彼女のダイビング(映画におけるヒロインの死と再生)          

 映画は大衆娯楽として視覚文化の中で大きな位置を占め、そこで生産されるイメージや物語は様々なメディアにとり上げられ複製されることによって、大衆の視覚と記憶に繰り返し焼きつけられている。ことにハリウッド映画は、広範な観客のニーズに応えねばならない産業として、常に時代相を映し出し、時には大衆の無意識を表象した物語生産を行ってきた。アメリカの顕著な社会的現象、たとえばフェミニズム運動も、映画の重要な背景、あるいはモチーフとして多くの作品に反映されており、60年代に盛り上がったウーマン・リブの流れの中で、女性の自立を描いた作品が一定の需要に応えてきた。
 その中でもことに男性(社会)と果敢に闘う女性像は注目を集めてきたが、それらはヒーロー物語の男性の主人公のように、必ずしも闘いに勝利するヒロインとして描かれたわけではない。彼女達に用意された運命は死、あるいは死に等しい試練であった。ではそれは、どういった女性性の表現となっており、どのような女性の欲望やジェンダー認識の反映と読み取ることができるのだろうか。


 映画に先立つ視覚表現としての西洋美術の歴史を遡れば、女性は常に男性のフェティシズムを喚起し、男性によって「見られる者」として描かれてきた。15世紀以降、様々なモチーフが個々に主題化される絵画において顕著になってくるのだが、そこでは女性に限らず風景であれ静物であれ、対象を描く(描かせる)ことは、それを欲望し、あるいは所有しているということであり、それらを価値づけることであった。言い換えれば、女性は男性にとってフェティシズムの対象であり、所有物として欲望されると同時に、交換可能な商品であるということを、美術は端的に物語っていた。
 女性が子孫を繁栄させ、男性の支配圏を拡大し強固にするという意味において、その存在は承認され保護されてきたが、一旦男性の保護、支配下に置かれた女性は、男性のフェティシズムの対象とはならない。男性の欲望は、支配圏を拡大することによって最終的に唯一の支配者の位置を獲得しようとする方向へと運命づけられており、その力の駆動のためには常に「新たな欲望の対象」が必要となる。つまり女性は、常に誘惑する存在として男性のフェティシズムを刺激する商品であることと、男性の子供を産み育て彼の支配を成就させる(もちろん激しい闘争が行われる以上、完全支配の成就は永久に先送りされる)者として機能するというニ重性を背負ってきた。そして、このことが内面化され、女性自身のジェンダー認識を形成してきた。


 そうした環境の中で女性が生き延びるには、まず最初に自らの商品としての価値を男性にアピールせねばならない。「見られる者」として男性のフェティシズムに応えるということは、客体であることを常に意識し、他の商品と比較して自らの相対価値を高めるということである。そこでより多くの男性の注目を浴び、より(支配力の)強い男性に選ばれて初めて女性は、自らの価値を認識し自己に承認を与えることができる。そうした自己を愛すること。女性のナルシシズムとは、この受動的心性のメカニズムのことである。
 見られるためには視覚的に目を引くこと、つまり商品としてより美しくあることが競合されるが、競合が激化すれば、その「美しさ」は男性の欲望に的確に応えることを逸脱したところでも展開されるだろう。「美しさ」とは常に相対化されるものであり、短期間に商品価値が失われるものである以上、より特異で非凡な突出の仕方が求められずにはおかない。現代の現象で言えば、「美」への憧れからくる女性の過剰なダイエットや美容整形、常に新奇さを求めて変化し続けるファッションにそれが現れていると言えよう。ここに商品としての競合の果ての、奇形化したナルシシズムが生まれる。女性のジェンダーはこの過剰な商品へと自己を駆り立てること、つまりナルシシズムの強迫的な運動性を抜きには語れない。


 この稿では、90年代以降の映画から『エイリアン3』(1992年公開 デヴィッド・フィンチャー監督 米)、『テルマ&ルイーズ』(1991年公開 リドリー・スコット監督 米)、『ピアノ・レッスン』(1993年公開 ジェーン・カンピオン監督 豪)を採り上げ、そこに描かれたヒロイン達の「死」の分析を通して、「見られる者」としての女性の中に孕まれているナルシシズムの発現について考えてゆきたい。

抗議の自殺‥‥『エイリアン3』-1

 79年に始まったエイリアンシリーズは、現在までに4作を数える根強い人気を持つSFホラー映画である。一作目でヒロイン、リプリーは、女性であることに全く免責を求めない「新しい女」として登場する。60〜70年代のアメリカのウーマン・リブの「成果」がもたらした闘う女性、それがリプリーだった。シリーズ1、2と彼女の孤軍奮闘ぶりが描かれるが、それは3でピークを迎える。全編を暗く重苦しいトーンが支配し、エイリアンシリーズの中でいささか趣きの異なる『エイリアン3』は、それまでと一転して闘う女性を虐め抜くストーリーであった。リプリー溶鉱炉に身を投じるラストは、人類を救う正義への殉死として崇高に描かれているが、これまでの彼女の「勝利」を見てきた者にとっては、あまりにも絶望的で救いのない幕切れとなっている。
 エイリアンが人の体内に寄生し、しばらくたってから腹を破って生まれるということ。この生態様式への根源的な恐怖は、「妊娠」の恐怖そのものだ。女を妊娠させ自己の複製を作ろうとする男の攻撃的な欲望は、産む性に押し込められたくない女にとっては脅威である。エイリアンを「妊娠」したことで死に追い込まれるリプリーは、強くなり男性化したためにバッシングされた、独身キャリア女性の代表とも言えるだろう。


