「日本ど真ん中まつり」考

全国的よさこい流行り

一昨日、昨日と8月最後の週末、名古屋は栄の真ん中で、変な衣装を来た人々が、打ち鳴らす鐘や太鼓に合わせて踊っていたらしい。
それを見に何千人という人が押し掛けていたらしい。
その人々もほとんどどこかの「チーム」に参加している踊り手らしい。
これは「日本ど真ん中まつり」(名古屋だから位置的にど真ん中)と言う通称「どまつり」。今年で6年目だそうだ。


CBCはお昼から二時間あまりに渡って、まつりの模様を放映した。私が見たのは、それを放映するというお知らせだけだが、お知らせだけでも見ておいてよかった。うっかり栄に買い物に出かけなくて済んだ。
祭りが嫌いなのではない。「ど真ん中まつり」に代表されるものが、なんか苦手なだけ。何が代表されているのか、分析してみたい。


こういうまつりの元は高知の「よさこい祭り」である。
よさこい祭りのHPを見てみると、「戦後の景気振興策として高知市の商工会が中心になって始めた祭りで、今年(2004)で51回目」になり、「当初は純和風の盆踊りスタイルだったよう」だが、「現在ではロック、サンバなど現代音楽をアレンジして、大勢の若者が参加するにぎやかなお祭りになって」いるとのことである。よさこいサウンドトラックCDまで発売されているのである。
それを真似したのが、北海道札幌市で開催される「YOSAKOIソーラン祭り」(毎年6月)、東京都渋谷区の「原宿表参道元氣祭り・スーパーよさこい」(毎年8月)、静岡県沼津市の「よさこい東海道」などで、名古屋の「どまつり」もその路線に乗ったやつ。


「いろんなとこでよさこいまつりっちゅうもんやって盛り上がっとるで、いっちょ名古屋でもやってみよまいか」と商工会議所のおっさん達が言い始めて、「8月は売り上げ落ちる月だで、まつりやったらええわな」「あちこちでやりゃあ商店街にも金落としてってまえるし」「名古屋以外からもお客さん呼べるし」「ほんならやろまい」ということで、始まった(のだと思う)。
まあそれは商魂というものなので、あえて何も言わない。
私が奇異に感じるのは、そこに何千人という人が参加して、そのために猛練習を積んでいるという事実である。
みんなそんなに揃いのハッピで踊るのが好きだったのか。


それぞれのチームのハッピはいろいろ工夫が凝らされていて、丈の長いものとかヒラヒラしたやつとかいろいろである。 昨日CBCでは、出待ちのそういう個性的なハッピ姿の若者にインタビューしていた。「今年のテーマは?」という質問に「和を意識して‥‥」。そんなの聞かなくても見りゃわかる。
何十もチームがあるなら、もっとバラエティに富んでいてもよさそうなものだが、ほとんど皆同じような「和」の雰囲気のようだ。


北海道の「YOSAKOIソーラン祭り」の模様を、数年前テレビで見たことがある。まず感じたのは、若者が多いということ。それから女性が多い。オジサンはあんまり参加していない。
名古屋も大方そうだろうと思う。仕事に忙しい大人の男は、踊りの練習なんかしている暇はないし。よさこい関連でどのくらい収益が上がるか、そっちの計算の方が忙しいのかもしれない。


大人数で揃って踊るモチベーションというのは、いったい何なのか。
たとえば北朝鮮マスゲームは、将軍様を讃え、共産主義国家の建設に国民が一糸乱れず向っている、ということの表現であるから、それはわかる。
オリンピックや各種体育大会などのマスゲームは、何を讃え何に向っているのか知らないけど、オープニングを飾り、大会を盛り上げる見せ物であることは確かだ。
リオのカーニバルは、もともと謝肉祭とアフロブラジルのサンバ・カリオカが結びついたもの。
LOVE PARADEは、ゲイとレズビアンの人達の祭典。
ではよさこいは?

