叶姉妹からフェミニストまで

服装の悩み

後期の授業が始まったが、私は少し憂鬱である。
授業準備ができていないとか、働きたくないということではない。「痩せなかった」からである。もう一ヶ月も前から、そろそろ痩せないとまずいと思っていたにも関わらず。
夏の間、特にスポーツもせず毎日ビールをバカスカ飲んでいたから仕方ないのだが、夏前と比べて確実に3キロは体重が増えている気がする。気がするだけで本当のところはわからない。確かめるのが怖い。


なぜ授業をするのに、太るといけないかというと、まず着ていける服が限定される(今まで太っていたなら、そういう問題はないが)。すると12回ある半期の授業を、いつも同じような冴えない感じの服装で通すことになりがちである。
太っていてもオシャレな人はいくらでもいるが、お金がかかっているか、それなりに見えるセンスとキャラが既に身についている。最初から太っておけばよかったのか。
非常勤で貧乏なので服に金はかけられないし、太ってサマになるタイプでもない。ただの中年太りにしか見えない。手持ちの服をうまいことローテーションさせられる程度には体重落とさないと、まずい。
一週間で3キロ痩せられるわけもないので、来週も諦めて授業には行くが、これでしばらくすると緊張で徐々に痩せていったりする。ちょうど元の体重になった頃に後期が終わるだろう。


ただ授業するのに、そんなことを気にする方がおかしいだろうか。講義内容さえ良ければ、格好を気にすることはない? だいたい学生は誰もそんなとこ見てない?(若くて美人な講師なら見てるかもしれないが)。
私も講師というものになりたての頃は、そういう考えが頭を掠めたことがあった。
しかし、実際はそうでないのである。学生は若い講師であろうと中年講師であろうと、男性講師であろうと女性講師であろうと、美人であろうと不美人であろうと、見るところはちゃんと見ている。


私の行っているような女子の多い芸術系大学で、しかも実技系ではなく学科の講義で、ダサい格好で教壇に立ったら「ああいう格好の人って、きっと話もつまんないだろな」と第一印象で引かれることが多い。
もしその後面白い話で興味を惹きつけられたとしても、今度は「面白い話してて、なんで自分の服装は気を使わないのかな。鈍感なのか」と思われる。
特に女性講師はそうである。どこかバランス感覚の欠けている人ということになる。そうなると、話している内容の説得力、浸透力というものも落ちるような気がする。
私が学生の頃はそうだった。こういうことは、年月がたってもあまり変わらないと思う。


非常に下らないことを書いているなと思いつつ、また夫の例を出すが、彼の職場である予備校業界では、服はステージ衣装と捉える人が多いそうだ。競争の激しい業界で生き残るには、生徒の人気が第一。人気は見た目から。一時期ド派手な予備校講師が話題になっていたが、それも人気獲得の一策に過ぎない。
普段まったく服装に気を使わない夫も、仕事に行く時だけは別人である。いったいどれだけステージ衣装買ったら気が済むんだというほどの、服の山。いかに「危機感」を感じながら仕事してきたかという、証拠物件のように見えてくる。


まあ服がどうのこのなんて話は結局言い訳であって、実際授業をしている最中は、自分が何を着てるかなんて忘れている。学生も講義に集中できれば、そんなことは目に入らないであろう。どちらも見た目のことなんか忘れていられる授業、それをすればいいだけのことである。
ではあるが、個人的な感情として、講義に行く前、それなりに納得のいく格好ができてないと、私は気合いが入らないのだ。1時間半この状態を注視されるんだなあと思っただけで、どんよりしてくる。どんよりしながら大学に行くのは、本当に気が重い。女子高生が、ヘアスタイルが決まらないから学校行きたくなくなるのと同じである。
バカバカしいことだろうか? そういうことが気になっているようでは、ダメだろうか?(たぶんダメなんだろうな)

きれいでいたい「業」

だいたい「ジェンダー入門」の授業で、ちゃらちゃらオシャレしていくなんて、講師としての、いやフェミニストとしての根本姿勢が間違っているのではないか?!という意見は、フェミニストの人の中から出そうである(って私もフェミニストのつもりなんだが)。
ではフェミニストは、全然おしゃれしないのか。
「女装」はしないということで一貫している硬派な人もいるだろう。実際の性差別だけでなく、見せ方から変えることでジェンダーも一切なくすことができるというタイプのフェミニストだったら、それは自分の信念に基づいた正しい格好になる。


それを体現している人に、普通の人は身構える。なんか言ったら怒られそうだなと。面倒だから何にも言わないようにして、適当に合わせておこうと。
だがそれ以前に、全然おしゃれをしてないので、かえって素の女性性が際立って「セクシー」だということにでもなっちゃったら、どうするのか。わかりやすい色気だけに反応する男ばかりとは、限らないのである。