 シリーズ1から3に至るまで、長きに渡って闘って来たエイリアンは、リプリーにとって一体何なのだろうか。エイリアンとは、国境の向こうの者を指す言葉であり、未知の危険な者という意味を含意するが、その生態様式は上述したように妊娠のメタファでもある。2では女王蟻ならぬ女王エイリアン、つまり子沢山の「母」が登場し、その卵を破壊するリプリーと死闘を繰り広げている。この専業主婦対キャリア女性の闘いは後者の勝利に終わったが、エイリアンとは基本的に、子供を持たず男性と伍して働く女性にとって、女性を妊娠させる男性のシンボル、ファルスそのものであると見ていいだろう。そしてファルスに屈することを拒み、従来的な女性のように子育て専業主婦を選択せず社会的自己実現を果たすというのが、79年当時のアメリカの新しい女性像だったのである。
 しかしリプリーがどこまでも男性的なキャラクター描かれていたのかと言えば、必ずしもそうではない。1では宇宙船に連れてきたペットの猫を探す間にエイリアンに先を越されるといういかにも「女らしい」失敗を犯しており、2ではエイリアンの星で生き残った少女に、母親のような態度で臨んでいる。彼女は職務に忠実で責任感はあるものの、決して好戦的ではなく、追い詰められてやむをえず闘っているのであり、むしろうっかり発揮してしまった母性的な側面によって窮地に立たされてもいるのだ。
 リプリーが変貌するのは3において、救出したはずの者達を失ったと知り、完全に孤独になったことを自覚して以降である。この失意の最中に、振り切ったはずのエイリアンだけはまだ彼女の周辺にいることに気づいた時、彼女は自分とエイリアンが分かち難く結ばれていることを、認めざるを得なくなる。そして、そこで初めて、彼女はエイリアンに積極的に闘いを挑もうとしている。これは彼女にとってファルスとの闘いであり、同時に、排除し忘れようとしてきたにも関わらず、自身の中に刻印されてしまっているのではないかと彼女が怖れているものとの闘い、つまり男の子供を産み育て子孫を繁栄させることが、拭い難い女性の性の様式であるという認識=母性神話との戦いなのである。


 では、エイリアンの繁殖力を利用し生物兵器に仕立てようと目論む会社、つまり男性社会と闘って、リプリーは勝てるのか。もちろん勝てはしないのだ。そうしたものに単身闘いを挑む女はその時点で敗者であり、自滅に追い込まれると決まっている。しかも、彼女は永年闘って来たエイリアンの侵入を許し、文字通り「孕んで」いることが判明する。ファルスに敗北し、「母体」となってしまったという絶望と諦めに彼女は捉えられる。
 そのエイリアンの幼体を引き渡すよう要求する会社の代表は、かつてリプリーの仕事上のパートナーであった男性であり、リプリーは彼への信頼と不信の間で揺れ動くが、最終的には要求を拒み「お腹のわが子」と共に身投げする。彼らの目論みを見抜いたゆえの聡明な行為として、それは描かれる。渡してはならぬものを守り抜く、それはヒーローの闘いにも見られる行為ではある。しかし一方でこれはまるで、子供を夫と夫の家に渡すことを拒んで母子心中する母親の姿のようにも見える。彼女の腹を喰い破って出て来たエイリアンの幼体(その姿は「凶暴な胎児」といった趣きである)を自分の胸に押さえつけながら、赤く溶けた鉄の中に真っ逆様に落ちていくというラストシーンは、望まぬ妊娠を悲観して自殺する女性の姿ともだぶる。男性からの惨い仕打ちに対する「抗議の自殺」は、「悲劇のヒロイン」の古典的なモチーフとも言えるが、リプリーの死もそれに連なるような強い内的葛藤を孕んだものを感じさせている。


 投身自殺とは、死そのものを目的とするのではなく、死の向こう側にあるものを措定しそこへの飛躍を試みようとする行為であると言われる。高い場所から飛び下りるということは、物理的な落差がある関係で相対的により空に近づいているという錯覚を与える。この行為がそのまま地面に激突するという事実とは逆に、空に向って飛翔し別の世界に移行したいとの願望を孕むのは、そうしたことも関係するのだろう。いずれにしても、このようにしかありえない自己の存在様式を規定している今現在の世界を否定し、自己が「本来」のあり方に戻ることのできる別の世界が、どこかに想定されている。
 追い詰められて溶鉱炉に身を投げるリプリーは、どこへ飛躍しようとしていたのだろうか。またそこで夢見られたかもしれない彼女=女性の「本来」のあり方とは、何だったのだろうか。いや女性に、男の子供を産み育て男性社会のシステム維持に貢献するというあり方以外に、「本来」のあり方などこれまでもこれからもないのではないかという絶望、つまり自らのジェンダーへの絶望が、彼女をそのような自滅行為に追いやったのではないか。
 リプリーとエイリアンが死んだはずなのにも関わらず、シリーズの4では会社はいつのまにかエイリアンの遺伝子を入手しており、クローン培養されたエイリアンが多数登場する。そして同様にクローンとして「再生」させられたリプリーは、アメリカのコミックに登場するアマゾネスのようなマンガ的な存在として、それらと闘わされるはめになる。3のラストでのリプリーの胸のつまるような身投げは、まったくの無駄死にとなっている。それは結局、会社に刃向かって孤立無縁となった女子職員の「抗議の自殺」でしかなかったということなのである。

