遅まきながら『トーク・トゥ・ハー』

トーク・トゥ・ハー スタンダード・エディション [DVD]

トーク・トゥ・ハー スタンダード・エディション [DVD]

やっとDVDで見た(2002年、ペドロ・アルモドバル)。
ここでは女は、男に発見され一方的に見られ愛されるだけの存在だ。ほとんど男の幻想とフェティシズムの対象。ああやっぱりそういうことだったのかということです、身も蓋もなく言ってしまうと。


いずれも女の方が事故で植物人間になってしまった二組の男女。
片方はもともと男の方が片思い(ほとんどストーカー)だったべニグノ&バレリーナアリシア、もう片方は恋人同士だった女闘牛士リディア&マルコ。女性がいずれも「一方的に見られる仕事」に関係しているのが、興味深いポイントだ。


そもそも二人とも、女とは一方向的な出会い方をしている。
ベニグノは窓越しにバレエのレッスン中のアリシアに一目惚れするのだし、マルコはテレビに出ていたリディアに興味を持ったのが近づくきっかけだ。いずれもフレーム越し。
つまり最初から男は女と隔てられていて、男が一方的に女を発見し接触するが、何らかの形でコミュニケーションの不全がある。
(以下ネタばれあり)



アリシアへの介護士ベニグノの「献身ぶり」が見ものだった。等身大の人形に名前をつけて話し掛けて着せ替えごっこしているマニアみたいでもあった。優しい人と危ない人のきわきわのライン。
こういうの、実は男の人の「夢」だったりするんじゃないかと思う。見ていて「こいつキモい。でもうらやましいかも」と思った人、結構いると思う。
屈折した中年男のマルコはそういう「献身」ができないが、ベニグノは確信犯的にその関係の中にいる。
彼はアリシアにはなから相手にされていないし、女に興味を持たれるような風貌でもないし、母親には抑圧されてきた。もともとモテそうなマルコと違って、男女関係においてベニグノには最初から「勝ち目」がない。


「劇中劇」となっている『縮みゆく男』というサイレント映画が登場する。薬で小人みたいに縮んじゃった男が、 寝ている恋人の膣(下手糞な作り物でかえって不気味)の中に入っていく。
この「決死のレイプ」に、女を知らないもてない男ベニグノは共鳴してしまう。
介護とレイプとどう違うのか。って全然違うが、ベニグノにとっては連続していた。アリシアへの一方的な愛情表現である介護自体、抽象的に言えばレイプみたいなものだった。その延長線上に実際のレイプがあってもおかしくなかった。
一方的な思い込みで法や道徳を越えてしまったこの男は、肯定的でも否定的でもなく淡々と描かれている。



マルコの弱点はベニグノと対照的に、「経験則があり、わきまえている」ということだ。彼には、ベニグノのような想像力(というか妄想力)が欠けている代わり、大きな逸脱もしない。
マルコは恋愛を繰り返しながら悩みを深めていく愚者で、ベニグノは一回の出会いにすべてを賭けてしまう愚者だ。ベニグノはマルコの無意識かもしれない。
最後にマルコがベニグノのために奔走するのは、彼が「もう一人の自分」だと知ったからだろう。しかし二人は既に、刑務所の面会室の分厚いアクリル板を挟んで、分断されている。男女の関係も成立しないが、男同士の関係もいざと言う時には困難なものになっている。


ベニグノとマルコの行動様式の対比は、それぞれの女のその後の運命に対応している。
リディアは結局目を覚ますことはなく、アリシアには最後に奇跡が訪れる。もしかしたらレイプの結果が、皮肉にも彼女の蘇生のきっかけとなったかもしれない。もちろんその因果関係は最後までわからない。


ところで童話の眠り姫や白雪姫は、植物人間状態になってたところを王子様のキスで起こされる。
王子はその前に長い旅とか魔女との闘いをしているが、レイプではなくキスしただけで奇跡が起こり結ばれるというのが、女の子の心を捉えるロマンチック・ファンタジーということになっている。たとえ男女が入れ代わっても、ロミオとジュリエットのように悲劇となっても、恋愛の成就が基本テーゼとなっていることに変わりはない。


ベニグノは4年も介護して、最後に道を踏み外した。相手の女がそれを知ることはなく、彼の前で奇跡は起こらなかった。
それは変態と紙一重で、完全にすれ違いでまったく報われない、自己完結した脳内恋愛だった。逸脱は避けられたマルコにしても、恋人の本心には鈍感だったのだからほんとは同じようなものだろう。


愛とはそういうものだということを、アルモドバルは過去の作品でも描いている。
「恋愛関係」というものは存在しない。男女の間にインタラクティヴで十全な関係などない。男と女は出会えない。だからこの映画ももちろん、宣伝されたような「無償の愛」賛歌などではない。


ベニグノはアリシアの介護をしながら、アリシアの恢復を心から祈ったのだろうか。あのような真摯で辛抱強い介護は、その期待を持ち続けなければ、到底継続できないことのように思える。
しかしもしアリシアが恢復したら、彼女から自分が遠ざけられることもベニグノは予測できただろう。とすれば、永久に植物人間の彼女を介護し続けるという「出会わない状態」こそが、彼がとりあえず望む状態となる。 アリシアという「絶望」にひたすら献身(ストーカー)する状態の継続が、彼の幸福の源だった。


だからベニグノが自殺した後に、アリシアが「生き返る」のは、ベニグノの望みに沿ったことなのだ。
彼の幸福、彼自身の生と引き替えに訪れたアリシアの奇跡。
これは、男女関係の不可能性だけでなく、真の希望の実現(奇跡)と幸福との困難な関係をも示しているように思う。奇跡と幸福は同時にはあり得ないのである。


最後、劇場で振り向いたマルコとアリシアの間には、空席が一個あった。空席があったから彼らは顔を見合わすことができた。
その席にいるのはベニグノだ。マルコは今はいないベニグノ(の代償)を通してしか、アリシアには出会えない。
二人の間にぽっかり空いていたあの空間は、一見新たな可能性のように見えるが、越えられない永遠の距離にも思える。



男二人が出会うきっかけとなる冒頭の劇場シーンに、ピナ・バウシュのダンスがあった。
うちひしがれた身振りでほとんど目を閉じて踊る彼女がぶつからないように、必死で周囲のイスをどけ続ける男。一生懸命だが不格好なその姿は彼女の目には映らないし、彼に彼女のダンスの意味はわからないだろう。女にできるのは絶望的に一人で踊り続けることだけで、男にできるのはそれを続けさせてあげることだけ。
それを見てマルコは感動の涙を流していた。彼はドラッグへの耽溺から救い出すことができずに別れた昔の恋人のことを思い出して、感傷に浸ったかもしれないが、隣のベニグノはそこに男女の究極的な関係を直感したかもしれない。


男と女が出会えないこと、「男女関係の不可能性」に、ある男は悲しみを覚えある男は喜びを見い出す。
どっちが男の本当の気持ちなのだろうか? あるいは、その幅の間で振り子のように振れているだけなのだろうか? 
私がいつもわからないのは、そのことだ。