80年代の名古屋に「アートシーン」はあったのか

以下は3年ほど前、「80年代のオルタナティヴなアートシーンについての資料集を編纂するので、当時の名古屋の状況について書いてほしい」という、知り合いの東京の美術関係者の求めに応じて書いたものです。結果的にその企画は頓挫し、私の原稿は宙に浮いた状態になっていたので、ここに公開しておくことにします。
82年に藝大彫刻科を卒業し名古屋に戻ってきた私の眼から見た「シーン」であり、自分語りもそこそこ入っていることをお断りしておきます。

80年代の名古屋に「アートシーン」はあったのか –––––––– 大野左紀子



いくつもの現代美術のコマーシャルギャラリーが国内外の有名作家を取り扱い、コレクター人口も多く、80年代後半から90年代前半にかけて非常に盛り上がっていた‥‥そういうイメージで語られることの多い名古屋。確かに「現代美術は名古屋」と言われた時代があった。
もちろんそれは名古屋の画廊業界の「商業シーン」であり、作家たちの中から生まれてきたオルタナティヴな美術潮流という意味での「アートシーン」ではない。では、そうしたアートシーンは、80年代の名古屋にあったのだろうか。


ここでは最初に、80年代冒頭までの名古屋の概況を見た後、82年から88年頃までの状況を語ってみたい。アーティストになりたてだった一個人から見た名古屋の風景であり、出来事の漏れもあるだろうことはお断りしておく(以下、個人名の「氏」は省く)。



1. 80年代冒頭までの状況


この地に公立の芸大である愛知県立芸術大学(略して県芸)が開校したのが66年、次いで翌年、名古屋造形芸術短期大学(略して名造形、今は四年制)、その翌年に名古屋芸術大学(略して名芸)が開校した。
画廊は、桜画廊(今はない)が74年に唯一の貸し画廊から現代絵画、彫刻を扱う企画画廊となった後に、若い作家の実験の場としての性格をもったスペースや画廊が幾つかオープンする。


まず、反万博、反日展など「美共闘」の活動をしていた鈴木敏春らが、74年に「8号室」というフリースペースを立ち上げ、同世代のアーティストや後に評論家となる三頭谷鷹司らが集まる。
76年には彫刻家の国島征二の尽力でギャラリーUがオープンし、83年まで評論家中村英樹企画で若手中心の展覧会を行った(名造形で教えていた中村氏は78年に東京芸大油画科榎倉教室で特別講義をしており、その時の川俣正や保科豊己らとの出会いが、後にA.S.G.という私も関わることになるギャラリーの企画へと繋がっていく)。
U通信というフリーペーパーには、宇佐美知恵丸、三浦幸夫、林まさみつなど、50年代前半生まれの作家たちが寄稿している。Uの作家たちは「8号室」とも交流があったようだ。
77年には名造形の第一期卒業生である小塚夫妻が、企画とレンタル二本立てのギャラリー・ウエストベス(現・ウエストベスギャラリー・コヅカ)を立ち上げる。


こうして70年代末には、上記の二つの他に、ギャラリー・ユマニテ、ボックス・ギャラリー、伽藍堂ギャラリー、ギャラリーはくぜん、ギャラリーたかぎ、アキライケダギャラリーなど、コマーシャルギャラリーも含めて10軒ほどのギャラリーが、名古屋の中心街に存在していた。



2. 先行世代への違和感

 
大学受験を機に上京し、予備校と藝大時代の合わせて5年間を東京で過ごして私が名古屋に戻ったのは23歳、1982年の春。
当時の名古屋の現代美術の傾向を大雑把に言えば、抽象絵画と彫刻、コンセプチュアルアート、ミニマルアート、もの派の流れを組む立体が混在しているという雰囲気だった。
1921年代生まれの彫刻家、久野真が名古屋の現代美術界の大御所であり、その下の世代ではコンセプチュアルアートの水上旬、布の空間彫刻の庄司達、石彫家の石黒、現代陶芸の鯉江良治、そして更に下の国島征二や久野利博など、30年代から40年代生まれの中堅作家の存在感が強かった。


同世代の人々の動向はよくわからず、出身高校の美術科から地元の芸大に進学した同級生からも、仕事で行っていた河合塾美術研究所で出会った愛知芸大出身の講師たちからも、「名古屋の現代美術シーン」のような話は聞けなかった。
東京で毎週のように誰彼の展示の話題を耳にし、目の前で新しい美術(美術未満だったのかもしれないが)がうねりをもって動いているという実感を覚えていた私にとって、久しぶりに帰ってきた名古屋はどこかつかみ所のない場所だった。


一年後の83年、A.S.G.というギャラリーで初めての個展を開催したのをきっかけに、徐々に人間関係や場所との関係ができていくのだが、その前の状況について少し記しておきたい。
82年、「8号室」に集っていたメンバー、鈴木敏春、よねずたつひこ、三浦幸夫、鈴木一之によって、美術批評紙「オン・ザ・ビーチ」創刊号が発行される。美術館を初めとする制度への批判姿勢を内包した内容が多く、いくつかのギャラリーに置かれているそれを、U通信と共にいつも読んでいた。


同年の目立った自主企画展としては、11月27日から12月29日まで、栄セントラルパークイベントコートと名古屋市博物館(レンタルスペース)で開催された「WOMEN’S ART NOW 14人から∞へ」が挙げられる。参加者は遠藤喜子、ノブコウエダ、*平林まさこ、*大嶽恵子、山本裕子、*高木豊子、*川上明子、*武谷直子、沼尻昭子、アキサトミチコ、*河内馨子、こじまのブコ、*栗本百合子、*上松真美子(*印は愛知県在住の作家)。
東京では60年前後の生まれの若い女性作家たちが「超少女」などと名付けられていた頃だが、こちらはそれより10歳前後上の作家たちだ。「オン・ザ・ビーチ」2号に掲載されたインタビューで大嶽恵子が、「美術の中で切り捨てられていた大事なものと、女性達との状況とが似ていて、そういうものがうまくいっしょに出て来たらいいなという感じ」と語っている。
展示はもの派やコンセプチュアルアートの流れを汲みつつ、若干ふわっとした表現が多い印象を受けた。この中で私がその後も継続して見ていったのは、結局”女性性”に依拠しない作品を作り続けた栗本百合子だけである。


「オン・ザ・ビーチ」にしてもこの展覧会にしても、一世代上の作家たちの既存の場への疑義に共感するところはあったが、言葉遣いや作品は「コレじゃない」と思った。そこにある「制度への抵抗」の仕方は、私からはあまりに素朴に見えた。



3. A.S.G.という場


さて前後したが、81年に名古屋の中心部からやや離れた住宅街の中にオープンしたA.S.Gは、一階がギャラリースペース、二階が「がらん屋」という居酒屋となっている建物で、店主の蛍川詠子がオーナー、中村英樹が当初の2年間の企画をしていた場所である。
オーナーの意思で、作品を売買する商業画廊ではなく、展示に伴う諸経費はがらん屋の売り上げで賄い、若い作家が自由に実験的試みを行う場としたいということだった。広い室内外の空間に加え、搬入期間二週間、展示期間三週間半という、インスタレーション系の作家にとってはかなり魅力的な場であった。
がらん屋はその主旨に賛同する一般客(特に関心に高い常連客を「がらん屋有志の人々」と呼ぶ)や、建築、演劇関係の人などが集まる特異な空間となっていた。