敗者のナルシシズム‥‥『エイリアン3』-2

 80年代後半に入って、それまでキャリアを優先してきたベビーブーマーの女性達が出産や結婚を考え始め、家庭回帰を見直すような社会的風潮が強まってきた中で作られたこの映画の結末は、以上のように読み取ることができるのだが、それではリプリーの死は視覚的に、観客にどのような心理的効果を与えるものだったのかをさらに詳しく見ていこう。
 リプリーの投身自殺は、男達の目の前で唐突に敢行される。もちろん物語の推移と演出の効果上、リプリーは衆目の中で飛び下りなければならないのである。しかしよく考えてみると、彼女のこの判断はいささか性急なものだったように思えないこともない。例えば会社の求める通り、体内のエイリアンを外科手術によって摘出し、生き延びて地球に帰還した後で、会社の悪事を告発し無用な殺戮を阻止すべく社会的運動を組織することも、不可能ではなかったはずである。どのみち自己のキャリアを失うのであれば、少しでも建設的な道を考えた方が啓蒙性が高く、うまくいけばより根本的な問題の解決にも繋がったかもしれない。そもそも会社がリプリーの体内にいるエイリアン以外に、エイリアンを秘密裏に獲得していないという証拠は、何もない。会社を信用しないならば、そこまで疑う必要もあっただろう。
 しかしそのような粘り強さを要求される冷静な選択を彼女はせず、男達の前で「胎児」のエイリアンと共に身投げするという、いささか「発作的」であると同時に、言ってみれば「視覚的にもっとも効果的」な道を選んだ。この投身自殺は、決してひっそりと誰にも見られないところでではなく、男達が注目する中というシチュエーションにおいて劇的に描かれねばならなかったのである。つまり、衆人監視のもとでのその行為によって、彼女は誰にも手の届かない「悲劇のヒロイン」としての地位を獲得し得るからである。この作品の中で紅一点のリプリーは、まったく女性的な外見を剥奪されているにも関わらず、ただ女性であるということだけで、終始男達の視線を浴び「見られる者」としてあり続けているが、そのとどめがこのラストシーンなのだ。衆目を浴びながらも彼女は誰一人見返すことはなく、すべてを諦めたように目を閉じて落ちていく。このような、男性に自らの犠牲的かつ絶望的な最期の姿を見せつけるという行為を、選ばれた強い女性の行為として描くことのうちに、常に「見られる者」としての位置に女性を規定するという前提が、内在しているように思われる。


 しかし、リプリーのような男性と伍して闘う女性にとって、そのようなことが意味を持つのだろうか。いやむしろ「非女性的」な態度が状況の中で突出してしまえばしまうほど、それは注目を集めるのであり、そこで女性は、自らが性的存在でないにも関わらず見られているという事態を、意識せざるを得ないのではないだろうか。男性の性的欲望の視線に晒されるというありふれた注目のされ方ではない、異物を見るような好奇の視線の的になるという特異性の自覚は、そうした反応を引き起こし得た自己の特異性、非凡さへの確認とならざるを得ない。それは、奇形化したナルシシズムの一つと言えるのではないだろうか。
 リプリーは会社側に「欲望された」存在のまま自殺している。まさにリプリーはエイリアンを所有しているという点で、非常に商品価値の高い「物」としてフェティッシュな視線に晒されていた。もし手術によってエイリアンを摘出してしまえば、リプリーは会社にとってとりあえず用済みの、むしろ知らなくてもよかったことを知り過ぎている邪魔な存在となり、閑職に追い込まれた可能性は高い。これは現実問題としては死ぬより賢明かもしれないが、ここまで存在を突出させてしまったヒロインがとる手段としては、「凡庸な選択」となる。紅一点で孤立することの非凡さを際立たせるためには、劇的に事を終わらせなくてはならないのである。
 リプリーは、人類を救うために自分の命を断つという「英断」を、自分を追い詰めた男性達に誇示するというかたちで行っている。彼女のパフォーマンス行為が意味をもつとすれば、彼女がもともとエリートであり、紅一点であり、男性以上に奮闘努力してきたにも関わらず、なんら見返りを得ることなく孤独な闘いを強いられ辛酸を舐めてきたという点にあるだろう。つまり彼女の死は、正当に闘い抜いた不遇な女性の「復讐」として、周囲の男性の視覚に焼きつける必要があったのである。それが、ここまで闘う女性を虐めた言わばフェミニズム・バッシングの映画の、物語的なバランスのとり方である。リプリーの最後の行為によって、自らの運命と闘って敗北する女性の姿は、非凡にして忘れ難い女性のアイコンとして、感動的に見る者の心に刻印されるのである。


