上下関係の秘密

ピーコの”暴言”

平日の昼間に家にいる時になんとなく見てしまうのが、TBSのワイドショー「ジャスト」である。最近では週に2回は、三雲孝江の福々しいほっぺと安住紳一郎の泣きそうな顔を見ないと、物足りない。
中でも私がよく見るのは、「辛口ピーコのファッションチェック」。
ファッション評論家の肩書きをもつピーコが、自由が丘や横浜や銀座の街を行くミセスやギャルの方々のファッションに、辛口コメントをするというコーナーだ。


ピーコという人のセンスは基本的にコンサバなので、何回か見てるとどういうリアクションをしてどういう批評をするか、ほぼ読めてくる。そして「辛口」を謳うだけあって、だいたい5人に4人までは、なんだかんだと難クセをつけられている。
最も厳しく難クセつけられるパターンは、「いい歳して行き過ぎた若作り」と「ビンボ臭い格好」と「とてもユニークな格好」。
わきまえた服装と良い趣味という観点を押さえ、ある程度ファッションに詳しければ評論できる程度のコメントにまとめられている。


ピーコの「辛口」がキツ過ぎる時は、隣で三雲孝江が「そうですかぁ?可愛いじゃないですか」などと必死にフォローを入れている。でもあまり効果はない。
結局ピーコが気に入らなかったファッションの人は、テレビに顔出して視聴者の前でケナされっぱなしという図。 めいっぱいのおしゃれだったのに、ケチョンケチョンにコキおろされているのを後で見て泣いた人もいよう。


にも関わらず、ここで登場する街行く人々は、必ず「ピーコさん、ファッションチェックよろしくお願いしま〜す」と、カメラに手を振りながら言わなくてはならないことになっている。
このコーナーを皆さん知っているらしく、「どうぞお手柔らかに〜」と言う人もよくいる。ポーズをとったりくるりと回ってみせる人も。おそらくズケズケ言われるであろうことはわかっているのに、みんななんだか嬉しそうだ。
おしゃれをして街に出てきたからには、自分なりに自信があるだろう。できれば褒められたいのが人情だと思う。
なのに、なぜ彼女達はあんなに嬉々として、カメラの前に立ってケナされるのを待つのか。なぜ「お願いしま〜す」なんてへりくだるのか。なんでそうもプライドというものがないのか。


もし、普通のそうパッとしない服装の人がピーコに倣って、「なんか汚いですね、この人」とか「ちょっとお歳を考えたらどうかと思います」とか「このスカートにこの上着はないでしょ!」などと面と向って言ったら、えらいことになるであろう。
すべては、ファッションに通じていてセンスがいいあのピーコさんだから、許される”暴言”なのである。
つまり、「ファッションをよくわかっているその道の人」と「普通の人」の間には、絶対的な上下関係がある。このあらゆる人が平等でなければならないと言われている社会で、人々は、ことファッションセンスに関する限り、最初からその上下関係をすんなり受け入れているのである。


絶対の上下関係では、判断基準を「上側」が持っており、「下側」はそれに身を委ねるしかない。もしその基準の根拠がわかれば対処のしようもあろうが、ファッションはそれ自体が流動的なものであるから、根拠も流動的となる。
これが「下側」の人にはいつまでたっても謎なので、「お願いしま〜す」とへりくだって言わねばならない状況となる。


そういう屈辱的な態度を取らないためには、どうするべきか。とりあえず流行の装いをしておけばいいのだろうか。
しかし流行=良い趣味とは限らない。おしゃれな人とは、常に流行と良い趣味の関数をはじき出せる人である。それに身長体型、年齢、髪型、TPOなどの要素が加わってくる。
そうした複合要素を睨みつつ、すらすらと「正解」を導き出すのは、子供の頃からそういうセンスを鍛えられているか、頑張って失敗に失敗を重ねて身につけた人でないと難しい。ほんとかどうか知らないが、そう言われている。もうそれだけで、「普通の人」はやる気が失せてくる。


その上で自分だけでなく、他人の格好を瞬時に「一つ一つはいいものなのに、組み合わせがめちゃくちゃ」などと断定できる人が、上下関係の「上側」に立てる。「なんでも鑑定団」の鑑定士みたいなものだ。
1時間かけて選び抜いた服でも、2秒で「贋作」いや「組み合わせがめちゃくちゃ」と言われる時、人はそれまで見えなかった上下関係をまざまざと思い知らされる。

