男子にはなれない ● 第一回 ● 『下妻物語』の退廃と諦観

ヤンキーvsロリータ

下妻物語 スタンダード・エディション [DVD]

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去年の女の子映画と言えば、『下妻物語』である。『世界の中心で愛をさけぶ』と『ハウルの動く城』に話題を独占された去年の邦画界であったが、このエッセイで取り上げる女の子ネタで言えば、『下妻物語』を措いてほかにはない。


監督がCF出身の人だからか、スパスパとした激しいカット割りやギャグの連発は、マンガに近いセンス。挿入されているアニメもキッチュな効果を上げている。何よりも、茨城の田舎にロリータにヤンキーという確信犯的設定で、ほとんど成功しているようなものだ。原作が優れているせいだろうが、安野モヨコあたりのマンガであってもおかしくない。


ガーリーテイストはいろんな分野でこの十年出てきていたが、そこから出発してここまで突き抜けた表現は、あまり見たことがなかった。特に男の描くガーリーものはどうしても、フェティシズムとオタク趣味から出られないんじゃないかという感じがしていた。
しかしここではちゃんと、女の子のこだわり、執着が細かく描かれているので、納得がいく。ヤンキーとロリータのこだわりの一致点が、刺繍というちまちました手工芸なのも、ツボを突いている。


ヒロイン桃子は、どこまでも自己チューの醒め切った小娘である。「私、性根が腐ってます」と、17歳にして心はデカダンスだ。ラブリーワールドに隠された女の子の精神の退廃は、冒頭のロココ(退廃)文化の彼女自身の解説ときれいに重なっている。
父親のへたれヤクザぶりと、桃子のロココへの執着とは好対照をなしている。オヤジがへたれだったから、反動で娘はあそこまで頑固かつ鉄面皮に育ってしまったのかと思うと、キメキメのコスプレも痛々しい。桃子を演じる深田恭子のなんとなく鈍重な感じの体つきに、ロリータファッションはぴったりであった。


一方、ヤンキー娘イチゴ役の土屋アンナは声がいい。声質で選ばれたんじゃないかと思うくらい、すばらしい。男子のヤンキー声は元ブランキー・ジェット・シティ浅井健一、女子のヤンキー声は土屋アンナで決まりだ。
イチゴの第一声は、時代劇か仁侠映画のパロディである。女子高生のくせして、まるで背中に日本刀背負っているかのような、気負い過ぎてハテナ?になったセリフ回し。彼女がいかにヤンキーの美学に素直に浸かっているか、ここだけでよくわかる。


ソフィア・コッポラの監督デビュー作『ヴァージン・スーサイズ』の最初の方で、「14歳の女の子になったことがあるの?」といったセリフが出て来たが、『下妻物語』でも同様のスピリッツを感じる。
17歳の女子高生だというのがキモ。しかも舞台は大都市ではなく、ジャスコしかない北関東の田舎。
それが共感を呼ぶのは、たぶん日本がほとんど「ジャスコしかない北関東の田舎」みたいなところで、「17歳の女子高生」の文化みたいなものに覆われているからだろう。


田んぼを原チャリで「暴走」しているイチゴと、現実離れしたロココ趣味の中だけに生きている桃子。大人から見たら、滑稽なナルシシズムのままごとをやっているようにしか見えない。「異色」なのは、それがむちゃくちゃスジを通したままごとだということである。自分ルールを一貫し過ぎて、二人とも周囲から浮いている。
なんでそこまでしなきゃ生きていけないかというと、イチゴや桃子にとって世界があまりにも悲惨だからだ。そういう世界の中の、何の取り柄もない田舎の女子高生というポジションは、もっと悲惨だ。


悲惨さをそのまま受け止めるには少女の心は敏感過ぎるので、ヤンキーやロココというファンタジーで防衛、武装しないといけないのだ。特攻服もフリフリのドレスも、彼女達の鎧だ。決して一般受けはしない極度に自己完結型のファッションは、彼女達の精神構造そのままである。