 しかし視覚に焼きつけてから自らの存在を消すということは、所有はされないが永久に誘惑し続けるというポジションを、イメージとして確保するということである。もちろんこれも、「悲劇のヒロイン」を描く大衆映画の定石ではあろう。そもそもリプリーは、それまでにない新しいヒロイン像として登場したはずだった。にも関わらず、最期の瞬間まで彼女は「欲望される」存在であり、男性に注目されねばならない者として描かれている。これは常に「見られる者」として存在させられてきた女性の自虐的メンタリティ、つまり「敗者のナルシシズム」を、大衆映画が巧妙に取り込んでいるということではないだろうか。観客の女性達がリプリーの行為に共感し感情移入するとすれば、その「敗者のナルシシズム」を共有できるからにほかならない。それは、「見られる者」としての自己を承認し、「敗れ去る者」としての自己を容認し、それを愛するということである。リプリーのようなジェンダーフリーな存在であっても、最後はそうした姿として描かれ、その姿にシンパシーを感じ「感動」に浸ること、それこそ女性の根深いジェンダーだと言えないだろうか。

逃走と闘争‥‥『テルマ&ルイーズ』-1

 投身自殺という観点から、次は 『テルマ&ルイーズ』を見てみよう。本作の監督リドリー・スコットは、エイリアンシリーズの一作目でシガーニー・ウィーバー演じるリプリーを、ハリウッド映画史上初の闘う強い女性として誕生させた監督である。 『エイリアン3』より一年前に公開されたこの作品は、女性二人を主人公としたロード・ムービーであり、フェミニズム的心情をリアルに反映した女性映画として話題になった。
 リプリーはエリートで知的な女性の代表であったが、テルマとルイーズはアメリカ中西部に住むごく平凡な女達である。閉塞した日常からしばし脱出しようと、二人ででかけたピクニックドライヴの途中で、思い掛けない事件に巻き込まれ、セクハラ男達と闘いつつ犯罪者として警察から追われる身となり、その過程で女性同士の固い友情を育み生きる喜びを取り戻していく様子が、痛快かつ明るいタッチで描かれている。
 ラストシーンは、二人が運転するサンダーバードコンバーチブルが警察の包囲網を逃れ、崖の中空に飛び出していった瞬間の映像となっている。『エイリアン3』で最初から闘う女性であったリプリーが、悲愴感を漂わせて溶鉱炉に落ちて行くのとは対照的に、どこにでもいる平凡な女性テルマとルイーズの生き生きした輝きが最高潮に発散されたところでの、車ごとのダイビングという豪快な心中である。All or nothingの選択肢しか持ち得なかったという意味で、二人の自殺行為はリプリーと似ているが、生を満喫しながら死に向うラストは、あえてハッピーエンドと見るべきだろう。リプリーの死は正義への殉死として描かれているが、テルマとルイーズは自己の欲望に殉じた死である。


 主人公が最後に死を遂げるという物語は、アメリカのアクション映画に時折登場する。ここでは『テルマ&ルイーズ』と物語的に類似した作品として、『俺たちに明日はない』(1967年公開 アーサー・ペン監督 米)、『明日に向って撃て!』(1969年公開 ジョージ・ロイ・ヒル監督 米)のラストとの比較をしてみよう。これら3本の映画に共通しているのは、主人公が二人組であり、彼らは本来的に悪人ではないが社会的には悪事を働いており、そのことによってどんどん社会から逸脱しながら追われる身となっていき、最後に壮絶な死を迎えるという点である。いずれも彼らに死を迫るのは、社会正義を代表する警察権力や軍、つまり男性社会である。しかしそれぞれのラスト、主人公達の「死に方」はかなり違っている。
 『明日に向って撃て!』の「男二人」は、追って来た軍隊との激しい撃ち合いで死ぬ(実際に死体は描かれない)。この物語は一種の青春映画であり、たとえ敗北しようと敢然と闘って死ぬところにヒロイズムが見い出されるのは、あらゆるヒーロー映画に共通する約束事と言えるだろう。『俺たちに明日はない』の「カップル」であるボニーとクライドは、二人とも待ち伏せしていた保安官達に銃殺される。彼らは男女のカップルであり、そのどちらかが主人公というわけではなく、行動の積極性においても際立って一方が目立つということがない点が、アクション映画では通常男性がリードするという定型を考えると、やや異色と言えよう。それゆえ、「男二人」のような撃ち合いには至らないものの、最後はほぼ同時に殺されるというかたちになっている。いずれの作品においても、主人公達の最期の場面はそれを阻む社会との全面衝突、及び決定的な敗北(撃ち殺される)として描かれている。
 こうして見ると、テルマとルイーズはボニーとクライドに近いと言えよう。テルマにいかにも女性的な情緒性が表現され、ルイーズは冷静で男っぽい女性といった描き方からすると、むしろ従来的な男女のカップルをなぞっているようである。注目すべきは強盗犯罪を犯して以降のテルマ(元専業主婦)が、それまでと一転してルイーズをリードしていく過程である。独身で(理解ある)恋人のいるルイーズよりも、はるかに抑圧的な日常を送って来たテルマが変貌していくさまは、それまでの彼女の日常を支配していた性の非対称性の重さと大きさを感じさせる。そうした現実を直視、自覚したあとの「弱者」が、いかに闘争的になりうるものであるかが描かれていると言えよう。ただ異なるのは、ボニーとクライドが殺されているのに対し、「女二人」の方は、警官達と派手な銃撃戦を闘う(「男二人」のように)こともなく、あっけなく飛び降り自殺してしまうことである。最後まで可能性を手放さない、生き残った者が勝ちというヒーローの世界の論理からすれば、彼女達の選択は論理破たんであり「反則」に見えるであろう。


