シンクロの謎

日本のハンディ

もうそろそろオリンピックの話題もやめようと思いつつ、まだ書いている。
前から思っていることなのだが、どうなのだろうか、シンクロナイズドスイミングで、「日本」をモチーフにするというのは。
日本文化をアピールすることに反対ではないが、純和風でシンクロやるっていうのは、なにか‥‥しっくりとこない。こないけど、そんな感想を漏らしてはいけないような雰囲気がある。それは絶対言ってはならぬという。
「世界最高水準の日本のシンクロ界がメダル獲ってきたテーマに、ケチつける気なの? シンクロで日本の心をという独創性と芸術性を、あなたは理解する能力がないの? あなたは日本人でありながら日本の文化に誇りがないの? 非国民!」とか言われたら、「はいすみません」と引き下がるしかなさそうな、そんな感じ。


報道されているように、4月の五輪予選で歌舞伎を前面に出した作品は、もう一つ評価が得られなかった。外国人審査員に、シンクロ歌舞伎はシュール過ぎたようだ。外国人の気持ちはわかる。
それで、一応その路線は保持しながらも全面的に直したのが、今回披露された「日本人形(ジャパニーズ・ドール)」。


「日本人形」とは、また漠然としたテーマである。外国人審査員にはピンと来るのだろうかと、心配しながら予選と決勝戦を見た。
あの笑い声は何を意味しているのだろうか。日本人形が夜中に「ウフフッ」て笑ったら怖いだろうな、などと思っているうちに、演技は終わった。面白い振付けだった。特に秘密兵器と言われた、あの脚のホラーな重なり。思わずギョッとした。技術もすごかった。ともかくなんかとても変わったものを見せてくれてありがとう。
申し訳ないが、私はそれ以外にうまい感想がない。その後の「シンクロの王道」演技に、もう圧倒されてしまったので。


日本の演技が観客に受けた後で、ロシアにすべてを攫われた時、ああやっぱりと思った。こういう感覚は、味わったことがある気がした。
男の人に「君みたいな楽しい人には会ったことがない」と言われていい気になっていたら、数段頭が良くてウィットに富んだすごい美人が登場して、完全にもっていかれてしまった‥‥みたいな敗北感。


シンクロだけでなく、体操や冬期のフィギュアスケートなど芸術点がある種目を見ていると、いつも微妙な気持ちになる。
使用される音楽が民族性を意識したものが時々あるが、いかにもダンサブルでドラマチックで、種目にも演技している人のビジュアルにぴったりマッチしてして、欧米人って得だなあと思う。
かなり前の確かリレハンメル冬季五輪(だったか)のフィギュアスケートのフリー演技で、「アルビノーニアダージョ」をバックに滑ったロシアの男女ペアは、本当に素晴らしかった。フィギュアスケートを見て初めて感動して、涙すら出てきたという珍しい体験をした。
ロシアと「アルビノーニアダージョ」は直接関係ないが、スラリとした西欧人がお家芸クラシック音楽で滑るだけで絵的にハマっているので、素直に見てしまえた。


日本人の根本的なハンディも、そういうところにある。
伊藤みどりだって、技術では誰も寄せつけなかったが、いつも芸術点が低かった。芸術点って顔とスタイルで決まるのか?と、口には出さないが誰もが思った。
日本舞踊や能や歌舞伎の世界なら、日本人の顔とスタイルでなければならないが、世界共通の表現となっているスケートやシンクロではハンディとなる。欧米人並みのカラダに近くなったと言われる今でも、欧米人と並ぶと「うーんまだ負けてるな」と思う。自分が比較されているかのように遣る瀬無くなる。


これで向こうの音楽を使ったら、ますますその違和感が表に出てしまうだろう。同じステージで勝負してもダメなのだ。
そこにあるのが「和」。表現、芸術ときたら、「世界の舞台」では「和」が強い。欧米人は「和」に弱い(と日本人は思っている)。浮世絵しかり、クロサワしかり。現代アートだってそうだ。
どんなジャンルでもそれを切り札にしてやっているのだから、シンクロでやっていけないことはない。いや、やらねば勝負できない。