大きな幸せより小さな不幸

おフランスネタの世界に埋没している桃子にとって、ベタマジですぐアツくなるヤンキーのイチゴはダサくて鬱陶しい。だいたい「文化」が違い過ぎる。
まあ「文化」といってもロリータにしろヤンキーにしろ、 消費文化の隙間に咲いてる徒花みたいなものだ。徒花同士で牽制し合うしかないというところが、どうにもチープである。しかしそれ以外に彼女達に何があるかって言うと、何もない。
違う文化に属する二人の共通点は、ただ好きなことにスジを通しているということだけである。桃子はイチゴのツッパリと純情に、イチゴは桃子の超然とした態度に、次第に共鳴していく。


桃子が神様と崇拝するデザイナーの前で気を失った時、デザイナーをどついて桃子を助け起こすイチゴは、まるで「男子」だ。失恋したイチゴの涙を見ないふりをしてあげる桃子も、やっぱり「男子」。
女の子の一般的なつき合い方とはどこか一線を画した、ほとんど「男が男に惚れる」世界である。いみじくも嶽本野ばら氏曰く、「乙女の心はハードボイルドなのです」。
男だけの世界として描かれてきた硬派の物語、今や廃れた物語を、17歳の徒花文化の女の子達がやっている。彼女達がそこらの男より男前に見えてくる。


だからそれまで自己愛のかたまりだった桃子が、最後にイチゴを助けに行くのは、友情というより仁義、あるいは漢気と呼ぶにふさわしい。いや桃子の世界に仁義や漢気という言葉はないので、あえて言うと純愛かもしれない。
「強い女なんて最低」と嘯き、お姫さまネタの世界に引きこもってふわふわ空中遊泳していた女の子が、初めてベタマジになって乗ったこともない原チャリをかっとばしスケバン達の中に突っ込んで行くのだ。後先のない行動を牽引しているのは、純愛としか言いようがない。
そして桃子が尼崎の生まれだったというエピソードが、ここで効いてくる。ここだけ出身地のヤンキー喧嘩言葉が、いきなり(というか思わずというか)出てくる。返り血と泥水でグショグショのフリフリドレスで仁王立ちになり関西弁でタンカを切る深田恭子が、一瞬「極妻」のかたせ梨乃に見えた。ネタからベタへの劇的な反転である。


イチゴを助けたからと言って、二人の関係が変に甘い雰囲気に流れないところはすがすがしい。社会的なステップアップの道が開けるも、それに大して興味を示さず、自分のスタンスはあくまで崩さない二人は、その頑なさにおいて最後まで古い「男のロマン」の世界を演じているようにも見える。


では、彼女達は女装した男子なのか。
いや最後の最後で男子にはならなかった。
桃子はスケバンの輪に飛び込む蛮勇を持ちながら、憧れのメゾンの仕事に飛び込むという冒険はしないのだ。イチゴも相変わらず田舎道を爆走する日常を捨てない。つまり居心地のいい自分の世界から出ない。そしてそういう自分を桃子はしゃあしゃあと正当化する。


「男の子」なら、大きな転機を前にこれまでの自分を変革しようと試みるだろう。見知らぬ他者との関わりを求めて、ジャスコしかない田舎から脱出しようと足掻くだろう。冒険や挑戦に飛び込み果敢に自立を目指すのが、いわゆる「男子」というものだ(‥‥という規範がある)。
しかし桃子はその困難を、「女の子」を盾に回避する。降って湧いた得難い労働の機会から、社会から逃げる。「他者に求められた」という事実だけを確認して。それは結局、「人間は大きな幸せを前にすると急に臆病になる」という、かつて自分が母親に向って発した言葉通りの生き方である。

 
たぶん、彼女達はどこかで深く諦観しているのだろう。どうせド田舎のほとんど落ちこぼれの女子高生という、ちっぽけで惨めな立場しか自分達にはないと。そこで今現在の欲望に忠実に生きることで、ようやく輝やいていられるんだと。
2004年の日本の女の子のそんな現実が、ここにある。


(初出:2005年1月・晶文社ワンダーランド)