 しかし、ヒーローを捉えて離さない「勝利の可能性」「生への執着」とは、男性が常により多大な権力と支配圏の獲得を目指して闘争してきた歴史、ことに近代以降の歴史が生み出したイデオロギーであるという見方もできる。『明日に向って撃て!』の「男二人」のカウボーイ的ヒロイズムは、時代(他のより強い支配力の統制)に取り残されていることを気づかないからこそのものであり、その敗北は圧倒的な権力への反抗ゆえに生じたものだった。それと比較するとテルマとルイーズの最期は、そうした男性社会の中で「見られ所有される者」として抑圧されてきた女性が抵抗を示した時、その意味を男性が理解できない(しようとしない)ゆえに抹殺されたものと理解できる。つまりヒロインの闘いは、ヒーロー達の闘いの「外」にあり、それはヒーローを擁する男性社会からは排除の対象なのである。
 彼女達の場合、警官から奪ったピストルで応戦すればすぐ撃ち殺され、諦めて投降すればさらなる屈辱を味わい、どちらの道を選択しても「男の手にかかってしまう」のは明白であった。従って、それまでの男達との闘いの中で目覚め、自分自身を奪い返してきたテルマとルイーズが、あのような唐突に見える捨て身の行動に出たのは、もう絶望して死にたくなったからではない。これ以上男性に自らの運命を委ねたくないという決意、自分の運命は自分で決めたいという強い願望は、ひたすら車を疾走させるという行為に明確に描かれている。その願望と行為の一致した延長線上には、結果的に死しかなかったのである。
 ヒーローの闘いのように、何かを守るためあるいは奪うためという所有権を巡る闘いは、そもそも女性には成立しない。女性は「守られ奪われ所有される者」であって、もともと自分の所有物などなかったからだ。そのことは夫に抑圧され家庭に拘束されていた専業主婦であるテルマの描写に、よく現れている。女性が守るのは自分自身だけであり、奪い返すのも自分自身であるというヒロイン達の「命題」に対し、この映画は忠実に作られていると言えよう。

劇場型の死‥‥『テルマ&ルイーズ』-2

 リプリーは男性社会への徹底した不信と絶望を見せつけたが、テルマとルイーズは不信と絶望を通り越した言わば「歓喜」の姿で死に向った。それは、見守る男達にとってはいずれも、女性の姿として想像もしたことのない理解し難いものだろう。「あなた達男には、私(達)がなぜ死ぬのか永久にわからないし、わかろうとしないだろう」という無言の言葉が、作り手が彼女達に言わせんとした、そして観客が聞こうとしたセリフである。それを強烈な視覚的ヴィジョンで伝えるために、男達の目の前での身投げというドラマティックな自殺行為が、ラストシーンに選ばれているのである。心中行為は普通、人目を忍んで行われるものであるが、彼女達もリプリーと同様、男達の視線を一身に受けながらそれを行う。
 テルマとルイーズを最後に追い詰めるのは警官達であり、それまでのような直接危害や侮辱を加える野蛮な男達ではないし、そこには犯罪者としての彼女達を追いながらもその行動にシンパシーを示し、身を案じる刑事すらいる。彼は言わば、監督及び観客の男性の「良心」を代弁する存在でもある。また彼も含めてその場にいる警官達は、 テルマとルイーズのようには疾走することを許されず、社会や日常と折り合っていくしかない存在としてある。と同時に、好むと好まぬとに関わらず、彼らは彼女達女性を何らかのかたちで抑圧している、男性社会を支え守る側に立たされている。テルマとルイーズの心中は、彼らが彼女達を追い詰めたゆえの行動として描かれるので、警官達は必然的に「加害者」側となる。この男女関係の構造は、逃走劇の発端であるテルマのレイプ未遂事件から、ほぼ終始一貫している。
 しかし最後に至って、「見る者」としての男性の優位と「見られる者」としての女性の劣位は完全に反転する。警官達がなす術もなくテルマとルイーズの暴走を見送る中、彼女達が見ているのは「自由」の果てであり別世界であって、この社会に馴致されながら生きてゆかねばならない男達ではない。もちろん現実的な敗者は、犯罪者の烙印を押されたまま自殺を敢行するテルマとルイーズだが、その現実を既に相手にしないと腹を括った段階で、彼女達は勝者になってしまう。しかも、彼女達が捨てた現実に未だしがみつく男達を尻目に、華々しくも清清しい最期を飾るのである。ここには、捨て身の高揚感と共に、いくばくかのナルシシズムが働いているだろう。これは二人に感情移入して見ている者にとっても同様である。


