下駄の季節

昭和30年代後半から40年代が私の子ども時代で、当時、普段履きに下駄を履いている人がまだ普通にいた。きものや浴衣だけでなく、洋服の普段着に下駄を履く。 家の玄関の上り框にはいつも、父の大きくて四角い朴歯の下駄があった。子どもの頃から下駄を履き慣…

父の呪い、母の背中

これまでの著作も読んでいて、今回の本を読んだ友人に言われたこと。「お父さんの話はよく出てくるけど、お母さんの話はないね。ちょっと不自然なくらいない。何故?」。言われてみるとそうなのだ。私は「父の娘」だから、というだけなのか。これもちょっと…

再掲『海とマリ ― 少女の思い出』(二十歳の時に戦争を体験した父の書いた話)

愛知県立旭丘高校の教員で童話部の顧問をしていた父が、1967年頃に生徒の求めに応じて部誌に投稿した短編。父はいくつかの少年少女向けの読み物を書いていたが、その中でも父自身の思い出と、幼い頃の私の記憶が重なった作品として、心に残っている。 この小…

44年目の『鳥の歌』

クラシック音楽の愛好家だった生前の父は、若い頃にバイオリンを齧っていたが、それより好きな楽器はどうやらチェロであったらしい。女の子が生まれたらピアノ、男の子が生まれたらチェロを習わせたかったと(私が女の子だったのでピアノになった)。 もちろ…

無宗教で弔うこと

国や地域や宗教によって、さまざまなかたちを取るお葬式。日本では仏教形式で行われることが多い。これまで私が参列した葬儀は9割方、仏式だった。あとはキリスト教。亡き伯父と伯母がクリスチャンだったからだが、では仏式で弔われた人々は皆仏教徒だった…

母のこと

毎週1回、仕事帰りに父のいる老人ホームを訪ねているが、時折「さっきお母様がいらしてましたよ。入れ違いでしたね」と言われることがあったりして、たまには時間を合わせて一緒に父を見舞おうということになった。 講義が終わり急いで昼食を済ませて行くと…

「偉い男」ほど厄介なことになる

父が入居している有料老人ホームの、介護士の人に聞いた話である。 「施設に入って認知症が急速に進むのは、女性より男性です。その中でも多いのが、会社の社長さんとか学校の先生。社会的には「偉い立場」で、ずっとこれまで自分が指図する側で来た人ですね…

描くこと、似た人

見送りの準備 [父]タグのダラダラ長い記事に100以上もブックマークのついたのは初めてで、ちょっと驚いた。 その中の一つ。 elve <妄想>コレ描きながらも泣いてそうだなぁ、と思った。楽しくて哀しくて大変な作業だったろうなぁ〜。</妄想> 2013/10/05 …

見送りの準備

これまでのところ幸運なことに私は、家族やペットなど親密な対象にある日突然死なれたことがない。祖父も祖母もほぼ平均寿命をまっとうして死に、飼い犬も老衰で死んだ。そこまで年老いていない身内の人々は、まだ皆生きている。その中で、今一番確実に死に…

「男の子」は高いところばかり見ている(あるいは昔、飛行機乗りだった父へ)‥‥『風立ちぬ』感想

”ほっこり感動系の泣けるイイ映画”ではない。もうやりたい放題。すさまじいエゴの嵐。それを「だって仕方ないでしょ、美しいものが好きなんだもん」でぐいぐい押していく。ワクワクするようなドラマの面白さもない。観ている間中、不快だった(いい意味で)…

介護される犬、介護される人

犬 (1) かなり前から足腰が弱っていたうちの老犬16歳は、ほとんど自力で立ち上がることができなくなった。敷物が敷いてあってもいつのまにかずれていって、コンクリートで擦ってしまうのかあちこち擦り傷ができ、医者からもらった薬を塗っている。寝たま…

75歳の「おねえちゃま」とホームの人々

老人ホームの父のいるフロアに入居している高齢者は20人ほどで、女性が多く平均年齢は90歳だ。 母と私はわりとしばしば父の見舞いに来ているので、同じフロアの人々とはすっかり顔馴染みになった。 特に、愛想が良く、目が合えばいちいち丁寧に頭を下げて挨…

介護とお金と幸せ

有料老人ホームに入居している父の見舞いから帰ってきた母が電話で、「相変わらず言葉はほとんど出ないし寝てばっかりだけど、お父さんは幸せだと思ったわ。あんな暖かくて快適なところできちんと食事をさせてもらって、体も髪も爪も歯もきれいにしてもらっ…

父と言葉と『月光』第三楽章

記憶と言葉を失ったと思われていた施設の父に、言葉がほんの少しだけ戻ってきた。 てんかんを押さえる薬のせいで常時軽い麻酔がかかったような状態になっていた父は、今月初めに病院で薬を少し調整してもらい、その数日後、母のいつもの「お父さん、私は誰?…

介護の勉強を始めた

今年に入って介護の勉強を始めた。当面はホームヘルパー2級の資格を取るのを目標にしている。 自分がそんなことを考えるようになるなど、1年前までは想像もしていなかった。老いや介護問題がいずれ自分の身に降り掛かってくることはわかっていたとは言え、…