オープンの81年から82年にかけて、東京からは川俣正、保科豊己、千崎千恵夫、竹田康宏、三宅康郎、田中睦治など芸大油画出身の若い作家たち、名古屋は、庄司達、今井瑾郎、今井由緒子、金田正司、沢居曜子、真島直子など、やはり空間的スケールのある作品を作る若手から中堅作家たちが個展をしている。
まだ私は東京にいた頃なのでそのすべてを見たわけではないが、名古屋の中ではかなり異質な場だったと思う。帰郷して一年、週に3〜4日予備校で働き、残りの日は住まい兼アトリエの小さな借家で制作をするという生活を始めた私は、83年の5月にA.S.G.で初めての個展を開催した。オープニングの夜は二階のがらん屋で、恒例になっている「夜話会」という作家と観客とのフリートークが行われた。


後で聞いた話だが、A.S.G.はオープンから2年を過ぎて、がらん屋の経済問題で一時存続が困難になっていた。この状態について、東京でパレルゴンIIを運営していた三宅康郎から「こちらにはやりたい作家がたくさんいるので企画を持ち込む」「会場維持費を除く展の直接経費を作家負担としては」という提案があり、それを受けて83年度は、名古屋の作家は庄司達、東京の作家は三宅康郎が推薦して年間企画を立てるというかたちになっていた。
この年度にA.S.G.で個展を開催した作家は、(順に)*大野左紀子(5.10〜29)、青木一也(6.7〜26)、*渡辺英司(7.5〜24)、小林良寿(8.2〜28)、岩崎元郎(9.6〜25)、坪良一(10.4〜23)、*磯部聡(11.1〜27)、*大田龍男(12.6〜25)、酒井信一(1.10〜29)、蔵重範子(2.7〜26)、田代睦三(3.6〜25)。


運営母体が明確でない不安定さが常につきまとっていたが、普通の画廊とは異なる一般客(社会)との近さと空間の開放感に惹かれ、私はA.S.G.に積極的に関わるようになった。「満虚空」というフリーペーパー(「夜話会」の記録や展示寸評など)も不定期で発行し始めた。
また、毎月最終金曜の夜を、さまざまなジャンルの人ががらん屋に集まって語り合う日とした。特に、数年上の磯部聰、県芸の学部生だった横川耕介といった自分と近い年代の二人とは、名古屋の状況や美術や場のあり方についてよく議論をした。



4. 自主企画持続の困難


84年1月25日、今後のA.S.G.の運営について、磯部と大野の呼びかけでミーティングが開かれた。参加者は庄司達、今井瑾郎、三頭谷鷹司、大田龍男、横川耕介、磯部聡、大野。
「名古屋の中ではまだアピール度が低い」「客が少ない。特に美術系の若い人の関心が薄過ぎる(なぜか東京の方が関心が高い)」という問題が指摘され、それに対して「運営主体や企画性が明確に見えないからでは」「ただ物理的自由度の高い空間というだけでなく、中心をもって方向性を打ち出していくことが必要では」という意見が出された。
だが誰も「自分が今後企画運営の中心となる」とは言わなかった。多忙な上の世代はもちろん、大学を出たばかりの私にとっても、それはあまりに荷が大きかった。


結局、84年度のスケジュールは有志作家による企画選考ではなく、自主企画の申し込みによって予定を立てることとなり、その実務面を私が引き受けることとなった。
84年度の自主企画で個展を行った作家は以下の通り。*関野敦(4.3〜22)、佐々木悦弘(5.1〜20)、菊池敏直(9.4〜23)、*小島久弥(10.2〜21)、奥野寛明(11.6〜25)、丸山浩司(12.4〜23)、天野豊久(1.8〜27)、*横川耕介(2.5〜24)、平戸貢児(3.5〜24)。
この年の10月に再度経営危機問題が持ち上がり、がらん屋有志の人々の提案で一口五千円の基金を募ることとなり、名古屋、東京などから五十人の賛同基金を得た。


対外的には「有志作家による運営」を謳っていたが、その母体はあまり明確ではなかった。つまり責任者がいなかった。そして依然として経営危機は改善されなかった。
私はがらん屋有志の人々の助けを得ながら実務を続けたが、自主企画はなかなか持ち込まれず(なので知り合いの作家に声をかけたり、自分でパフォーマンスの企画を打ったりした)、観客もあまり増えなかった。
ほとんど一人で書いているフリーペーパー、若い人々の反応の鈍さ、なんとなく遠巻きに見ている感じの名古屋の美術業界。それにしても、この人の少なさは何なんだろう‥‥。こうして、苛立ちと漠然とした孤独感を覚える中で次第に、現状に対する自分の無力さを噛み締めることとなった。


85年度の自主企画は、「IN THE SKY」(5.10〜26/浜島嘉幸企画のパフォーマンス9days/参加者:浜島嘉幸、依田茂理予、金田正司、宇佐美知恵丸、磯部聡、中島智、落合竜家、大野左紀子)、渡辺英司(6.8〜23)、近藤珠実(7.6〜21)、「SUMMER TIME SHOW」(8.9〜18/大野企画のパフォーマンス週間/参加者:ころばぬ先のつえ、西澤武、柳澤穣、真野和彦、石井晴夫、大野左紀子)、福島隆(10.5〜20)、石原寿幸(10.26〜11.10)、木野村竹夫(11.16〜12.1)、宇野女宏平(12.7〜22)。
良い展示や試みもあったが、A.S.Gの初期からすれば明らかに弛緩した、方向性の見えない状況だったと思う。
この年をもって私は実務から退き、個人的な事情も重なってこの場から徐々に足が遠のいた。A.S.G.はその後オーナーの死去まで十年ほどフリースペースとして維持された。



5. 大学の保守性と日グラの影響


なぜ名古屋の若い作家や地元の芸大、美大生たちが、あの場にあまり関心を持たなかったか、DM制作費だけはかかるとは言えここで自分たちの実験をやろうと思わなかったのか、今ならなんとなくわかる。
まずもともとスケールのあるインスタレーション作品展示の場として始まったので、絵画や彫刻が展示しづらいイメージがあったこと。東京の作家(というか東京芸大出身の作家)が多いという印象や、一般の観客と距離の近いがらん屋の独特な雰囲気が敬遠されたということもあるかもしれない。
さらに場所の問題。他の画廊からポツンと離れており、郊外にある県芸(学生、卒業生の多くが大学近くの長久手に住んでいる)、名芸からもかなり離れている。名造形だけは当時市内にあったがやや遠かった。


大学に関しては、距離的な遠さだけではない。県芸と名芸に顕著だったが、当時は団体展系の教官が多く学生が現代美術へと向かうのを好まない傾向があった。
この頃の県芸の卒業制作展は、洋画は国画会の島田省三、彫刻は新制作協会の作家の影響が色濃く現れている。名芸の洋画、彫刻は伝統的に日展系作家の影響力の元にあった。また、芸術学科がまだどこの大学にもなく、若いディレクターや批評家が育つ土壌もなかった。


80年代の終わり頃、県芸出身で20代の作家四、五人が、相次いでデュッセルドルフに留学している。奈良美智もその一人だ。彼らには地元での発表活動より、より自由度の高い教育機関、重しやしがらみのない環境で学び直したいという欲求があったのだと思う。
名造形は比較的リベラルな雰囲気があったようだが、いずれにしても名古屋は、現代美術を志向する人数そのものが、東京などと比べると圧倒的に少なかった。