そもそも、スカートをはかなかったり化粧しなかったり男女の名簿を混合にしたくらいで、ジェンダーフリーになるわけがない。
「正しい」信念で一律に変えられるのは、基本的な社会制度だけだ。そこはあくまでフェアで正しくなければならないが、そこから先を、同じようにスローガン唱えて強制、矯正しようとしても無理だろう。
同様にジェンフリだと「男らしさ」「女らしさ」がなくなると言って騒ぐのもおかしい。そんなことでなくなるくらいなら、とっくになくなってるって。


男性と同様の権利を手にし、同じように社会に出て働いて収入を得ている女でも、たとえフェミニストでも、なぜオシャレをするのか。
もうちょっと痩せたいと思うのか。きれいでいたいと思うのか。
それで男の人に好感もたれたり褒められると、なぜ嬉しいのか? 
そういう欲望を満たすと、なぜ気持ちいいのか? 
気持ちよくないとは言わせませんよ。「正しい」信念だけでは割り切れない部分があるわけだから(ないって人はいいです)。


女が「きれいでいたい」というのは、どういうことだろう。
「きれい」にもいろいろあろうが、多くの時代の多くの社会で、多くの女はそれを目指してきた。
フェミニズムによる説明だと、生活手段を持たず子育てしなければならない女は、男の庇護を必要とした。女は「見られる者」、所有物であり、「見る者」で所有者の男は美しい女を求めたので、女はそれに応えようとした、ということである。
今でも容姿で金持ちの男を釣るということはあるから、これは当っている。小倉千加子は、結婚は顔と金の交換であると看破した。


この見方を押し進めると、女が「きれいでいたい」「おしゃれをしたい」と思うのは、弱い立場を利用して男に媚びるという女のジェンダーに囚われていることになる。そして今や男の庇護を求めずとも生きていける女でも、いまだに「きれいでいたい」と思い、そうであることに「気持ち良さ」を感じるのだ。
それを「媚び」と言うなら、「媚び」は意識しようがしまいが、女の存在様式に深く染み付いている「業」と言えよう。「媚びない女のメークとファッション」なんて雑誌の特集は、それ自体が矛盾だということである。

奴隷と主人

「きれい」は異性にアピールするエロスを含み、早い話が性欲を刺激するものなので、女は愛されたいと思う男の前でそれを発揮しようとする。
よく「夫(恋人)のために若く美しくありたい」などという文句を聞くが、要はそうでないとセックスできない(してもらえない)からで。普通若くも美しくもなくなった女に、男は性欲を感じないわけだし。
内田春菊のマンガに『こんな女じゃ勃たねえよ』というのがあったが、「見る者」である男は「勃たねえ」のを女のせいにできるのだ。美容や痩身に励む女は、そこのところを直感的にわかっている。


セックスするのにこうした「関係」を作らなくても(腕力を行使して)しようと思えばできる男の立場と、「関係」を作らねばならない女の立場(相手が「ヤル気」になるようにいろいろ演出)とは、根本的に「主人と奴隷」の関係である。
もちろん「しようと思えばできる」をそのまま実行するとレイプになるので、大抵の男はしない。
レイプ(犯罪)してまで欲望を満たしたいとは思わないのかもしれないし、相手に好かれたいと思うからかもしれない。セックスだけを目的としないで、長期的な恋愛関係あるいは信頼関係を作りたければ、「俺がしようと思ったらいつでもできるんだ」という態度を見せるのは、得策ではない。
逆に、あえて自ら「奴隷」(相手が「ヤル気」になるようにいろいろ演出)の立場に身を堕とす男も多い。
しかしそれは意識するとしないに関わらず、根本的な権力関係があって出て来る行為ではないか。
すべてのレディ・ファースト、騎士道精神は、「主人と奴隷」関係があって初めて逆説的に成立する。権力関係がそのまま剥き出しであった時代や社会もあったのである。


性欲が焦点となる場面でなくても、男が基本的に「見る者」、女は「見られる者」であるという非対称は、簡単に覆すことはできない。
その中で、女に嫌われず男の受けもいいという、高度な技に挑戦している女も最近多い。周囲に好感をもって見られているということは、女にとって「気持ちいいこと」である。
性欲喚起が目的でなくても、女が外見を整えるのに必死になるのは、そうしたナルシシズムを手っ取り早く感じることができるから。そのくらいのことが許されなければ、本来的に媚びを売らねばならない立場の「奴隷」の自分を愛することはできない。


しかしナルシシズムが醜いほど嵩じたり、ところかまわず性欲喚起方面に邁進すると、勘違いとか男受け狙いとか言われてバッシングされる。
それでも意に介さず我が道を行くと、叶姉妹になる。
叶姉妹に普通の男が引くのは、その攻撃的なまでの美とナルシシズムが、男のファンタジーを逸脱しているからである。「サイボーグみたいでキモい」という男も少なくない。「とって喰われそう」とか言いながら目は釘付けになっていたりするが、それはもはや異形を見る目である。
テレビでの扱いを見ると、キワモノとして扱ったらいいのか、美人として扱ったらいいのか決めかねているようなところもある。