 テルマとルイーズの最後の会話は、死ぬ前の者とは思えない生気に満ちている。運転するルイーズに「Go!(このまま行って)」と呼び掛けるテルマ、「You sure?(本気なの?)」と返す笑顔のルイーズには、男達の注目を浴びながら崖の向こうへと突っ走って行く、輝かしい自分達の姿が意識されていたのではないだろうか。むしろ自分達の行動を決して理解できない「男性のオーディエンス」がいるということが、彼女達をして劇的なラストを選ばせたと見ることはできないだろうか。もし追い詰めていたのが女性警官ばかりであったなら(ほとんどあり得ない状況だが)、彼女達はあそこまで直情的な行動をとり得ただろうか。あるいは殺人犯のままうまくメキシコまで逃げおおせていたら、その「ハッピーエンド」は観客の腑に落ちただろうか。「敵」である男性に囲まれつつ潔く死に向う女性というシチュエーションは、潜在的テルマやルイーズである観客の女性達の望む「絵」として、周到に用意されているのである。二人の車が崖から離れ弧を描いて宙に飛び出した瞬間のストップモーションとなっている印象的なラストシーンは、まさにテルマとルイーズ、そして観客の女性達が、これまで男性達に「見られる者」として受けてきたとされる性的屈辱感を、ナルシスティックなかたちに反転し定着させたものとは言えないだろうか。
こうした「劇場」シーンを必要とし、そこでヒロインが男性達の注目を集めて死ぬというクライマックスが演じられ、それが多くの女性の支持と共感を取りつけるという現象は、映画に限らず珍しいものではないだろう。しかし美しさによってそれなりの注目を集めることが比較的容易であり、そのこと自体に特別な価値が見出せなくなった現在、圧倒的な注目を集めることが、このような痛ましい自己の姿を晒すこと以外にないとすれば、女性はどこまでも「見られる者」として自己を規定、拘束して/させられていることになるとも言える。

無意識の領域‥‥『ピアノ・レッスン』-1

 リプリー達が、極限状況に直面し生還することなく「飛び立った」のは、性の非対称性がどこまでも抑圧そのものとして彼女達(つまり我々に)に捉えられていたためだった。男性達を敵に回して闘う彼女達に道は閉ざされており、また閉ざされていなければ彼女達の「正当性」と、その「正当性」を認めようとしない社会を死をもって断罪するという物語も成立しなかった。しかしその最期は、結局「見られる者」として抵抗しつつ自滅していく姿だったのであり、その姿を他者に視覚的に焼きつけ自らの死と引き換えに得たのは、男性社会における「悲劇のヒロインの座」に過ぎなかった。
 そうした「劇場型」の死を免れて生還したヒロイン、それが最後にとり上げたい『ピアノ・レッスン』のエイダである。この作品は、19世紀半ば、イギリスからニュージランドの入植開拓民のもとに嫁いできた失語症の女性エイダが、自分を理解できない凡庸な常識人の夫スチュアートではなく、理解し求めようとする素養をもった粗野な男ベインズに惹かれていく中で、自己の解放に目覚めて行く過程が、彼女のピアノをキーモチーフとして描かれている。彼女は、男性から抑圧され死に等しい「罰」を受けつつも、最終的に死を選ぶことはなかった。


 彼女は夫には常に「見られる者」として存在しており、「聞かれる者」としてはほとんど認知されていない。夫はあくまで(エイダを)「見る者」でしかなく、エイダのピアノ、つまりエイダの「内面の声」を「聞く者」としての感性を備えていなかった。ベインズに対するピアノ・レッスンを通して、性愛と自己を解放することへの強い欲求に目覚めたエイダは、婚姻制度外の恋愛という「罪」を負うこととなる。その「罪」に対する「罰」が、夫によるエイダの指の切断であり、彼はそれによってエイダとベインズの関係ばかりでなく、エイダの身体(指)とエイダの内面を分かち難く結び付けていたものを断ち切ろうとする。それは、失語症の彼女から「内面の声」を奪い、文字通り「見られ所有されるだけの者」の位置に追いやることである。
 しかし写真の見合い結婚で嫁いできたエイダの身分、エイダと夫との関係は、そもそも最初からそういうものであり、そのことをエイダは、島に到着直後から敏感に感じとっている。だからこそ、彼女の内面の葛藤が生々しく表現された激しく美しいピアノ演奏は、ベインズばかりでなく観客の心を打ったと言えるだろう。また、彼女のあまり注意深いとは言えない「不倫行動」は、自分と夫の関係が婚姻制度に隠された抑圧的な関係であることを、白日のもとに晒したいという潜在的な欲求の現れと見ることもできる。つまり、一見過酷な試練に一方的に巻き込まれているように見えるが、物語の展開は実はすべてエイダ自身が(自覚しないままに)自ら作り出しているのである。それは、ベインズと共に島から旅立つ船上で、さらに明らかとなる。
 そこでエイダは、自己の分身とも言えるピアノを海に捨てるよう依頼し、ピアノに巻かれたロープを密かに片足に括りつけて海に落ちる。このピアノとの心中行為は、ピアノ演奏によってのみ自己表現してきたというそれまでの経緯から、それがもはや不可能になったことへの絶望の身投げのようにも、見受けられる。


