ワンダの百枚のきもの

女の子のファンタジー

子供の頃に読んで気に入った本を、大人になってもたまに開くということが私はあるが、何十年も忘れていてふと思い出して読み返し、「ああこういう話だったのか」と改めて思うこともある。
「岩波こどもの本」の一冊として昔出版された『百まいのきもの』(エリノア・エスティーズ著、ルイス・スロボドキン絵、石井桃子訳/岩波書店)は、そういう話である。


この絵入りの薄いお話の本を、私は小二くらいの頃読んだのだが、なんとなく暗くてとりとめのない不安感の残る話だった。
貧富の差からくるいじめがモチーフにあり、今思うと「世の中には貧しい人がたくさんいるのだよ、自分の境遇に感謝しなさい」という本を与えた親の意図を感じて、それも若干のユウウツ感を誘った。それでも子供時代は、何回か読み返した記憶はある。
最近、大手書店の児童書コーナーに復刊本として平積みされているのを見た。長らく絶版になっていたらしい。
調べてみると、アメリカでの初出は1944年で、邦訳され日本で出版されたのが1954年。ドレスを「きもの」と訳しているのが時代である。久しぶりに読み返してみた。


お話は、マディという小学生の少女の目を通して語られる。
マディの仲良しのペギーは裕福な家の子で、おしゃれで人気者。
同じクラスに、ワンダという女の子がいる。いつもおんなじ服を着てて、友達がいなくて、その変わったファミリーネーム「ペトロンスキー」以外には何も特徴のない影の薄い子である。
そのワンダがある日突然、家に「百まいのきもの」を持っていると口にしたことから、クラスメート達のからかいが始まる。
「ワンダさん、戸だなの中に何まいのきものをおもちなんでしたかしら?」と、ペギーはわざと気取った言葉遣いで訊ねるのである。
「百まい。戸だなに百まいずらっとかけてあるの」
「まあ、百まいですって!」
「全部あなた用?」
「そう。全部わたし用」
だいたいこんなやりとりが、毎日繰り返される。


百枚も服を持っているのに、学校に着てくる服はなぜ一枚きりなの? バレバレの嘘を頑につき続けるワンダを、少女達は囃したてる。
しかしそれは、子ども特有の残酷さからだけではない。「百枚ずらっと戸だなに釣り下がって並んでいる色とりどりのお洋服(全部自分用)」というとてつもないファンタジーが、彼女達の心を虜にしてしまったのである。
20世紀前半から中頃のアメリカは、貧富の差が拡大していく時期である。女の子の欲望を掻き立てる「百まいのきもの」を持つ富豪の暮らしは、庶民の前に現実にあった。
ペギーが率先してしつこくワンダをからかったのは、自分がとっかえひっかえ着てくる服より、「百枚ずらっと‥‥」のイメージの方が圧倒的にインパクトがあったからだ。


一方、マディのうちは実はあまり裕福ではなく、彼女の服はペギーのお下がりをお母さんが仕立て直して着せてくれたものである。
だから彼女は時々良心が痛むのだが、ペギーに「こういうことはやめましょうよ」と言い出す勇気がない。仲間外れにされるのが怖いから、黙って見てるだけ。そういう自分を誤魔化すだけ。
大人から見ればバカバカしいような少女の間の幼いいじめの構造は、今も昔も変わらない。

取り返しのつかないこと

そのうち「いじめ」にもみんな飽きてしまい、ワンダの「嘘」もすっかり忘れられたお休み明けの日。
学校に来た少女達は、教室のありとあらゆる壁一面に貼り巡らされた、色とりどりの服の見事なスタイル画に度胆を抜かれる。
そして、その「百まいのきもの」の絵をクラスメート達へのプレゼントとして残して、ワンダが転校したことを知らされる。
いきなり逆転盗塁サヨナラホームランみたいな、劇的な展開である。


百枚もの服の絵は、ワンダのこれまでの「名誉挽回」のレベルを越えんばかりの存在感だ。しかもその圧倒的な「証拠物件」の前に、当のワンダは存在しない。
「貧乏なワンダ/貧乏じゃないクラスメート」「からかわれていた者/からかっていた者」というこれまでの関係に、「贈った者/贈られた者」という新たな関係が突然加わった。そのことで最初の二つの関係の非対称性は、少女達にとって俄然重い意味をもってしまった。
嘘つきの変な子をちょっと弄ってただけのつもりだったのに、返ってきたのはその仕返しではなく、あり余るお返し。それが逆に、自分達はワンダの貧しさを虐めていた、虐めっぱなしで忘れていたという過去の事実を、くっきりと浮かび上がらせた。
そんなことは、もちろん小学生のワンダは計算してないが、効果としてはそうなった。ペギーやマディの感じた手遅れ感は、いかほどのものであっただろうか。