しかし叶姉妹が出したビューティ・ブックは、あくまで「きれい」を目指す女に受け入れられた。彼女達の美容に関する体験談やアドバイスは、テレビや女性雑誌に時々登場する。
みんな叶姉妹に少しでも近付いてみたいのだろうか。ああいうグラマラスでピカピカの圧倒的なボディになってみたいとか。

孤高の美とナルシシズム

女の美醜は昔から批評の対象とされてきた。
今やそれが関係ない場所でも、女は「きれいかきれいでないか」という無言の審判に晒され、もともときれいな女は努力のしがいを感じて増々上を目指したりする。美容専門雑誌が最近多くなったのも、そういうことの反映だ。男の人は決して開かないであろうその手の分厚い雑誌が、何誌も売れている昨今だ。
そういう中で、最近また新たな雑誌が出た。女優の深津絵里が表紙になっている。テレビで流しているCMのコピーは、「今日何回うっとりしましたか?」。
「うっとり」ですよ。自分に。どんなに女がナルシシズムに浸りたいと願望しているか、想像してほしい。


美容にもヘアケア、痩身などいろいろあるが、最大の要はスキンケアとメークである。
そうした雑誌で目指されている肌は、毛穴一つ見えないラッピングされたような人工的な肌。化粧品会社と美容業界がそのイメージを釣り上げているのだが、女の、自分の容姿に対する要求は今すごく高い。走り高跳びの選手のように、ここまでクリアしたら次はここといったレベルの上昇を感じる。
既に「男に媚びる」とかいう問題を超えた、「美」の自己目的化である。


さて最新の美容で全身ピカピカになった女は、もちろんそれを見せたいと思う。だが誰も言わない一番の本音は、セックスの時恥ずかしがらなくていいということではないか。
「見られる」女はコンプレックスを抱え込みがちであるが、それが解消されたら気分も晴れ晴れだ。完璧に近いボディがあれば、男にすっぱだかをじっくり見られるのも恥ずかしくない。
もしその目標がなければ、何のためにこんなに金と手間をかけて、体の隅々まで磨いてきたのかということである。毎夜、鏡の前で一人うっとりするためではないのである。適切な鑑賞者がいなければ、ナルシシズムも完成しない。
男は感動して、丁寧に扱ってくれるだろう。なにしろ元手がかかっているのだから、ぞんざいに扱われたらたまったものではない。むしろひれ伏してもらいたいくらいだわ!


こうして「きれいになりたい」願望は最終的に、セックスの孕む「主人と奴隷」関係を「美」で覆そうとする。
「美」に勝てるものはない。これが美容に日夜血道を上げる女の信条である。


ちなみに今週号のananは、「anan名物」セックス特集である。一時期そういう特集から手を引いていた時期があるが、売れ行きが芳しくなかったらしく、この数年はまた路線を戻している。
その表紙にあった言葉は「男をとろかす肉体の作り方」。必死なのはわかるが、このオヤジみたいな言葉のセンスはなんとかならないものか。
だが「肉体で男をとろかしたい」女も、内面も含めた自分の存在まるごとを愛されたいと、思ってはいるのだ。そうじゃないと、幸せではないと。
存在まるごとを愛してくれるような男は、単に「美」や「肉体」にひれ伏すのではないことも知っている。少なくとも、小説や映画ではそうだった。


ではどうやったらそのように「愛される」のか? 
いったい誰が、私の内面も含めた存在まるごとを愛してくれるのか?(一時的にではなく永久に)。
それ以前に、そもそも自分がそう思えるような相手が、いるのかいないのかという問題がある。
いったい「愛」って何デスカ? そういう問いに囚われたことのない女はいないだろう。問いの答は出ないのだが。


そういう意味では叶姉妹も「女装拒否」のフェミニストも、例外ではないと思われる。でも現れ方は正反対だ。
叶姉妹は、存在そのものが、普通の女の男への媚び(かわいく見られたいとか女らしいと思われたいとか愛されたいとか)を既に凌駕してしまっている。「奴隷根性」すらそこには感じられない。
おしゃれに無頓着なフェミニストにも男への媚びはないが、「正しい」信念に基づいての女性性の排除は、意図が解り過ぎて退屈だ。


過剰な女性性をまとい、誘惑しつつ男の欲望を凍結してしまう叶姉妹に、女はなぜか魅了される。
体型や服で悩んだり、好感度アップしたいと涙ぐましい努力をしている大多数の女から見たら、それは誰も寄せつけない孤高の位置である。