2007-01-01から1ヶ月間の記事一覧

日本の純愛史 6 純愛と吉永小百合 -戦後 (2)

昭和三十年代から四十年代にかけては、純愛ものが続々と登場してくる純愛黄金期である。その純愛時代を象徴する花形映画スターが、吉永小百合。 それについて述べる前に、純愛とは趣きの異なる戦後カルチャーの話題物件をざっと見てみよう。 昭和二十二年(…

「恋人」を作ろう、または無血革命への道

昨日の記事のブクマで、kmizusawaさんに指摘を受けたので、少し考えてみた。 「恋愛しないことの喜び」→「一人でいることの喜び」は、恋愛から降りている非モテの人の(求める)感覚なのだろう。私はそこに思い至らず、恋愛という男女関係に替わるものは、友…

恋愛しないことの喜び

「恋愛することの喜び」というものがある。もうあらゆる媒体で嫌というほど描かれてきた。 「恋愛することの苦しみ」というものもある。これも小説や映画では結構描かれてきた。 この二つは既に定型化され、あらゆるバリエーションを生み出している。 さて、…

日本の純愛史 5  国民的ドラマの登場 -戦後 (1)

戦前から戦後にかけての大衆娯楽は、映画と芝居とラジオである。そこで楽しまれるエンターティメントは、戦前なら「お国のために一身を犠牲にすることをいとわない」ナショナリズムが台頭した中での束の間の息抜きであり、戦後は、生活を立て直し明日に希望…

「惚れたが悪い」という言葉

最近やたらと話題になっているこの匿名記事。 親密なふるまいを見せる女性に、これは自分に気があると判断して告白したら空振りで、裏切られたような気になったという話である。 ブクマではこの男性に同情的な意見が多い。概ね、小悪魔に振り回された純朴な…

男たち

PCに向かって中々進まない原稿書きに唸っていた数日前の深夜一時、携帯が鳴った。 「もしもしー、もう寝てた?」 「起きてたよ」 「もうちょっとしたら帰るけどー、なんか買ってってほしいものある?酒とか」 「えっとねぇ、ビールがいいな」 「へーい、じゃ…

日本の純愛史 4 純愛の二極化 -昭和初期

昭和八年(一九三三)、「一身を犠牲にすることをいとわない」極めつけの純愛小説、谷崎潤一郎の『春琴抄』が登場する。江戸末期、盲目のお嬢様の春琴と、彼女に献身的に仕える丁稚の佐助の物語。春琴抄 (新潮文庫)作者: 谷崎潤一郎出版社/メーカー: 新潮社…

日本の純愛史 3 恋愛結婚と純愛 -大正時代

大正期は、貞操を巡る議論が活発になった時代である。 大正三年、雑誌『青鞜』を中心として貞操論争というものが勃発。女がパンのために体を売るのは是か非か?という一人の女性のリアル体験の問いを発端として、『婦人公論』『平凡』など他の雑誌媒体にも飛…

日本の純愛史 2 恋愛至上主義と『野菊の墓』 -明治時代

日本人が初めて「恋愛」という言葉に出会ったのは、明治時代である。 その頃恋といえば、元禄あたりからずっと続いていた男の「色道」を指していた。男の「色道」の相手は"素人"つまり堅気のお嬢さんではなく、"玄人"。芸者、女給、踊りの師匠、女優の卵など…

日本の純愛史 1 少年愛と「情熱恋愛」 -恋愛至上主義の曙

純愛とは「一身を犠牲にすることをいとわない、ひたむきな愛情(世慣れしていない男女について言う)」であると、新明解国語辞典にはある。 「純粋な愛。ひたすらな愛」(広辞苑)。 「邪心のない、ひたむきな愛」(大辞林)。 恋愛のイメージとは異なるが、…

連載のお知らせ 日本の純愛史 -恋愛至上主義再考のために

昨年「非モテ論壇」界隈で散見された恋愛至上主義批判。私も当ブログで少し触れてみたが、どうも抽象論に終始しがちな感じであった。恋愛至上主義(恋愛を人生最高のものとする価値観)なんて今時どこにあるの?という疑問も見られた。 恋愛至上主義はかつて…