 これまでエイダは、封建的な性関係への抵抗感と内面の苦しみを、ピアノを弾くことに托していた。逆にいえば、内的葛藤をピアノ演奏に昇華しようとし、そこに依存し精神的安定を見い出すことで、抑圧的な自己のあり方を容認していた。そこには、自分ではどうにもならない運命に自分を委ね、委ねた自分を愛するという「敗者のナルシシズム」があったのではないか。それにいかに観客が共感していたかは、エイダの弾くマイケル・ナイマンピアノ曲が話題になったことでもわかるだろう。そうしたメンタリティの中にどっぷりと浸かっていたからこそ、「罪」と「罰」によってそれが断ち切られた時、エイダは内的支えを失い、かつてない大きな精神的危機に立たされたのだ。そして彼女は、ピアノ演奏に依存していたこれまでの自分を問い直し、自己の生の欲望と深く向き合う必要に迫られた。それが、ピアノを海に捨て、自分も共に海に沈むという行為だった。つまりこの海中は、エイダの真の欲望が生起しているところ、彼女の無意識の領域であると言える。
しかし水面下何メートルもの冷たい海の中で足に絡んだロープを振りほどき、重たい衣服のまま水の上に泳ぎ出るのは、たとえ男性であっても容易いことではない。それは生死のラインに限り無く近づいた一種の極限状況であり、そこにある人間の精神状態もまた極限にあるだろう。そこから再び浮上できるかどうかはわからないという意味で、この身投げは一種の「仮の死」である。そうした「境界線上」の生死を賭けた状況にあえて自らを投げ込み、そこで一旦死に、そこから自力で生還する手続きを経ることによってしか、エイダはそれまでの抑圧的な自己とは決別できず、真の蘇生を果たすこともできなかったのである。つまり、エイダは海の中で自分に対して「死と再生の儀式」を執り行ったと見ることができるだろう。

「自分殺し」という闘い‥‥『ピアノ・レッスン』-2

 ここで注目すべきことは、海中は空中(地上)と異なって、そこにいる者が地上(海上)からは見ることができないということである。海の底を目指して深く沈んで行くピアノとロープによって結び付けられたエイダの身体は、ピアノと一心同体であったこれまでの彼女の姿を表象しているが、そうしたピアノと自分との関係を反復し、その後ピアノを捨て去り、力を振り絞って海の上へ浮上しようとするという行為のすべてが、誰の目も届かないところで行われているのである。「見る者」「見られる者」の関係が成立しない場所で、初めて彼女は自分自身と向き合うかたちとなっている。
 ヒーローは自己の命を賭けて「外敵」と闘う。ヒーローに限り無く近かったリプリーがそうであり、テルマとルイーズは命を賭けて「外敵」からプライドを守ろうとした。しかしエイダの敵は「外敵」ではなく自己の運命であり、運命にただ身を任せてきた抑圧的で受動的な自分自身である。エイダが自分に与えた試練は、そうした「内なる敵」を勇気をもって「殺す」ことだった。その行いを、彼女はまったくナルシシズムが作動しない環境の中で行っている。これまで見て来たような「劇場」型の死をもって解決とするというラストは、ここでは避けられているのである。
 エイダは男性を敵に回して英雄的に闘うことはしなかった(その機会すら最初から失われていた)が、封建的な性関係を拒み自らの欲望を優先させたために、彼女にとって身体の最も重要な部分を失うという犠牲を払っている。にも関わらず彼女が「悲劇のヒロイン」にはならず、日常世界に復帰する力を得たのは、旧来の自己との決別を極限状況において孤独に敢行することで、初めて能動的な自己を見い出し、生への強い希求を自覚したからであろう。


 生への希求は、もちろん性への希求でもある。エイダは、男女の関係を一方的に決定する婚姻制度(彼女は写真結婚によってスチュアートに「見初められ」嫁いできている)という形式においてではなく、性愛において受け入れるという道を選んだ。そのきっかけとなったベインズが、近代化への道をひた走るヨーロッパの男性社会から逸脱し、非ヨーロッパ的風土と親和的関係を作っている「野蛮人」として登場していたことは、象徴的であると言える。
 婚姻制度において専業主婦が大量に出現したのは、近代以降である。「男は仕事、女は家庭」という性役割分業体制が、近代産業社会、つまり資本主義社会の確立以後、顕著になったことはしばしば指摘されている。初期の産業社会においては女性もまだ重要な労働力であったが、生産性と効率性を重視する経営者側からすれば、女性の労働は安定していないと看做され、それに替わって集中して労働に従事する男性の生活のケアをするために、女性は家庭内に拘束されることとなった。近代資本主義社会は、このような性役割分業を支えとして発展してきたと言ってよい。スチュアートの望んだ家庭はまさにそのようなものであり、家事と育児に専念するべき妻のピアノの才能が、さして重要なことと感じられなかったのも無理はない。彼にとって重要なのは植民地における土地の獲得と開墾、つまり支配圏の拡大であり、そのためにエイダのピアノをベインズに売り払うことは、当然の行為だったのである。


