現れてしまう、ということがあると思います。バルテュス会田誠作品には、当然そういう面もあるでしょう。作品は意識的、知的に構築されているけれども、ある部分は無意識です。もちろん無意識の部分がなかったら、表現なんか成り立ちません。

作品は作り手の「症状」である、ある欲望のあり方を複雑な回路を経て症状として示すものであるという見方は、別に私個人の意見ではなく、美術以外のジャンルでも使われている精神分析的な見方ですが、非常に重要なものだと思います。

従って、「世間で言うところの猥褻性や女性差別といわれるような要素があっても、作り手がそれを作品内で批判的に描いたり相対化したりしていればいいんだ」といった簡単なものではないのです。そんなことはできないから「症状」になるのです。

 

そして、それが一定の女性にとって、「セクハラ」効果となってしまう。そこには、性暴力被害者としての女性の位相が関わってきていると私は考えています。
作品を見た人の個人的体験の中に性暴力被害が含まれていた場合、あるいはそこまでいかなくても、性差別の記憶が蓄積されていた場合、こうした表現に拒絶反応を示すということはあり得るでしょう。

性に関して傷ついた経験、そこでの怒りや屈辱などが深くその人の中に刻みつけられていると、こういう作品を見て反射的にトラウマや怒りが蘇ってしまう。そして「かつて傷つけられたあの経験は決して忘れられないし、忘れてはいけない。でも、他人がそれを思い出させるのは許さない」となってしまう。それはその人の責任では無論なく、そういう回路が自動的にできてしまうということが、もしかしたらあるのではないか。
ネットで炎上するケースも、こうした感情が根底にある人が声をあげていることが多いのではないかと思われます。

 

女性を描いた表現を女性が見た時に何が起こっているか、もう一度整理してみます。

まず女性の方は、描かれた女性イメージと自分が同じ性別であることを認識する。しかし対象は現実の個別の女性である自分とは違って、既になんらかの抽象化、取捨選択を経たファンタジーです。それは社会や文化の影響を被っており、そこには男性の視線がまた何らかのかたちで溶かし込まれている。

女性は当然それを感知する。この社会ではそうした女性イメージを通して自分が見られているかもしれない、とそこで女性は感じるわけですね。

一方で、その抽象化されたイメージと自分の個別性とは、常にずれもある。ここで女性の自我は引き裂かれる。引き裂かれを辛いと感じる人は違和感や抵抗感を表明するでしょう。一方、引き裂かれを回避し安定するために、「女」を見る視線を内面化する、あるいはこのイメージに自ら近づくということも起こります。

イメージにもよりますが、そうしている女性は案外いるのではないかと思います。スライドで出てきた<鏡のヴィーナス>はまさにそのことをストレートに構図化したもので、男性が自分を見ているのを鏡を通して確認し、その視線によって自分の女性性なり美しさなりを自覚している、という図でした。

 

主として男性の手によるこうした「女」のファンタジーは、古今東西あらゆるところで山ほど生産されてきました。聖女から毒婦、母なる女性から汚れのない乙女まで非常に多種多様です。

女性も男性をファンタジー化します、たとえばBLはそうかもしれません、が、歴史を見るとやはりその量やバラエティにおいては、圧倒的に男の生産してきた女性像に敵いません。まるでヘテロ男性という存在に、「女をファンタジー化する」というアプリがインストールされているかのようです。

いずれにしても、幻想を通してしか両者は接近し得ない。そして幻想とはいつか崩れるものです。崩れるから何度も何度も再構築され、夢見られるわけですね。

 [以下略]

 

 

●配布した資料の一部

【資料2】

フェミニズムの流れとポルノグラフィ批判

 

●第一波フェミニズム

 19世紀末から20世紀前半にかけて、女性の相続権、財産権、参政権を求めた運動

 例:サフラジェット‥‥イギリスの闘争的な女性参政権獲得運動

 ▶︎第一次ポルノグラフィ批判1800年頃から1920年代にかけ、アメリカにおいて、男性に対して女性の道徳的優位を主張するための、キリスト教系女性団体による性表現規制運動

 

●第二波フェミニズム

 1970年前後から「個人的なことは政治的である」をスローガンに、妊娠中絶の自由、性暴力の告発、労働の男女間平等など、さまざまな性差別を問題化し社会的な抑圧全体を問い直した女性解放思想・運動

 ▶︎フェミニズム批評:文学作品に隠された女性蔑視を解き明かし、テクストにおける性差別を撤廃しようとするもの。美術においてはアメリカの美術史家リンダ・ノックリンの論文「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」(1971)が先鞭となり、男性に偏重した美術制度や女性の作品に対するステロタイプな位置付けの見直し、新たな女性作家の発掘などが行われた。

 ▶︎第二次ポルノグラフィ批判:ポルノに出演した女性の被害、ポルノによる性犯罪の助長、女性蔑視の再生産などを理由とした反ポルノグラフィ運動(アンドレア・ドウォーキン、キャサリン・マッキノンなど)

●第三波フェミニズム

 1990年代から2000年代、第二波フェミニズムを批判的に継承し、人種やセクシュアリティ、ポストコロニアリズムなどの問題の重要性を強調しつつ、多様性や「私らしさ」という個性を追求する思想・運動(他、クイア・フェミニズムトランスジェンダーetc)

 例:ライオット・ガール‥‥1990年代初頭にアメリカで始まったフェミニストによるパンクやインディー・ロックおよびフェミニズムと政治を組み合わせたサブカルチャー運動

 

●第四波フェミニズム

 2010年代以降、主にSNSを舞台としたフェミニズムの大衆化(一部保守化?)を指し、未解決となっている第二波フェミニズムの問題提起を広く共有しようとする傾向が見られる。

 例:#MeToo

 

 

※文中の作品解説は、特に私独自の視点が入っているものではなく、美術作品を観るにあたっての基本的な見方であり、図録『天才でごめんなさい』テキストも一部参照しているが、これだけが正解だと言うつもりはない。

 

●参考ツイート

 

●参考記事

ohnosakiko.hatenablog.com

ohnosakiko.hatenablog.com

 

 

*1:また話題を呼んでいる「表現の不自由展」の実行委員会の中心メンバーが森美術館への抗議者側であり、あいちトリエンナーレの際、会田家(会田誠一家)の作品「檄」を展示に入れることを強く拒んだという事実が、Twitter上で津田大介氏によって改めて明かされたということが背後にある。