もう一つの大きな要因として、この当時学生や若い作家の注目を集めていたのが、パルコ主催の「日本グラフィック大賞展」「日本オブジェ大賞展」であったこと。後者は地元から大賞受賞者が出たこともあり、強い関心を惹起していた。
大学の先生の所属する団体展に出す気はないが、レンタルギャラリーでコツコツ発表しながら企画の声がかかるのを待つのも、自分たちで自主企画を打っていくのも、お金と時間がかかって大変だと思っていた現代美術志向の若い層の少なくない部分を、あれらの公募展は吸収していたのではないか。
ちなみに名古屋周辺の若いアーティストたちがあちこちで自主管理・運営のスペースを立ち上げ出すのは、コマーシャルギャラリーが撤退していく90年代末からである。



6. 活性化と停滞


80年代前半の名古屋近辺の動きとしては、河合塾美術研究所が名駅校舎(後に千種校舎に移転)の中にギャラリーNAFを開設し、塾生展や講師の個展の他、戸谷成夫など県芸出身作家の個展を行った。83年6月には名古屋造形短大がDギャラリーを開設し、オープニングとして中村英樹企画「名古屋 八十年代の平面展」を開催した。
それとは別の動きとして84年の夏、有志の建築家、舞踏家、音楽家、美術家、陶芸家などが実行委員会を作り、名古屋港近くの鈴代倉庫で「WAYA祭1984」(WAYA=「わや」とは名古屋弁で「めちゃくちゃ」という意味)が開催され、20代の美術家たちも参加している。都市の規模が小さく各ジャンルの人々が交わりやすい名古屋ならではの、ある意味で画期的な催しだったが、美術に関して言えばやや発散的なところに留まった感は否めない。


80年代後半になると空気が変わってくる。まず作家個人の動向としては、名古屋芸大出身の若い画家、吉本作治がアキライケダギャラリーに見出されたのをきっかけに、ニューヨークの大手ギャラリーで個展を開催するという華々しさで注目を集めた。
86年にギャラリーたかぎのオーナーが所有していた広大な敷地と建物を利用したICA名古屋というアートセンターがオープンし、国際交流基金の南條史生(現・森美術館館長)がディレクターとして迎えられ、マリオ・メルツ、ボルタンスキーなど海外有名作家の展覧会が開催され、名古屋以外からも人を集めるようになる。
一方、87年から88年にかけて、名古屋市文化振興事業団の主催で、名古屋の若い作家をセレクトした三つの現代美術展が開催された。茂登山清文企画「現代美術の世界像(コスモロジー)」(87.3.14〜29、ICA)、三頭谷鷹司企画「現代美術・名古屋1988『深層の森』」(88.3.16〜27、名古屋市博物館)、複数の作家と事業団の合同主催(企画準備会:久野利弘、酒井宣、庄司達、平岡博)の「都市空間と木の造形展」(88.9.30〜11.3、名古屋市美術館若宮大通公園)。
88年は名古屋市美術館がオープンし、現代美術を扱う画廊が増え、名古屋コンテンポラリーアートフェアが始まる。美術活動=商業ベースが当たり前という認識が、同世代の作家の間に広がったように感じた。


80年代の名古屋において、場をめぐる作家主体の動きとしてはギャラリーUとA.S.G.、展覧会としては「WAYA祭」、「都市空間と木の造形展」ということになるが、それらがなんらかのアートシーンを形成していたとはやはり言えないだろう。一時的には盛り上がるが次には繋がらないものだった。そこに批評的、思想的核のようなものが欠けていたからだと思う。
「言葉が足りない。どこに行っても美術業界の話ばかり。誰も美術について語らないのか」という鬱々とした思いを抱えつつ、私も画廊での個展が中心の活動へと移行していった。
コマーシャルギャラリー隆盛の94年、名古屋芸大で教えていた茂登山清文、美術家の丹羽誠次郎らと共に美術批評誌「Lady’s Slipper」創刊準備号を刊行するが、それはまた別の話である。

トークライブ登壇のお知らせ

みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2018に関連して、東北芸術工科大学で行われる展覧会の関連企画トークライブに登壇します。
AGAIN-STという彫刻を考える集団の一人で、学芸員の石崎尚さんからオファーを頂きました。今回は「カフェと彫刻」がテーマだそうです(https://www.facebook.com/events/1033390630170615/)。
お近くの方は是非どうぞ。この他、いろいろな催しものがあります。
https://biennale.tuad.ac.jp(←公式ページには、本トークイベントの情報はありません)

AGAIN-ST第8回企画「カフェのような、彫刻のような」


●会場=NEL MILL
  東北芸術工科大学 芸術研究棟Cギャラリー(ROOTS & technique)
  〒990-9530 山形県山形市桜田3丁目4−5
●日時=期間中の金・土・日・祝日(9/1, 2, 7, 8, 9, 14, 15, 16, 17, 21, 22, 23, 24) 10:00〜17:00
●出品作家:L PACK.(エルパック)、保田井智之、吉賀伸、AGAIN-ST(アゲインスト)(冨井大裕、深井聡一郎、藤原彩人、保井智貴)
トークライブ:「カフェのような、彫刻のような」
  9月1日16:30〜18:00
  会場:NEL MILL(ROOTS & technique)
  参加者:AGAIN-ST+大野左紀子(文筆家)



以下は、「カフェと彫刻の交わるところ」というお題を頂いて書いた私の文章です(チラシに掲載)。

 この原稿を書いている7月中旬、西日本豪雨災害の状況が連日報道されている。炎天下で片付けに追われる人々。避難所で支給される食事はおにぎりと味噌汁。「コーヒーが飲みたい」という被災者の声には、コーヒーのあった普通の生活への渇望が滲んでいて、避難所の前などに即席のカフェでも開設されれば‥‥と思った。パラソル付きのテーブルがいくつかと、それぞれを囲む椅子4、5脚の簡素な仮設カフェ。
 ところで私の住んでいる愛知県一宮市は、かつて日本で一番喫茶店が多いと言われた街である。戦後、繊維産業で栄え全国から女工の卵が集まっていた頃、街には数えきれないほどの店舗があったらしい。その頃からの習慣か、今でも一日に必ず一回は喫茶店に行くという年輩者が少なくない。新聞を読んだり、顔見知りと地元の情報交換をしたり、仕事の打ち合わせをしたりといった日常の場は、カフェではなく昔ながらの喫茶店である。
 ヨーロッパでカフェ文化が花開く前、人々が情報交換や発信のために集まる場所は広場だった。多くの広場の中心には彫刻モニュメントがあり、共同体のシンボルとして機能していた。「求心力」と「安定性」の象徴である広場の彫刻。その周囲にカフェが出現し、人々の集まり方は分散化していく。カフェ自体も、さまざまな人の出入りによってそれぞれの「かたち」が作られていった。
 広場を中心とした街作りがもともとない日本で、彫刻モニュメントのある場所は「求心力」を持ち得ず、街中のそれはしばしば”彫刻公害”と言われがちだ。度々の自然災害に見舞われる「安定性」に欠けた土地では、屋外だけでなく屋内に設置した彫刻でさえ障害物、危険物となることもある。しっかりした基盤に接する「底面」と「軸」を持ち、一定の「空間」を必要とする彫刻芸術は、さまざまな流動性の中にあっては、かなり難しい表現形式になってきている。
 むしろ彫刻はこの地において、仮設カフェのようなものとしてあり得るのではないだろうか? テーブルや椅子の脚が複数の「底面」を確保し、「軸」の上のパラソルが太陽光を遮る「空間」を作る。一応原理的には、伝統的な彫刻の条件を満たしているはずだ。脇にあるのは、小さい発電機とコーヒーメーカーと水と豆と紙コップ。そこに立ち寄ってはコーヒーを飲んで一息つき、また去っていく人々の動きが、輪郭のないその空間の「かたち」を彫り、刻んでいく。
 彫刻とは決して呼ばれないだろうその彫刻は、被災地に忽然と現れ、しばらくすると消えていく。いつかまた未曾有の大災害に見舞われるであろう日本列島のあちこちで、かりそめの場を提供するパラソルの花が開き、運良く生き延びた被災者の私もそこに辿り着く一人となる。それが、私の夢想する「カフェと彫刻の交わるところ」だ。