父の手とオリオン座

老人介護施設に入所して5ヶ月、今月7日には「ハイ」「ネコ」「サキコ」という単語しか発せなくなっていた父は、その一週間後に訪ねた時、一切の言葉と表情を失っていた。 数日後、スケッチブックとサインペンを持って再び訪ねた。いつも書き物をしていた父…

言葉の抜け殻と紙の帽子

このところは毎週金曜日に、仕事の後で実家に寄って母をピックアップし、介護施設の父を訪ねるのが習慣になっている。 昨日、他の老人がテレビを見たり、クリスマスの飾り付けをスタッフの人と一緒に作っている食堂の中で、父は一人だけ離れたところで窓の方…

縮んでいく人

既に通い慣れたと言っていい感じになってきた老人介護施設の、父の入居しているフロアに上がり、この時間帯ならいるはずの食堂を覗くと、車椅子の父は見当たらなかった。部屋かな?と個室を覗いても、もぬけの殻。 おかしいなぁと食堂に戻りつつ、ふと今通り…

車椅子を押して

昨日、昼で終わった仕事の後、介護施設の父を見舞った。食堂のテレビのすぐ前に、車椅子に乗せられた父がいた。勝手に立とうとして転ばないようにシートベルトをされていた。声を掛けると、夢から醒めたような顔をして私を見、片手を上げた。 「今日は一人で…

父が施設に慣れるまで

老人養護(介護)施設に入った人がその環境に完全に慣れるまでに、平均して一ヶ月くらいかかるという。しかし8月半ばに入所した父はいまだに気分の波が激しく、いろいろ問題行動を起こしているようだ。 それというのも、入所して10日、少し慣れ始めた矢先に…

父と唱歌

介護付き有料老人ホームに入所して一週間になる父87歳を、先日の月曜日、初めて一人で訪ねた。実家の母はこれまでのバタバタが一段落ついたところで、疲れが出たのか熱を出して寝ている。夫が一緒に行く予定だったが、一人で行くことにした。一人で行きたい…

1964年の夏、波にさらわれたビーチボールの話

海とマリ ― 少女の思い出 それは、わたしがまだ五つぐらいの女の子だったころのことです。 そのころ、わたしのおとうさんは、とても遠いところにある学校の先生をしていました。その学校は、きれいな海のそばにあるので、ある夏の日に、おとうさんは、わたし…

父との会話

入院中の父を夫と見舞いに行った。ちょうど昼食が終わったところで、父はベッドの上に起きていた。 「お父さん、気分どう?」 「‥‥‥ああ」 「お昼、全部食べた?」 「‥‥ここの食事は、おいしくない」 父は言葉がスムーズに出てこないようだった。目を瞑って…

「お母さんを、抱きしめたい!」と父は大声で言った

先日、父(87歳)は原因不明の激しい痙攣を起こし、意識不明となって救急車で運ばれた。救急車で搬送されるのは先月、先々月に続いて三度目だ。連絡を受けてようやく病院に駆けつけると、憔悴しきった顔の母(75歳)が入院の荷物を脇に、ポツンと廊下のベン…

老いるということ

15歳になる飼い犬がいる。飼い主の無知と怠慢で12歳の時フィラリアに罹ったが奇跡的に助かり、薬を飲みながら生き長らえてきた。雑種の中型犬。それがこの数年で、すっかり老犬臭くなった。人間にしたら80歳を超えているのだから当然だ。おまけに心臓が弱い。…

『長距離列車の少女』

長い汽車の旅だった。真一のお祖母さんが死んだという電報が来て、真一の父親は九州の熊本にある郷里へ行くことになった。ちょうど夏休みだったので、真一もついて行くことになり、母親とまだ幼い妹を残して、九州への旅に出たのだった。もちろん、真一はそ…

義父の従軍記

数ヶ月前、夫の実家に行った時、義父が「実は自伝を書いておってな」と言った。 「自伝って子どもの時からの?」と訊くとそうではなく、戦争に行った時のことを思い出して書いていると。 義父は毎年ずっと「戦友会」に出席し、長い間幹事もしているらしい。…

父の団扇

三ヶ月ぶりに、車で一時間半の実家に親の顔を見に行った。ボケの入ってきた父に毎日苛ついているらしい、母の相手をする。キッチンのテーブルで喋っていると、居間で横になって休んでいた父が起きてきた。 「体調はどう?毎日暑いね」と声をかけた。父は「暑…

父と芸術

子どもの頃、私に芸術への志向を植え付けたのは父だった。 父は一介の高校の国語教師だったが、ロマン派の音楽とルネサンス絵画を人類最高の芸術だと信じ、またロダンの彫刻と飛鳥の仏像をこよなく愛していた。 父の書斎には、広隆寺の弥勒菩薩の写真が飾っ…

父とパセリ

年内に一度、親の顔でも見に行ってと思い名古屋に出たついでに実家に立ち寄ると、84歳の父は早めの昼食の最中だった。 父はコーンポタージュスープが好きで、食卓に置いたパセリの束から少し千切っては、葉を几帳面に鋏でチョキチョキと細かく切って、スープ…