二人は後悔でいたたまれず謝りたい一心で、その日ワンダの家まで訪ねていく 。泥んこの道である。この遠路をワンダは毎日通っていたのだと二人は初めて知る。
が、ペトロンスキー一家は引っ越したあと。ワンダに直接「ごめんね」も「ありがとう」も言えなかったという取り返しのつかなさに打ちのめされて、長い帰路の間二人は無言である。
マディは毎日罪悪感に苦しめられ、自分がワンダを助けて活躍する荒唐無稽な妄想までするようになる。でもそんな妄想で自分を慰めたところで、あの時逃げて自分を誤魔化した事実が消えるわけでもない。
取り返しがつかないことは、もうどうにも取り返しがつかないのである。子どもであろうと、たわいもないいじめであろうと。


いったいどうしたらいいのだろう?  どうやって後始末をつけたらいいのだろう? 
こうした苦しみを主人公のマディにきちんと通過させているところが、ありがちな「癒し」の物語とは一味違っている。
結局、彼女は意を決して長い手紙を書き、ワンダの「私は元気です。怒っていません」といった返事がきたところで話は終わる。そこは子ども向けなので、「仲直りできて良かったね」と安心できるオチがつけてある。

彼女の希望

再読して、私が以前にも増してえらく気になったのは、ワンダという女の子である。
物語はマディの視点で描かれているので、ワンダの内面はほとんどわからない。彼女は毎晩、広告紙を張り合わせた裏に絵を描き、「百まいのきもの」を持っていると言っていただけだ。
絵のモデルが全部ワンダ自身だったら、それは幼いナルシシズムということでも説明がつくが、描かれていたのはクラスメート達だった。
そこにはただきれいな服と、それを着た彼女達への純粋な憧れがあっただけなのか。
しかし憧れをバネに百枚もの絵を描いてしまったエネルギーは、普通に考えるとただごとではない。


1940年代と言えばジェンダー規範ばりばりの時代。「きれいなドレスを着られることが女の子の幸せ」と固く信じられていた時代であろう。
そういうとこだけは、貧乏な家の子も金持ちの家の子も「平等」なのである。 だから一層、現実の不平等が浮き彫りになってくる。
一人だけ毎日同じ服を学校に着て行くのは、恥ずかしい。だから服の話で盛り上がるクラスメートの輪にも入れない。貧しい移民の子という境遇は、小学生のワンダには如何ともし難い、ただ受け入れるしかない現実である。
それに耐えるには、「百まいのきもの」というファンタジーと、その壮大な「具現化作業」および「言説化」が必要だったのだ。せつない話である。


そうやってせっかく描いた絵をすべて残して、ワンダは去る。
転校に際して先生に宛てたワンダのお父さんの手紙には、大きな街ではもうポーランド人だと陰口を言われることもありません、とある。彼ら東欧系の移民は、当時かなり悲惨な生活を強いられていたようだが、いずれにしてもワンダのお父さんは、田舎町のスラム街からは出て行くことを決意した。
では、その引っ越しはワンダにとって、学校に着て行く服が一枚しかないこれまでの惨めな生活からの、脱出の可能性を意味していたのだろうか。
これを機に、「将来わたしもホンモノの「百まいのきもの」を持てるような暮らしをするんだ(だから絵なんてもういらないの)」と奮起し、その証拠として絵を置いていったのか。
そんな上昇志向や挑戦的な思いが芽生えていたとは、ワンダのぼーっとしたキャラクターからは考え難い。


ワンダはいつも孤立していたが、本当は単純に、ペギーやマディの仲間に入りたかったのだろう。
みんなの関心の的である洋服の話で、空気のように思われている自分の存在を示したかった。見え透いたホラ話でからかわれることさえ、ワンダにとってはクラスメートとの唯一のコミュニケーションであった。
だから百枚の絵のプレゼントは、「わたしはみんなと友達になりたかった」という素朴なメッセージ以上のものではないと思う。


ペギーとマディは反省し、これからは決して貧しい子を虐めまいと誓う。マディ(及び読者)にとって、これは内省と贖罪の物語なのである。
しかし彼女達が、「きれいなドレスを着られることが女の子の幸せ」というジェンダー規範から簡単に抜け出すことはない。ワンダも同様である。
ワンダが子供心に知っているのは、それが実現される道が、自分にはほとんど閉ざされているということだ。
他の女の子が易々と手に入れることを、自分は諦めねばならないだろう。いやもう諦めている。
諦めて他に何かあるのか。絵の才能? 
幼い彼女は、百枚の絵よりたった一枚のドレスが欲しかっただろう。


「仲直りできて良かったね」も、「世の中には貧しい人がたくさんいるのだよ、自分の境遇に感謝しなさい」も、読後感として微妙に違う‥‥小二の頃に感じたこの物語の暗さと不安の正体が、再読してやっとわかった。
ワンダ・ペトロンスキーには、この先の具体的な希望が何も示されてない。
示すことはできなかったのだ。