ジャパニーズ・ガール

そもそも(と私が説明するまでもないが)、これまで日本のシンクロは「夜叉」「忍者」「空手」など、「和」をアピールする曲と振付けで高得点を得てきた。
ずっと音楽を担当してきた大沢みずほ氏も、「和」は五輪で「勝つための戦略」と言っている。「勝つには時にあざとさも必要だ」と。


シンクロは言わば水中バレエである。水中バレエでの「和」は、普通のバレエでチュチュを着て佐渡おけさを踊って感心させるくらい難しい。
歌舞伎にしても日本人形にしても、そこにあるのは人間というより「衣装」の存在感だ。西洋のバレエみたいに、ボディコンシャスな衣装は日本にはない。そういう「和もの」のビジュアルの与える特異な印象は、非常に大きい。
それを、半裸に近いような格好でもって表現しようというのである。かなりの冒険、というかすごい挑戦であることには違いない。


どんなジャンルでも、今まで人が思いつかなかったような発想というのは、とりあえず注目される。芸術関係では特にそうである。誰もそれを思いつかなかった、思いついてもやる勇気がなかった、というだけで評価されることもしばしば。
でも芸術に興味のない一般の人は、「何かわけのわからんことをやっているが、きっとすごいんだろうな。私らには理解できんが」と思って、ツッコむことはしない。特にその発想が勝負に勝つために必要となれば、誰にも文句は言えない。
だからというわけではないが、日本のシンクロの「和」路線も、ややシュールだけど別に反対する理由はない。私ごときが「それはやめた方が」などと言って、やめてもらえるものでもないし。やっぱり日本人にはその路線しかないのかな、とも思うし。むしろそういう難関に挑む姿勢は、高く評価せねばならないのかもしれない。


「日本人形(ジャパニーズ・ドール)」と言うと思い浮かぶイメージは、小さい傘をさしてポックリに着物の裾を引きずった芸者姿の人形である。昔はどこの家の玄関にも、ガラスのケースに入ったそういう日本人形が飾られていたものである。
もちろんピアノの上に飾ってあるのは「西洋人形」だった。西洋人形はお姫様だが、日本人形はどう見ても芸者に見えた。まあ芸者が日本の昔のお姫さまの格好をしているのだが。
芸者=高級水商売の女の「水」繋がりで、シンクロのモチーフになったのか(なわけないよね)。


「ジャパニーズ・ドール」というより、「ジャパニーズ・ガール」だったら少しは納得できる。
自分の意志がなくて、隣の人とまったく同じ動きで、何か言われても「ウフフッ」て口に手を当てて笑っているだけの、日本の女。化粧と衣装はハデだけど、ワンパターンの人形みたいな反応しかできない日本の女。それが「日本人形」のテーマ。 そういう「ダブル・ミーニング」を、深読みしてしまう外国人記者はいるかも。


‥‥このテーマを長年暖めてきたという井村コーチとシンクロファンに、半殺しにされそうなことを書いたが、日本チームの「日本人形」に、私の感情は今ひとつ素直に反応しなかった。これでないとメダルはとれないんだと、無理矢理自分を納得させないといけないものが、そこにあった。
技術点は理性で判断されるだろうが、芸術点は感情の部分に訴えねばならない。今の路線で、審査員全員に芸術点満点つけさせるには、日本の伝統芸能が彼らの琴線に触れるところまで浸透しないと、難しいと思う。
技術の高さも、脚の長さに影響されることはある。芸術性を高めるには、危ない橋を渡らねばならない。日本のシンクロは、競技すること自体がチャレンジングだ。


外国人選手には、結婚などで他の国に移住し、その国の国籍を取得して出場している人が何人かいた。強い国では競争が激しくてオリンピックに出られなくても、国が違えば出られる可能性はある。
しかしロシア人選手が日本に帰化して「和」を表現ということになったら、複雑なものがある。日本のコアなシンクロファンはやはり許さないであろう。