絵を描く老女‥‥「丸木スマ展」を観て

人は大人になってから、どんなきっかけで絵を描き始めるのだろうか。
子どもの頃からずっと描いていた人が、社会人になって多忙で休み、仕事から解放されてから再開するという話は時々聞く。見る方専門だった人が、ある時趣味の手習いで始めたというケースもあるだろう。
丸木スマは、息子で画家の丸木位里に勧められ、70歳を過ぎて絵筆を取った。1875年に広島県伴村(現・広島市阿佐南区)に生まれ、家業を手伝いながら結婚し四人の子どもを育て、原爆で夫を亡くした彼女は、絵を始めてから「死にとうなくなった」と語ったという。


丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢(三岸節子記念美術館 7.1〜8.13)


「原爆の図丸木美術館」他から借り受けられた57点の作品は、数点の油彩を除き、水墨彩色とクレヨンを併用したもの。モチーフは、故郷の情景や自然の風景、身近にいる猫や鶏、犬、野鳥、魚、花、野菜など多彩。
一見すると素朴だが、モチーフが描かれた地となる背景を、大胆にもカラフルな色で塗り分けていたり(具象と抽象の融合?)、クレヨンの上から水彩や墨をかけて弾かせる手法にトライしていたり、あちこちに工夫が見られる。大きめの刷毛と細筆の使い分けが繊細だ。
柿の木を描いた『柿もぎ』という作品で、人の顔より柿の実の方が大きいのはなぜかと訊かれたスマは、実を描いたら人を描く隙間がなくなったのでそうなったと答えたという。つまりそれらは、最初に全体的な計画が立てられているのではなく、「これをこう描きたい」という気持ちにだけ忠実に描かれている。
その結果、絵は写実というより半分はファンタジーのような、童話の世界も思わせる。色彩の幅があり、濁色もたくさん使われているが、それがとても複雑で面白い効果を出している。


美大生などでこうしたアウトサイダーアートっぽい、ナイーブな感じの具象絵画を描く人が時々いるが、丸木スマの絵を観たらちょっと太刀打ちできないと思うのではないだろうか。
芸術的なものとは無縁に重ねられてきた70余年の人生の中で育まれた「目」と、もともと持っていた絵の才能が出会い、何かが化学反応を起こし希有な結果をもたらした。
誰でもこんなふうには描けない。でも描いてみたいと思わせる力を感じた。
今回初公開となる『ピカドン』他、ポスターや丸木俊丸木位里の妻)の手による肖像画も展示されている。


チラシとカタログ
カタログより
絵葉書買った(上『めし』、下『やさい』)

『抽象の力』と『描かれた大正モダン・キッズ』を観て

(※Twitterでの呟きに大幅加筆・編集しています)


先週末、会期があと一週間となった『岡崎乾二郎の認識 抽象の力──現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜』展*1を観に、豊田市美術館へ。

チラシデザインがカッコいいので追加。
表題文字の線、サム・フランシスっぽい。


会場入り口。


監修者の言葉(パネルの写真を撮ったが可読性が低いので書き起こし)。

          抽象の力

 
 キュビスム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である。
 すなわち物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追求してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった。
 だが第二次世界大戦後、こうした抽象芸術の核心は歪曲され忘却される。その原因の一つは(アメリカ抽象表現主義が示したような)抽象を単なる視覚的追求とみなす誤読。もう一つは(岡本太郎が唱えたような)抽象をデザイン的な意匠とみなす偏見。三つめは(具体グループが代表するような)具体という用語の誤用である。これらの謬見が戦前の抽象芸術の展開への正当な理解を阻害してきた。ゆえにまた、この世界動向と正確に連動していた戦前の日本の芸術家たちの活動も無理解に晒されてきたのである。
 本展覧会は、いまなお美術界を覆うこうした蒙昧を打ち破り、抽象芸術が本来持っていた、アヴァンギャルドとしての可能性を検証し直す。坂田一男、岸田劉生恩地孝四郎村山知義吉原治良、長谷川三郎、瑛九などの仕事は、ピカビア、デュシャンドゥースブルフ、モランディ、ゾフィー・トイベル=アルプ、ジャン・アルプ、エドワード・ワズワースなどの同時代の世界の美術の中で初めて正確に理解されるはずである。戦後美術史の不分明を晴らし、現在こそ、その力を発揮するはずの抽象芸術の可能性を明らかにする。                              
                                岡崎 乾二郎

  

「前衛の核心にあるのは唯物論である」という古くて新しい命題を提示したこのキレッキレな「宣言文」だけでワクワクするが、展示室ごとに刺激的な展開が待っていた。
フレーベルやシュタイナーの教育玩具、ボイスの毛布と蜜蝋、夏目漱石熊谷守一、1900年代の扇風機に椅子、落下傘部隊の写真、村山知義と雑誌「マヴォ」、タービン工場や自動車工場の写真、ジョン・ケージの楽譜、ブランクーシの彫刻、戦前日本の抽象画家たち、ベーコンにフォンタナ、そして岸田劉生‥‥‥。
展示方法は絵の高さやキャプションの位置など、見た目のコンポジションだけでなく観客の身体に働きかけるような工夫がされており、エレガントでシャープ。モダン・アート史の語り直しの中で、身体と物質、事物との日常的且つ社会的な関わりが浮び上がってくる。美術を隣接ジャンルと繋ぐ試みはかなり前から盛んだが、広範な文脈とアクロバティックな接続が際立っていて、不思議な開放感を覚えた。
しかし、フレーベルで始まって岸田劉生で終わるとは思わなかったなー。興奮しました。*2


ちなみに、明治九年に日本に導入され一部の幼稚園で試みられていたフレーベルの恩物教育(積み木、折紙、切り紙、組み紙、豆細工、砂遊び、粘土などの造形遊び)については、拙書『アート・ヒステリー』の中で言及したが、学校の美術教育について書くのが主眼だったため数行に留まっている。*3 その美術史的な位置づけを確認できたのが、個人的には大きな収穫だった。


同時開催の『東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展』を観にきた比較的年輩の観客が、『抽象の力』の方にも流れ込んでいた。通常、東山魁夷ファンの多くはわざわざ観に行かない展示だろう。
昨年のジブリ立体建造物展と杉戸洋個展もそうだったが、豊田市美が時々やる”合わせ技”でいい「誤配」が起きてる感じ。


【artscape 2017年06月01日号(キュレーターズノート)】岡崎乾二郎の認識 抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜|能勢陽子
ポイントを的確に押さえた良い解説(会場写真あり)。戦前のアヴァンギャルドが挑戦した「美術の枠組みを超えて、芸術を改めて人の生に結びつけ」るという根源的な試みに光を当てていることへの評価。
確かに恩物教育の積み木は、「人の生」の始まりに出会う物質、事物として、「美術の枠組みを超えて」存在している。