「全とっかえ」の受難

そういうわけで、どんなに仕事のできる人でも容姿が優れた人でも、一旦「ファッションをよくわかっているその道の人」の前に立たされると、まるでテストを返される前の小学生のような覚束ない気持ちになってしまうのである。
そこで胸を張っていられる人は、シロウトではないか、我が道を行く人か、ファッションなどどうでもいいと思っている内面の充実した人である。


「普通の人」 の服をスタイリストがあれこれ選んで着せる、いわゆる「シロウト着せ替え」は人気があるらしく、これまでも時々テレビでやっていた。
ジャストでも前「亭主改造講座」と題して、旦那さんを見事に生まれ変わらせるという企画があった。これは結構見物だったが、変身後の旦那もさることながら、それを迎える家族一同のリアクションがすごかった。興奮と感動のあまり、涙ぐんでしまう奥さんもいた。今だと「ヨン様風に仕上げて下さい」という奥さんの注文が殺到していたことだろう。
まあ「改造」たって中身は変えられないのだから、実質「改装」である。中身はいいからとにかく見てくれをなんとかしてほしい。見てくれさえ変われば何かが変わる、一から出直せるような気がするという、せっぱつまった(奥さんと家族の)思いにつけこんでいる。


もっとすごかったのは、だいぶ昔の確かたけしの番組で、上野公園のホームレスの人をつかまえて、シャワーと散髪をさせ「紳士」に生まれ変わらせるという、身も蓋もない企画だ。
されるがままにブランドのスーツと靴でキメたホームレスの人の驚愕の変身ぶり。猫背だった背中もピシッと伸び、長年の戸外生活での日焼けまでハワイのヨット焼けみたいに見える。意外なほどの男前に、スタイリストから「このままモデルになってもおかしくない」と言われる人もいた。
「亭主改造」と違うのは、この場合周囲からの「改造」要請がないので、完全に余計なおせっかいということである。
ファッションセンスをめぐる上下関係などといったものがまかり通る、下世話な世間から離れてひっそり公園で暮らしている人をカメラの前に引っぱり出してきて、着せ替え遊びして喜んでいるのである。失礼と言えば失礼な話だ(ホームレスの人は久しぶりのシャワーと散髪に喜んでいたようだが)。
無抵抗なホームレスをよってたかってオモチャにして!と抗議が来たのだろうか、その企画はすぐなくなった。だが、これと似たようなことは、今でもテレビで散見する。


毒舌をウリにしているスタイリストのドン小西を使って、そっくりのことをやっているのを、先週中部地区の夕方の情報番組で見た。道行く人をその場で、上から下まで「全とっかえ」させてしまうのである。
こないだは、三重県は長島町のアウトレット・モールでお買い物中の若い夫婦が、ドン小西の餌食になっていた。
まず着ている服をケチョンケチョンにケナされ、戸惑い恥じ入る旦那さんと奥さん。別にひどい格好しているとは思えないが、ドン小西から見たらすべて「なんですかこれは」なのである。
その後で、アウトレット・モール内の店をドン小西が走り回って選んできた服に着替えさせられ、ベタ褒めされていた。旦那さんも奥さんも、ドン小西の勢いに押されてもうされるがままといった状態。


家族で買い物していたところを、「なんですかこれは」と批難され、上から下まで服を取り替えられるなんて、よく考えると屈辱的なことである。受難とさえ言える。
しかし餌食になった人は怒らないばかりか、服を買ってもらったわけでもないのに、ドン小西に恐縮して御礼まで言っていた。いくら番組とは言え、町中で見知らぬ人に暴挙に出て有り難がられているとは。それもこれも、ファッションセンスをめぐる上下関係についての信憑構造があるためだ。
その構造を支えているのは「上側」の、本当の答を知っているのはこちらだと思わせれば勝ちという、オーソドックスかつシンプルな戦略である。
そして「下側」の、自分は何も知らないバカなのではないかという自信の欠如である。
これまで世の中に現れた様々な上下関係(独裁者と民衆、教祖と信者、上司と部下、教師と生徒、男と女‥‥)のからくりも、おそらく大同小異であろうと思われる。