 一方ベインズは、エイダからピアノのレッスンを受けるのと引き替えにピアノのキーをエイダに返すという取り引きを行い、やがてピアノを彼女に返却する。この取り引きの場面で、エイダは従順で抑圧された女ではなく、男性と対等に渡り合い自己の立場を主張しようとする、意志的な女性として描かれている。そしてベインズと共に新生活をスタートさせたエイダは、言葉を回復するためのレッスンとピアノの教師を始めたとモノローグは語っている。エイダはベインズと結ばれたことにより、自己の能力を切り開くチャンスを掴み社会復帰するのである。
 従って、ベインズがニュージーランド前近代的な共同体に馴染んでいたからといって、スチュアートよりも保守的な旧態已然とした女性観を持っていた人物として描かれているわけではない。男女を仕事と家庭に拘束、固定化し、ひたすら生産性の向上と合理化を目指す近代ヨーロッパの資本主義社会に歯車として組み込まれることに、彼が強い違和感を感じていたと見るのが妥当だろう。エイダという自意識の強い、それゆえに家夫長的封建世界から閉め出されることとなる女性と出会わなければ、ベインズも自らが捨てた世界に復帰し再出発することはなく、ニュージーランドの奥地に異邦人、しかもヨーロッパ人としてのアイデンティティを半ば捨てた中途半端な存在として留まるしかなかったであろう。彼はそこでは常に不安定な「境界線上」の者であった。エイダとの出会いは、彼にとっても「死と再生の儀式」であったとの解釈も成り立つだろう。
 つまりエイダは、抑圧された自己と闘ってそれを「殺し」、本来の自己を解放するという「闘争」を通じて、結果的にベインズをも解放していることになる。女性が自分との壮絶な戦いを通して男性を救済するという、ヒーロー物語とは逆転した構造が、ここにある。そしてその物語が、男性に伍して闘ったり男性とあからさまに対決する「強い女性」ではなく、一見地味で内向的な女性によってなされていることが、注目を浴びたのではないかと思われる。
20世紀に入ってから、女性は男性社会の支配と闘いそこでの権利を獲得してきたが、80年代以降は現象としてのウーマン・リブも後退し、いわゆる従来型の「抵抗の物語」が機能しえないほど社会も男女関係も複雑化してきている。そうした中で、男性社会に馴致されることでとりあえずの安定を見い出していた抑圧的な自己と対面し、「自分殺し」を通じて自己解放を目指す等身大の女性の物語が、描かれた時代背景を越えてリアリティをもったと見ることができるだろう。

結び

 大衆娯楽映画は冒頭にも触れたように、大衆の欲望や無意識を取り込み反映させるものであると共に、そこに一定の方向づけを与えるような影響力も持つ。従ってそうした中で描かれる女性像も、大衆のジェンダー意識を反映しつつ、それに常に何らかの働きかけを行っているものであるとの認識のもとに、3本の映画を分析してきた。『エイリアン3』と『テルマ&ルイーズ』では男性社会への明確な抗議として死があり、『ピアノ・レッスン』では自己との闘いによる擬制の死があった。エンターティメントが死を最終目標と措定することは困難な以上、テルマとルイーズの死は、自己の欲望を肯定した上のダイビングとして描かれ、リプリーをヒロインとしたエイリアンシリーズは継続された。
 このような観点から見てくると、現在ヒロインを描くということは、女性が自らの真の欲望を見据えその成就に犠牲を払い、ある「境界線上」に位置するという過酷な状況=「仮の死」を自力でくぐり抜けて、初めて生を肯定し能動的に生きることができるという物語に収束していくように思われる。それは「悲劇のヒロイン」に感情移入し、そのビジュアルイメージをナルシシズムと共に受け取ることで、そこに描かれた闘争の意味ではなく、「甘美な絶望」のみに依存してしまうメンタリティを問い直すものでもあるだろう。
 ただ『ピアノ・レッスン』が、異性愛賛歌として観られる可能性も残してないとは言えないことは、付け加えておかねばならない。異性愛賛歌と共に生産される数々のビジュアルイメージは、今日女性のナルシシズムを刺激し、過剰な消費欲を駆動させているエネルギーの一つであるが、そのことが女性のジェンダー規範を強化する結果ともなっている。男女の性の非対称性を、愛の名の下に安易に解消させてしまうことは、今日「恋愛」を利用する消費社会のイデオロギーに回収されることになりかねないということには、注意を払う必要があるだろう。
 男性のように仕事に生き、よりレベルの高い社会的自己実現を果たそうとするのは、結果として従来のヒーローの物語を受け入れることである。かといってヒーローに出会いトロフィーワイフとして生きることも、ヒーローの物語の補完とならざるを得ない。いずれも、苦労と努力の果てには必ずそれに見合った報酬があるといった近代的価値観に基づいた物語であり、現在生産されているハリウッドのヒロイン映画の大半は、ほぼこの二つに分類されるだろう。つまりそれはヒーローの物語という定型の「影」としてあるのである。
 しかし一方では、そうしたヒーローの物語が代表するような、「外部」との飽くなき闘争によって果たされると信じられてきた「目的」や「自己実現」への漠然とした不信が、大衆社会全般に潜在しているようにも思われる。そうした物語の信用を支えてきたのは、アメリカという特殊な社会であり、アメリカ=世界といったイデオロギーの上に構築されてきた信用であることが、明らかになってきてもいる。こうした中で、ヒロイン像は今後、どういったものとして描かれてゆくのだろうか。アンチ・ヒロインをも含む「多様性」へと拡散していくのだろうか。大衆映画を始め「商品」としての視覚表現は、それを消費することによる一定の満足を目的とする以上、「大衆の欲望」とされるものを捏造する働きも持つ。現在、女性の視覚イメージが多様化されたように見える中で、その表現の「多様性」によって、現実の男女関係の非対称性が隠蔽されていくといった側面があることも、見過ごすことのできない問題となるだろう。
 こうしたことを考察する上で、大衆が日常的に接しているメディア、アニメーションやマンガ、テレビドラマなどに登場するヒロインの描かれ方や芸術表現に見られる女性性など、視覚文化全般におけるジェンダーの現れについて、様々な角度から検証していくことが必要であろう。


(初出 2003年度名古屋芸術大学紀要)