『抽象の力』、一回観ただけではとても消化しきれない感じを残して、刈谷市美術館で最終日の『描かれた大正のモダン・キッズ 婦人之友社『子供之友』原画展』に滑り込む。



さっき豊田市美で観た村山知義に再会。たーのーしー♪ ひたすら楽しかったです。
デッサンと描写の巧みさが前面に出ている北澤楽天や岡本帰一の童画は、当時の子どもの風俗を知ることができるので面白いが、絵としては断然、村山知義武井武雄の方に惹かれる(下はいずれも図録より。1枚目が村山知義、下2枚は武井武雄)。



特に武井武雄、子どもの頃はキンダーブックなどで見ていて、その少し癖のある画風が脳裏に刻み込まれている。大胆で明快な構成と、太/細を使い分ける独特な線、ユーモア。周辺の童画家に影響を与えていたのが見てとれた。そして竹久夢二の優れたデザイン感覚も再認識。
展示は『子供之友』の原画が中心だが、明治から昭和・戦中までの幼年、少年、少女雑誌の流れなど、周辺情報の展示も充実していて見応えがあった。


しかし当時の坊ちゃん嬢ちゃんは、幼稚園で立方体、円柱、球体で遊ぶ恩物教育を受け、家では幾何形態を遊戯的に組み込んだ新感覚の童画を見て、なんと贅沢に先端文化を吸収していたことか‥‥‥。



連関するところのある二つの展覧会を一日で観たせいか、頭の中で円や四角や三角が踊り狂う中、ネットに公開されているPDFを読む(画像多数。250部しか刷られてなかったらしい図録は会期半ばで完売。論考掲載の小冊子が近日出るとのこと)。
『抽象の力』 岡崎乾二郎


すごくおもしろい。会場で情報に押し流されそうになりながら半ば感覚的に捉えていたところに、クリアで詳細な地図を与えられた感じがした。
主知主義、視覚至上主義で全体性を目指す、ある意味「男性的」なモダン・アート観への批判。マルクスフロイトの召還。特に岸田劉生の(写実からはみだす)「無形なもの」と、フロイトの「不気味なもの」との接続。幼児教育、クラフトやダンス、全体性の拒否、ゾフィー・アルプ始め女性作家の影響力など、ジェンダー論的なラインも引けそうに思った。
近代以降の芸術についての再考を促す点もそうだが、それ以前の、生活や労働や遊びやそれらを通した人間と物の関係へのさまざまな思索を誘う。芸術の基底部がそれらに向けて大きく開かれていて、芸術はその中に溶解していくイメージが湧いた。逆に、生活や労働や遊びや‥‥について考えさせない現代芸術(そういうものも多いと思うけど)とは一体何だろう、とも。


きわめて個人的な遠い記憶が蘇ってきた。
幼少期の積み木遊びの体験。妹が生まれたので、物心ついてずっと後まで積み木で遊んだ。その時の、木の手触りや色や重さ。車のついた四角い箱に積み木を隙間なくきれいに嵌め込むのに、何度かやり直したこと。
3歳から始めたピアノ。音楽は抽象芸術、楽譜も抽象的だ。慣れない定規を使って五線を引き、ト音記号やオタマジャクシを書き込む練習をした。幼稚園児の私にとってそれは、「書く」より「描く」に近かった。
洋裁をやっていた母が、部屋に広げていた洋服の型紙。生地に型紙を合わせてチャコペンで印をつけていた。その横で折り紙や切り紙で遊んだこと。これから使う型紙をジョキジョキ切ってしまって叱られたこと。*4


私の「抽象」との出会いも、「身体行為をともなった事物と事物の交感のプロセス」(テキストより)そのものだった。それは「美術」のずっと以前にあって、たぶん自分の中の意識されない重要な部分をかたち作っている。



おまけ。
ところで「抽象」と言えば、きものです。きものの文様には高度に抽象化されたものが多い。大抵は現実(植物、動物、自然現象など)から抽出したと見てとれるが、純粋な抽象模様にしか見えないものもある。
着物の文様・模様・柄:着物について:着物俱楽部


そして、きものほど抽象的なかたちをした衣服もないと思う。着れば体の具体的な凹凸や細部を隠して直線と一部曲線(抜き衿)で構成されたシルエットを作り、畳めば長方形、解いてもほぼ全部長方形だ。
更に、日本の建築にも畳や障子や庭石など抽象形態が一杯。
大正期に抽象美術が西欧と同時進行した背景には、日本の伝統的なデザイン感覚も関わっていたんじゃないかと思った。



刈谷市美のショップで買った「夢二」のミニ風呂敷になんとなく手持ちのアクリル帯留めを置いてみたよ)

*1:岡崎の崎の字は「大」が「立」。文字化けするので崎と表記。以下同じ。

*2:追記:一番言葉にし難い何かがあった最後の部屋の、ブルリュークの『家族の肖像』の中で、一人だけまっすぐこちらを見つめている赤ん坊(唯一まだ社会化されていない者)の姿が、第一室のフレーベルの教育遊具に繋がっていって、全体が大きく連環をなしているようにも思えた。

*3:フレーベルのこの造形教育は当時幼稚園に限られており、小学校では展開されていない。尋常小学校の図画は長らく臨画教育(お手本を見て描く)で、構想画や写生画が教科書に登場した後も「手工(工作)」導入については賛否両論だった。30年代に皇国主義が強まってから、バウハウスのデザイン教育を参照するかたちで工作が取り入れられている。

*4:そう言えば岡崎乾二郎の初期立体作品『あかさかみつけ』は、洋服の型紙の形が元になっていた。

人はなぜ女の子の絵を描くのか・・・『絵を描く人々』更新

絵を描く人々 第12回 日本・お絵描き・女の子 - WEBスナイパー(18禁サイト)


マンガ・アニメやイラストから現代絵画に至るまで、今ほど女の子の絵が盛んに描かれ、見られている時代はないのではないか‥‥‥この十年近くずっと抱いているそんな印象から書き起こしています。


一口に「女の子」や「少女」と言っても、描く人、選ぶジャンルやスタイルによって、その動機や思い入れは違うことと思います。
しかし百年くらいの大きな流れの中で見た場合、「少女」のイメージや「女の子」的な要素は、日本のビジュアル表現シーンに繰り返し現れています。
性別を問わず多くの人が「女の子」あるいは「少女」の表象を愛し、そこに夢を見ているのはなぜなのか––––


今回のイラストは、私の7歳(1966年頃)の時のものを模写してみました。
本絵はこんなの↓です。自分では覚えていませんが、高橋真琴のイラストにディズニー絵本の動物を組み合わせて、見ながら描いたと思われます。

前衛、野グソ、「先験的廃業」

またセルフTogetterです。7日から一週間ほど、集中的にアート関連のtweetをしたので、抜粋の上まとめておきます。(※参照)はここで追記。


3月7日
本来は(いい意味での)アート未満のものやことが、アートとして位置付けられたとたんにつまらなく見えてくる現象に何か名前をつけたい。


絵画は自明なものではないと判った時には、既に何かがインストールされてしまっている。だから、絵画へのとっかかりをどう作るかで呻吟している人々がいる。しかし今や「絵画」だけでなく、「アート」(近・現代美術)も自明ではなくなったと言えるのではないだろうか。
とすれば、既にインストールされているものにどう対処するかが、問題となるのではないだろうか。それが、「前衛の再設定」となるのが私にはやはりよくわからない。「再設定」において、アートの自明性を問うということなら理解できる。でもそういう話はほとんどなかったように思う。
(※参照:美術をインストールされた受動体としての作家/梅津庸一「未遂の花粉」とシンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」感想 - Ohnoblog2
そこで、ここではアートの自明性は問われてなかったのではないか?(アートの進化的未来が信じられている)ということを書くと、反発が来る。何言ってんだそんなのはとっくに織り込み済みの話で‥‥とはならないのね。
(※参照:未遂の花粉関連シンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」中村史子、土屋誠一、筒井宏樹、松浦寿夫、黒瀬陽平、梅津庸一 - Togetterまとめ