真面目なヤンキー魂

路上で踊ることは、かつて若者の示威行為だった。
80年頃の原宿のタケノコ族に始まって、一時期様々な路上ダンス・パフォーマンスが繰り広げられたのだが、それは趣味嗜好を同じくする若者グループの自己顕示であり、音楽とファッションが各集団でいかに異なるかということが重要だった。
一世風靡」がデビューしたあたりから、こういう路上パフォーマンスは消えていったように思う。つまり、路上の若者の示威行動は商業ベースに呑み込まれた。


その「一世風靡」に感じられたテイストは、「和」である。もっと言うと、プチ・ナショナルな感じである。
太鼓、武道のようなポーズ、一糸乱れぬ動き。「忍者」「空手」「武士道」(最近どこかで聞いたことのあるテーマだ)といったものを思い出させる。「一世風靡」から役者デビューした柳葉敏郎が、基本的に古風な「俺についてこい」タイプの男を演じていて、哀川翔Vシネマのヤクザ役で売れたというのも象徴的である。
そして、よさこいに私が感じるのも同じ、どこかプチ・ナショナルなテイストである。
サンバやロックがあるといっても、見たところ和風のユニフォームや鉢巻きで揃え(洋風はない)、太鼓のリズムにぴったり合わせた動きで踊っているのである。日本人が過剰に意識して自己演出している、すごくヘンな日本というか。
いや漠然と日本と言うより、プチ・ナショと言うより、もっとマイナーな何かが感じられる。


それはあえて言うと、ヤンキー臭いということではないかと思う。
あそこに参加している若者達の半分以上は、みんななんとなくヤンキーに見える。おばさん達は元ヤンキー。子供達は将来のヤンキー。よさこいは、ヤンキー魂を持つ人々の大集合なのだろうか。


健康的なヤンキーというカテゴリはない。
薄汚れたジャージにつっかけで、コンビニの前にウンコ座りして、通る人々を威嚇しているのがヤンキー。箱乗りで信号無視して検問を突破するのがヤンキー。真夜中に住宅街でフカして人々に迷惑をかけるのがヤンキー。(もう絶滅したかもしれないが)それが陽の当るうちから表でハッピ着て踊っていていいのかと思う。
そういうヤンキーと、非ヤンキーなよさこいの人々との共通点は何か。集団行動が好きということだ。集団行動と言えばまつり、まつりといえば踊り。しかし、そこらの町内の盆踊りみたいにへらへら踊っているのでは駄目。
チームで踊りを競うんだから、闘争的でなくてはならない。集団をまとめて引っ張るリーダーが必要である。リーダーの言うことを全員に行き渡らせ、ダラダラ踊っているヤツを適度にシメる、サブリーダーも必要である。集団的統制というものがそこに要求される。
そこに出て来るのが、真面目なヤンキー魂。


名古屋は昔から、大都市の中でもヤンキー率が高い。統計をとったわけではないが、ヤンキーが発生しやすい土壌がある。
まず昔から全国的に有名な愛知の管理教育。そしてトヨタ財閥のお陰で仕事探しにあくせくしなくていい経済事情があり、そこからこぼれた者は真の落ちこぼれとなる。しかしパチンコ店が多いので、なんとかシノギはできる。それから暴走族が走るのにうってつけな道路の広さ。 プチ・ナショに流されやすい保守的な県民性。


そんなわけで、妙なハッピで集団行動というのに、もともと適した条件が整っている。他の地域ではどうだか知らないが、「どまつり」のメンタリティにはヤンキー魂が息づいている。普段抑圧されている何かが、そこで爆発するのである。でも一糸乱れずに、が条件。
それに躊躇なく参加できたら、どんなに楽しいだろうか。ど真ん中まつりのど真ん中でハッピ着て踊る。燃えるだろうなあ。
そういうものを忌み嫌ってしまう自分が、ちょっとだけ悲しい。