母の娘、娘の母

松田聖子という女

茶店でまた女性セブンを読んでいたら、松田聖子は娘と一緒にお風呂に入っていると書いてあった。
松田聖子42才、娘さやか(漢字を忘れた)17才。一緒にステージに立っている写真が掲載されていたが、お風呂の中までついてこられて、さやかは何とも思わないのだろうか。いや、さやかの意志などどうでもいいのだろう。あれは聖子の「人形」なんだから。
聖子は端的に言って、自分のクローンを作りたいのだと思う。娘をクローンにするには、お風呂からやらないとだめ。聖子の子育ては徹底している。


松田聖子という女は、福島瑞穂こちらの記事参照)あたりの何倍も、生まれつき「母親」だ。
「母親」タイプの女は、郷ひろみみたいな「俺がセカチュー」タイプとは反りが合わないので、石原裕次郎の下っ端子分格だった神田正輝と一緒になった。しかし相手が「軍団の息子」では聖子の「母親魂」が満足するわけもなく、次々と外人の「息子」に手を出した。その後のどこぞの歯医者なんかは、正輝以下の「息子」であった。
しかし今はさやかがいる。


「息子の母親」としては失敗した聖子だったが、「娘の母親」なら自分のクローンを作ればいいので、やる気も起ころうというものだ。こんな大きな娘がいるにも関わらず、とても母親にも40代にも見えない松田聖子は、「女を捨てない若いママ」を目指す全国の母親の頂点に立っている。
実はその頂点に立っている芸能人ママは、たぶん女優の黒木瞳の方なのだが、聖子の視界にそれは入っていないということだ。


振り袖姿で娘と並んだ写真は、まるで姉妹のように見える。
一頃テレビで、街を歩く女二人連れの後ろ姿を追い掛けていって、ほんとは親子でした、見えませんねー姉妹みたいというのがあった。その時の母親の満面の笑みはまさに「女」そのもので、「女の業」の深さを思い知らされる場面であった。私には子供がいないが、もし同じシチュエーションだったら、その「業」が滲み出してくるのを押さえる自信は正直言ってない。
それを堂々と「売り」にしているのが、今の松田聖子である。

必死の赤頭巾

しかし母の期待に比べると、娘は今のところもう一つぱっとしない。
その娘が、昨日の深夜テレビのドキュメンタリーみたいな番組に出ていた。ミュージカルの練習風景である。深夜枠、ミュージカルといったところで、有名歌手の娘さやかの、もうこれ以上後ろには引けない苦しいポジションが伝わってくる。そして母の「それ以上落ちちゃダメ!」という叱咤激励も聞こえてくる。


指導するのは宮本亜門。さやかはもちろん主役の赤頭巾。しかしぜんぜんかわいくない。神田正輝が女装したところを「修正」したみたいである。
宮本亜門は、母・聖子から預かった娘さやかに、(カメラが回っていることもあって)とても熱っぽい演技指導をしている。プレッシャーに押しつぶされそうな松田聖子の娘を、厳しく優しく育てる演出家という役を、嫌味なくらい上手く演じている。
さやかも必死だが、はっきり言って役にハマっていない。やればやるほどドスが効いてコワくなる。
それに歌のメロディがえらく複雑で難易度高そうだ。さやかはちゃんと音程をとっているのだろうが、まるで気の触れた赤頭巾のよう。素人目にも完全なミスキャストである。
おそらく宮本亜門もわかっているのだろう、自ら振りをつけて、思い入れたっぷりに手本をやってみせたりしている。もうお前が赤頭巾やった方がいいんじゃないか?というくらいな感じである。


さやかは、ほんとにこういうことがしたいのだろうか。
いったい何がしたいのだろうか、この娘は。
母のようなアイドルを目指す、それしかないのだろうか。
ちっとも似合わない赤いフードをかぶり、「♪そこにわたしのおばあさんが〜ナントカナントカ〜」のフレーズを反復練習する神田正輝顔の女の子を見ていて、私は気の毒で涙が出てきた。

母を裏切れ

芸能人の子供に生まれたら芸能人にならなくてはいけないのか。そういうことはないが、親が悪かった。
一時は栄華を極めたアイドル、それも「母親」タイプの大変握力の強い女の子供に生まれてしまったのだから、意志とは関係なく運命は決まっていた。夫がいようがいなかろうが、聖子は娘を自分の思うようにしただろう。


しかし生まれた環境がすごくても、その子がすごいことにはならない。だから、さやか程度の顔とスタイルと歌唱力や演技力の女の子がしのぎを削る芸能界周辺で、親の七光り抜きに光らねばならない。
松浦亜弥アイドル道を独走している現在、注目されるには宇多田ヒカルのような「アーティスト」になるか、モーニング娘。に入るか、イエローキャブからデビューするのが早道だ。しかし、さやかにずば抜けた音楽的才能はないようだし、モー娘やイエローキャブでは、母のプライドが許さないだろう。第一もう17にもなってて巨乳でもなければ、どっちにも入れない。


企画色の強さを逆手に取って変幻自在のあややに比べ、さやかは何か「重い」。80年代のアイドルを引きずったような「重さ」がある。あれだとなかなか売れないだろうなと誰でも思うのに、あの親子は勘違いしている。
だいたい女性セブンを毎週喫茶店で読んでいる私が、「さやか」を漢字に変換できないのだ。そのレベルなのだ、さやかは。と思って調べてみたら、今はSAYAKAと書くそうだが、漢字を横文字にしたくらいで変わるもんではない。


すべては、母の馬鹿げたプライドと思い込みのせいである。自分が40過ぎても「ぶりっ子」したいもんだから、娘にもそれを押し付けている。
娘が自分レベルのアイドルになれないことは、聖子本人が一番よく知っているはずだ。娘と並んでかわいく見える自分をまず演出したいのが、本心だろう。娘は自分の引き立て役なのだ。どこまでも業の深い女である。


だからさやかは、あの母を殺すか裏切るかしない限り、母が死ぬまで「人形」から抜けだせないだろう。
今はまだ「人形」たらんとして頑張っているが、どうにも松田聖子にはなれない(それはもうわかってる)、どころか普通のアイドルとしても大成できないとしたら。ミュージカル女優? そんなんで母が許してくれるのだろうか。というか、なれるのか。もし頭が良ければトーク番組で生き延びる手もあろうが、「松田聖子の娘」として生きてきた女の子が、人をヨイショするトークが器用にできるとも思われない。
そして松田聖子は絶対に死なない母親だ。


となると、残る手は「結婚」しかない。とにかくあんまり見劣りのしないどっかの男とくっついて、早くママの元を離れることだ。悲しいことだがさやか、それしか道はない。
そのためには、もうママとお風呂に入らないこと。買い物も一緒に行くな。
そして男をママに盗られないように気をつけろ。