「アート未満」(いい意味で)は重要な概念。私の行ってる地方の私大では学生見ててもアート未満が多い。それとメンタル病んでる人が増えた。休学に退学。そんな中でアートが最後の受け皿になっている感じはある。もうこの皿取ったらどうしようもないという。そういう「よすが」として機能している。


あと、近代より前に日本にあったものは皆「アート未満」なのだから、そこにゆっくり回帰するというのは一つのあり方かもしれないと思う。工芸もデザインも絵画も未分化の渾沌状態。そういう状態への積極的な「再設定」、その中で一番過激なことは何かを考えてみる。ってこれももう誰かが言ってそう。


「学生たちがアートという言葉で前提にしているものが食い違う。アートが呪いの言葉のようです」と先生が仰ったのを受けて、先日某大学院大学でレクチャーをしたのだが、「アート」とか「アーティスト」という言葉(「作品」も)を一旦忘れていいんじゃないかという話をした。
で、どういう言い方をするかというと、「ものを作る人」「物語を作る人」「場を作る人」「関係を作る人」。もちろん兼ねる場合もある。こうするとアートだけでなく幅広いジャンル、職業の人がそこに入ってくる。絵画を描いていて「場を作る人」を自称する場合もあるかもしれない。これって良くない?
学生のプレゼンと講評にも立ち会った。映像、音、パフォーマンスなど。美大出身でない学生が半分以上かな。その中で「作品」という言葉を無理して使ってるのが気になった。それは「作品」てより「研究発表」でいいんじゃないかと言った。多少なりとも”憑き物”が落とせたみたいです。


3月8日
あれから美術の「前衛」について考えている。連続tweetになります。
前衛は、「敵」と「友」を明確にする。少なくとも「敵」を設定しない前衛はない。これまでだと「敵」は制度と市場だった。それを支えている近代の機構、民主主義社会(政治)や資本主義経済(生活)も射程に入ってくる。
制度の外のオルタナティブな試みは現在、制度自体の弱体化でどうなるのかという話はあった。もちろん受け皿としての機能はあると思うが、美大を経由しないアーティストも既にいる。そして学校制度を回避しても、美術館展示で制度へと回収される道筋はまだ残っている。
前衛美術家による展示が「ゴミ裁判」へと展開した歴史的事実は、美術館によってスルーされた。ここで美術館は「前衛」をなかったことにした。http://artscape.jp/report/review/10095359_1735.html この批判は重要。
市場に対しては商業ギャラリーを介さないことを初め、売れる(簡単に所有できる)かたちの作品にしないなどいろいろな抵抗の仕方はある。しかし実際問題、じゃあどうやって食ってくのよ、絵の具代も交通費もいるし‥‥となって、自治体支援も望めないとなるとパトロンが必要になる。
理解ある金持ち。でなければ、クラウドファンディング。後者は理解ある大衆の存在を頼みとするので、前衛にとってはなかなか難しい。前者になると思う。
とすると、もっと階層差が開き、酔狂な金持ちがアートに金使うしかないようにもってくしかない。底辺の芸術家を金持ちが支援するという図。でもただの成金じゃ知性も教養もないから無理。
つまり階級社会の復活しかない。前近代。って勢いで書いた。良いか悪いかの価値判断は置いといて。そんでものすごい教養をもった富裕層が徐々に形成されるのを待つ。しかし階級社会をぶっ壊すぞという前衛が出てくる。絶対でてくるな。堂々巡り。
とても雑なことを書いているのかもしれない。でも私は真面目です。
前衛が機能しなくなったのは「敵」が捉えづらくなったからだ。「敵」と「友」、「敵」と自分の区別が難しくなった。だからつきつめると(アート内の)自己破壊になる。今の前衛は何を壊したいのだろうか。誰か教えて。


やっと読了しました。梅津庸一×蔵屋美香×黒瀬陽平×齋藤恵汰「今、日本現代美術に何が起こっているのか」[実況] - Togetterまとめ
新しい公共圏」というのは、自前の学校とか画廊とかを含めたアートのオルタナティブな活動、つまり「アートのインフラをめぐる新しい公共圏」ということのよう。そこだけで回していくのはもちろん不可能で、一方に公共圏(学校制度と美術館制度)があった上でアンチとして成立する空間。
アーティストとして搾取されずに生きていくための自助努力ということでいいのかな。村上隆も個人的な規模でやっているやつですね。それが徹底されていったらこうなるのでは?ということは、『アート・ヒステリー』の中の村上隆論に書いたわそう言えば。
つまり藝大を初めとする学校はすべて解体され、視覚文化を中心としたあらゆるジャンルのカルチャースクールになり、近美を初めとする美術館も解体されて海外も含めた民間に売られ、芸術関係に割かれていた予算は復興や福祉に回されて、既得権益を貪っていた層は駆逐されるという未来予想図です。
資本主義社会のアートの存在様式をつきつめていったら、それが「正しい」姿になるのではないかと書いた。
3.11以後、「美術館に入りたがる(作品がコレクションされることを望む)」アーティストが増えたという話が興味深かった。自分のスタジオやコレクターの家やギャラリーなどよりは、災害で作品が失われる可能性が低いし何十年も残る。それは美術史に登録されたいという欲望でもあるのだろう。
新しい公共圏」でも美術館を作るのは大変だから、やはり既成の美術館が変わってくれることを望むということらしい。そしていつかそこに登録されることも。
確かに新たな価値を創造し、それを後世に残していくべきだというのはある。それは何だろう。作品なのか方法論なのか何らかの技術なのか言説なのか。そのすべてなのか。アーカイヴはあった方がいいとは思うけど。
「美術館制度も学校制度も、最初から存在しないかのように振る舞う」ということは、ないのだろうか。もしあるとすれば、近代以降のアーティストの像は根本的に書き換えられるだろう。アーティストという名もなくなるような地点。その位相について考える。
新しい公共圏」については何となく掴めたが、そこで目指される新しい価値って何なんだろう。それはアートと関係ない人々も幸せにするもの?‥‥とか、また素朴なことを書くけども。


美術館、予算も厳しいだろうが、いずれ収蔵スペースがないということにならないか。増え続ける作品と限られた空間問題。でも「空間を支配する者が一番強い」というのは20世紀で終わりになったはず。今は時間を支配する者、時間泥棒が一番強い。たとえばどんだけネットで時間喰われてんだという‥‥。
領土の拡大=空間支配だから、もうそれは古いのよ。とすると、増やすのではなく減らす方向、あるいはリサイクルする方向しかない。モノに関しては。
そして新しいモノもできるだけコンパクトな形にする。物量にびっくりするってのは20世紀的な感性。そこで残るのは物質性になるのかな。
インスタレーション作品作っていた時、なんかまどろっこしくて、もっとコンパクトな本みたいな形態にならないかと思ってた。ただどうしても気になるのは物質性だった。それは結構フェチな感覚と直結していた。物を所有したい感覚とも似ている。それを切断しようと映像に行ってそこでやめたのだった。


3月9日
インサイド」に回収されない前衛を夢見ることが、アートに取り憑いた業のようにも思える。それは何かを先送りしている。
独立したオルタナティブを作り上げるだけでなく、制度の中にもウィルスのように浸食するように入り込んでいくという戦略なのだろうか。
乗っ取り作戦。ミイラ取りがミイラになることもある。
乗っ取りなんて無理ですよね。乗り物じゃないんだから。制度が弱体化していると言われるが、意外としぶといのかも。


3月11日
長さがあって古くなっていて詰まり気味だったトイレの配管を昨日取り替え工事したので、紙を心置きなく流せるようになってストレスが解消された。生活のインフラは問題が生じてからその必要性を実感する。
アートのオルタナティブとか新しい公共性とか言われているのも、そういうことなんだろうか。
既成の配管はもうボロボロで詰まりに詰まってどうしようもないが、地中深く埋まっていて取り替えるのも大変なので、横から新しい管を取り付けて、そっちで流そうという。そのほうがストレスなくてスムーズだと。
だとしたらその配管もいずれは古くなって取り替え時がやってくる。そして配管だらけになる。そのうちトイレ本体が壊れる。
トイレなんかあるからこういうことになるんだよ、野グソでいいじゃんという人もいるだろう。アートは野グソみたいなものだった。迷惑だと文句言われたら、土を掘ってそこらに埋める。そのうちいい堆肥になって、おいしい野菜がとれたりする。
アート有機農法
おいしくて安全な野菜を作っている人は、それがアートだとは言わない。
◯◯関係者による◯◯界に向けた◯◯界の幸福と未来に関する言説。それが配管。
トイレの配管は、台所排水やお風呂排水の管と合流してやがて浄化される。野グソは浄化されない。
とは言え、部屋には浄化されたものも野グソも飾ってあるな。
野グソ野グソとすみませんでした。


3月13日
「先験的廃業」という言葉が、アーティストのKさんにヒットしていた。
(※参照:海上宏美×千坂恭二×岸井大輔「21世紀にアーティストと名乗る人は根本的に何かが腐っているのではないか」- Togetterまとめ
「なぜアートが終わってるという話にならないのか」と海上さんは言っていたが、個人的にはそういう話を聞いたりする。個人レベルで呟いているが、あまり堂々と言わないだけみたいな感じがある。


3月14日
社会的に意義のある活動、貧困で教育的機会に恵まれない国の子どもに継続的に学資支援するとか、マイナーだが重要な文化活動を金銭的に支援するとか、災害地に寄付するとか、えん罪を訴える活動への署名とか募金とか、これまで微力ながらいくつか関わったけど、そこに芸術の名を冠するものはなかった。
最近、芸術の名のもとにそうした活動も行われるようになった。それはこれまでの社会的な活動が低下しているということなのだろうか。それとも芸術が「新たな活動領域」を見出したということなのだろうか。
その活動の結果は社会のためになると同時に、「芸術のためにもなる」ということなのだろうか。
すべてが「延命」の時代。すべてが「先験的廃業」に直面してる。

美術をインストールされた受動体としての作家/梅津庸一「未遂の花粉」とシンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」感想

昨日、愛知県立美術館で開催中の梅津庸一展と、関連して行われたシンポジウムに行ってきた。その時感じたことなどをつらつらと。長いし結論はない。



梅津庸一については、黒田清輝の大作『智・感・情』を自らのヌードに置き換えて点描画法で描いた作品で話題になり、「パープルーム」という画塾兼共同体の主宰者でもある画家‥‥といった程度の知識しかない。
現在愛知県のあちこちで「パープルーム」も含めた展覧会が開催されている模様だが、私が見たのは、新栄の「波止場」という小さなスペースで、佐藤克久とのコラボレーション作品『ネオ受験絵画とフラジャイルモダンペインティングに見る日本の現代美術家の苦悩』のみ。
これまでの「表現行為を選択する能動的主体としての作家」ではなく、「美術をインストールされた受動体としての作家」像のようなものはなんとなく見えた。「能動」ではなく、積極的な「受動」。


愛知県美の展示では、先の黒田清輝、ラファエル・コラン、フェルディナンド・ホドラー、ポール・ゴーギャンの絵画に基づいた自画像と共に、県美が所蔵する近代絵画9点(高橋由一、山本芳翠、坂本繁二郎青木繁瑛九、上原欽二、織田広喜、鶴岡政男、麻生三郎)が展示され、外部執筆者5名がテキストを添えている。
パンフレットの、企画者・中村史子によるテキストのタイトルは、「彼方からの花粉  - 梅津庸一は歴史を生き直す - 」。「花粉」はこの作家のキーワードで、芸術家同士が時代や空間を越えて影響を与え合う現象を指す。自らが取り込まれてきた日本の近代美術や美術教育の起源に遡り、「生き直し」をしている画家であると。
歴史は実際には「生き直し」ができるものではないので、絵画という枠組みで仮構的に行うにせよ、それは常に/既に「手遅れ」な所作になる。もはや「手遅れ」を生きるしかない。先が見えない。そういう青年っぽい悲壮感と、それを裏切る可笑しな感じが作品に同居。
直接関係ない話だが、先日IAMAS(大垣にある情報科学芸術大学院大学)で『「アート」はどこから来たのか? その来歴と「呪い」と美術教育』というタイトルで特講をしてきたこともあり、「近代、日本、美術、美術教育」を巡る展示として個人的には興味深かった。



開始時間ぎりぎりに行ったシンポジウムは、ざっと見たところ百数十人の大入り満員。若い人が多い。椅子が追加されやっと座るも、室内がすごく暑い。調整もできないみたい。上着脱いでTシャツだけになりたいが着物なので不可能。最悪のコンディションで4時間耐えられるか早くも不安になる。
時間を押して始まった前半は、作家の挨拶に続き、各登壇者の発表。以下はざっとメモしたもの(落としている部分は多々ある。たぶんそのうち、みそにこみおでんさんの実況Tweetまとめが上がると思う/追記:上がった。https://togetter.com/li/1087363)。
( )内の肩書きは当日配られたチラシより。→の先は自分の感想。


▶筒井宏樹(ライター。編集、展覧会企画。鳥取大学准教授)、ファシリテーターとしての発言。
シンポのテーマは梅津の活動から見出されたもの。1、現在、なぜ前衛の手法を使うのか? 2、「美術」という概念が作られた日本の近代に立ち戻るという戦略は、どのくらい有効なのか? 3、アーティスト・コレクティブ(コラボレーションを行うアーティスト・グループ)に可能性はあるか? あるとすればそれはどのようなものか?
美術の前衛は、制度と市場に抵抗するものだった。制度の最たる美術館でやっていて、こういうシンポも美術館で行われるってなんかスゴイわ。というか最近日本の前衛美術の展覧会が海外も含めあちこちで開かれること自体、前衛が歴史化されたということで。ああだから「前衛の再設定」って言っているのか。でもそれを制度の最たる(以下ループ)
▶中村史子(愛知県美術館学芸員
梅津は近代日本美術を批評的に生き直すことを、画業として実践している(パンフの内容とほぼ同じ)。
近代の作品をコレクションする美術館として梅津庸一は企画しがいのある作家だろうとは思う。
▶土屋誠一(美術批評家。沖縄県立芸術大学准教授)
床の間芸術(場所に帰属)と会場芸術(大衆に依拠)ではない第三の道としての「卓上(デスクトップ)芸術」。マルチプル、小サイズ、水平的、物語とセット。これはそのまま現在の視覚文化状況。つまり通俗的モダニズム理解の還元主義がいかに特殊だったかということ。
シンポのテーマとどう関係してくるかわからなかったが、話としては面白かった。アートが終わり、その”横”にあったものやその”前”にあったものが呼び出されてきている話として聞いた。
▶筒井宏樹
60年代末〜70年代初頭の名古屋の前衛パフォーマンスアート集団「ゼロ次元」について。長らく美術史で無視されてきたが、90年代以降発掘が進んだ。中心になっていた加藤好弘は東京でも活動し、多弁で論理的で欧米のアーティストに近かった。一方の岩田信市は論理嫌いで不器用で泥臭い(デロリの美)。その後、岩田は前衛芸術から後衛庶民(芸能)に移った。
今日「前衛」として登壇している人に無理矢理当て嵌めると、黒瀬陽平は加藤好弘で、梅津庸一は岩田信市に近い感じになるのかな(この印象は、シンポを通じて徐々に強化された)。あと、名前の出てきた人とつい先日久々に話したり、スーパー一座でスタッフしてた人と偶然出会ったばかりだったので、妙な気分になった。
松浦寿夫(画家。西洋近代美術史)
点描絵画をめぐり、知覚と労働についてデリケートに語っておられたが、私には把握しにくく要点をメモできず。画家の人にはよくわかる話だったのだろう。
黒瀬陽平(美術家。美術評論家。カオス*ラウンジ代表。ゲンロン*カオスラウンジ新芸術校主任講師)
「近代を生き直す」ことの動機は何か、主体のあり方が変更される契機をどこに見出しているのか(梅津への批判)。主体のあり方が変わったのは近代に限らない。例えば仏教伝来時(「怨霊化した神々」例示解説)。異質な西欧を日本がどう受容したかという話だと「日本=悪い場所」的宿命論になってしまい、日本は何でも受け入れ共存させる「寛容性の神話」だと議論が雑になる。
主体が変わる契機が重要なら、これまでの美術家主体(前衛も含め)は無効にならないか。美術家として「これまでと主体形成が変わりましたよ」と作品見せるのって何か変だし。



10分休憩の後、後半のディスカッション。
他の登壇者の発言も異論や補助線としてあったが、黒瀬氏と梅津氏のやりとり(互いを批判しつつ自分のあり方を述べる。非常に平たく言うと「どちらが真の前衛足りうるか」みたいなところ?)が中心になっていた感触。


一番印象的な部分を短くまとめると、
黒瀬:梅津及びパープルームのやり方は、受けの姿勢で事後的に読解してもらうものであり、日本の美術史では当たり前で教科書的。僕は特異点でありたい。
梅津:パープルームは病理が深く、自分でも何だか分からないほどの近代の生き直しに重心が置かれている。特異点としてわかりやすく違うことをしたいのではない。


特異点でありたい」という言葉にびっくりして、しばらくそれ以外の情報が入ってこなくなった。そういう言い方を美術家/美術評論家がすることに驚かされたというか。その「特異点」の内実はわからない。
しかし二人の語っている内容より言葉遣いや喋り方の相違が印象に残った。そっちに注目した方が何か本質的なものが顕れる気がする。*1


それはさておき私から見ると、後者が「美術をインストールされた受動体としての作家」であるならば、前者が体現しているのは「表現行為を選択する能動的主体としての作家」である。前衛美術作家そのものであり、前衛は言うまでもなく、進化・進歩を信念とする男性的、論理的、能動的な主体。つまり「アートの父殺しの歴史」(大野) において正当性を主張する息子たちの位相だ。それが父となり、また次の息子たちに乗り越えられていくというヒストリーがある。
後者は、そういう作家主体が立ち上がりようがなくなった21世紀において、仕方なく受動的なあり方でしか画家として生き延びられない(なぜなら「花粉」を受容してしまったから)と自閉的に悟った主体に見える。「受動体としての作家」は矛盾を孕んだ言い方だが、近代的、男性的主体の最期の痙攣のような感じにも見える。
どちらが主体の変容に直面しているかと言えば、後者だと思う。梅津庸一の自画像が、元の絵画ではすべて女性がモデルであることも、これに関係しているかもしれない。言うまでもなく女性は歴史的に受動側に置かれてきた性だ。私は梅津庸一論の類いをまったく読んでないし、今日のアーティスト・トークも行っていないので、見当違いかもしれないが。*2


とは言え、全面的に受動的なわけでもなく、展示は非常に周到だし、戦略的な立ち振る舞いをしているという印象は受ける。
こういうのを「受動的に能動(のうど)る」という。この言葉遣いは私のオリジナルではない。1984年に画廊パレルゴンIIから発行された小冊子『現代美術の最前線』(責任編集/藤井雅実、ちなみにここには松浦寿夫も入っている)に掲載されている座談会の一つ「I. 受動的能動––––現代の戦略」で、関口敦仁の発言として最初に「受動る」という言葉が出てくる。一部抜き書き。

関口:西洋的な構成って、まあ能動的な訳で。逆に受動(じゅどう)っちゃう事でさ(大爆笑)出て来る可能性があると思う。能動(のうど)る美術の形が今まで続いてた訳で、そうでなく引用や組み直しの受動っちゃうところをはっきりさせていくべきじゃないかな。
 (大幅略)
奥野:受動っちゃうって言っても、優れて能動的な訳ね。
関口:受動っちゃうことが能動ることだから。


ここから発して、「受動的に能動る」という言い方が出てきたのだった。誰かが口にしたか、展覧会のパンフで見たのかもしれない。あるいは座談会タイトルから自分でそう覚えたのかもしれない。30年以上昔のことなので忘れたが、過去のあらゆる前衛が"再発見"されている今、上記の『現代美術の最前線』を構成した80年代前半の動向(言わば最後の前衛たち)の本格的な掘り起こしは、ほんの一部を除いてはまだ行われていない(「Sさん、一昨年の秋に出した原稿どうなりました〜?」とここでこっそり呼びかけとこ)。


それから、筒井氏の話で出た90年代初めの「前衛」。中村政人や村上隆が60年代の前衛のシミュレーションをした一連の行為だが、あれらは近代美術の亡霊を召還し憑き物を落とす儀式だったと思う。つまり近代美術も前衛も(というか両者はほぼイコールだが)そこで完全に歴史化されたのだ。
ということは、もうアートにおいて前衛的位相はあり得ないということではないか。ネタでやるのはともかく大真面目には。それで「再設定」なのだろうけど、話を聞いているとかつての前衛と同じく、アーティストとして制度と市場に、そして画一化、平準化されていくグローバルアートヒストリーに抵抗するという。その言葉は、昔の前衛と変わらない。つまり「特異点」の連続としてのアートの進歩と進化を信念としている。
「再設定」なら、そこを突き抜けて、アートも突き抜けて、別の場所に出てしまう(実際、かつての前衛には「出た」人もいた)ということでもいいと思うのだが、話は最後までアートの中から出なかった。ここに生まれる欲望は、何なのだろうか。アート内の自己実現? 「真の◯◯」を巡る権力闘争? それとも別の何か?


‥‥‥などの疑問が湧いてきたが、質問はしなかった。質疑応答の時間が非常に限られていたので、ここは若い人が質問する場でしょうねという教育的配慮(笑)が働いた。
予想はしていたが、アートに対するスタンスは異なってもその進化的未来を信じる人々‥‥違う人もいたかもだけど‥‥の中で、アウェイ感が半端なかった。暑くて頭が朦朧としてきたのもあって、終わった途端に早くこの場を去らねばという感じになったのだった。
おしまい。

*1:追記:あと、梅津氏の話の中で、介護施設で働いて感じたことが語られていて、こういう話とアートの話が(介護現場で有効な美術とかアート療法とかではなく)結ばれる「線」には興味がある。

*2:日本の近代以降の男性美術作家における「女性性」「女性的主体」って面白いテーマじゃないかな。誰か書いてないだろうか。