男子にはなれない ● 第二回 ● 全員女子世界の正念場

国民的ファミリードラマ

一見何の不幸の陰も見えぬ幸せな満点家族なのに、実は嫁と姑が冷戦状態とか兄弟で骨肉の争いをしているというのは、よくあるらしい。テレビドラマになったりもする。『渡る世間は鬼ばかり』はこうした家族のいざこざネタで、延々牛の涎のごとく長いドラマを展開している。
しかし、そういうどこの町内にも一軒や二軒ありそうなワケあり家族が、かのロイヤルファミリーであれば話は違ってくる。主役は、御近所ではなく御所に住まうプリンス達やプリンセス。スケールにおいて、ワタオニのラーメン屋の家族とは比較にならない。


この一年を通じて世間が注目していたファミリードラマは、言うまでもなく「皇室御一家物語」であった。
ヒロインはかつて華々しく登場し、途中から舞台裏に引っ込んだ長男嫁。彼女がヒロインである証拠は、この一年の女性芸能週刊誌に取り上げられた頻度が、「ヨン様」に次いで高かったという事実が示している。


ドラマの発端を遡れば、年功序列が重んじられる一家で、弟が先に結婚してさっさと二人も子供を作ってしまったことだった。真面目一辺倒で地味な兄とちゃっかり者でモテる弟というイメージが、そこで決定的となった。
だが、国際派超キャリア女性を驚異の粘りで口説き落とした兄のキメのセリフ「全力でお守りしますから」は、ちょっと世間を驚かせた。「よく言った!」と「そこまで言わなきゃダメだったか」。どちらにせよ、遅咲きの純愛物語の主人公となった、あの時のプリンスにしか言えないセリフだった。


王子様とお姫様の話では、これで幸せが約束されたことになる。「約束された幸せ」というものを死ぬまで演じてもらって、八方丸く収まるのである。
しかし今では、結婚後のキャリア女性と家との確執、これがドラマの定番である。そこでのヒロインは言わば、男子として生きる道を阻まれる女子。彼女は、傷つき疲れ果てて深刻なうつになる(なることに決まっている、ドラマでは)。
だから皇室話の大好きなおばさま達も、口では「おいたわしい」とか言いながら、顔は「やっぱりねやっぱりね」と輝いていたのである。


「お守りしますと言ったのに、これはいったいどういうこと?」という妻の訴え(たぶん)に一念発起した夫の爆弾発言が、最初の山場であった。世間の反応はまたしても「よく言った!」と「そこまで言わなきゃダメだったか」。
こうして兄派、反兄派入り交じって、兄夫婦は注目の的、ドラマの要、台風の目となった。弟が面白いわけがなかろう。
弟家族のイメージはと言えば、すっかり落ち着いた優しいパパと控えめでしとやかなママ、かわいい娘達という、絵に描いたような幸せファミリーだ。だがそういう家族の絵というのは、見ている方からしたら退屈だ。娘がバレエだかダンスだかを習っているくらいでは話題が作れないし、なんとか本筋に噛んでもらわないと困る。


もうひとり、全然派手な出番のない人がいた。その人がついに婚約を決めたのは、流れの上では実にタイムリーであった。
兄嫁二人がそれぞれ玉の輿にキャリア婚なら、自分は負け犬婚。ドラマは流行りを押さえるべしという法則を踏襲している。母と娘の心暖まるエピソードなんかも、年期が入っているだけにそつのない出来映え。ドラマを引き立たせる一服の清涼剤の役割を果たした。


そして、清涼剤の直後にあった弟の記者会見の狙いの見事さは、実に脱帽ものであった。
「(皇室の)仕事というものは受け身でやるもの」。
つまり皇族は男子ではない、皆女子だと言ったのである(女子=受け身なんておかしいというツッコミはなし。受け身を強いられる人は男も女もみんな「女子」)。なのに義姉さんはなんで男子になりたいの?と暗に問うたのである。思い掛けない展開である。
ミステリアスな弟嫁も注目された。あの人はいったい何を考えているのか。あれはすべてを知っている者の微笑みなのか。何もないならないでそれもこわいが、たぶん後でじわじわ効いてくるドラマの隠し味だ‥‥。


純愛に嫁虐めに兄弟の確執に母子美談にミステリー。こうした皇室騒動のファミリードラマ化によって、女帝論への大衆的下地は準備された。
天皇さんちの長が女性でも別にいいんじゃない?このご時世。それが、ドラマ「皇室御一家物語」を見続けてきた世間の、女帝容認の心である。

女帝論が隠蔽するもの

女帝論が活発化する前は、「雅子妃のご病状」に話題が集中していた。いまだに週刊誌を始めとして様々なシナリオがとびかっているが、希望的観測はあまりない。
一時期は女性芸能週刊誌で、将来は最悪、離婚という情報通の予測まで出ていた。家を捨て地位を捨て夫を捨て‥‥。まるで故ダイアナ妃のようなドラマもありだと言っていたわけである。
あのドラマは、妻が「純愛」を求めて単身家から出て行くという話だった。しかし、いくら何でもそういうシナリオは描けない皇室の長男嫁にとって、それはただのロマンチックなお伽噺だ。愛などもはや救いにはならないところに、彼女の不幸がある。


ただひとり純愛物語の中にいるのは、皇太子である。そのために、「次の天皇だってこと自覚してるの?」と周囲の人々に言われているらしい。
そういう中で、約束通りプリンセスをあくまで「全力でお守りする」という立場しか、彼には残されていない。この一年、『タイタニック』の終盤のジャックくらいの気持ちにはなっていたに違いない。しかし高貴なお方が、ジャックのような野蛮な行動に出られるとも思われない。
となるとプリンセスはこのまま、あてのないイバラの道を彷徨うのか。イバラの道には、「お前は男子にはなれない」という立て札が立っているのか。


「イバラの道を彷徨う雅子様」への、女の関心は高い。男社会の日本のど真ん中が、「全員女子世界」だったのである。そこで男子を捨て切れず、しかも男子を産まなかったがゆえに孤立してしまった女子がいる。気にならない方がおかしい。
「女帝もいいんじゃない?男女共同参画社会だし」なんてつまらんこと言ってる総理大臣は、引っ込んでてほしい。


そもそも皇室では古来から、生理中の女は不浄として宮中の儀式に参加できなかった。全員受け身の女子世界でありながら、女子なるものを忌避し、なおかつ男子としての生き方も認めず、にも関わらず「男子の血」の継承が望まれる超矛盾世界。男女共同参画社会なんかじゃ、全然ないのである。
その上トップに女性をもってくれば、ますます矛盾を深めることになろう。「女子の血」と神事は両立不可能であると、「男子の血」にこだわる人々が黙ってはいまい。血で血を洗う争いになるかもしれない。


だから皇太子に愛人を、いや側室を当てがって、なんとしても男子誕生に漕ぎ着けよという声があるのも当然である。ちょっと昔はそれが「普通」のこととされていたのである。
純愛?そんなもの関係ない。そこで「普通」とされていることを頑なに守る、それが皇室というところだ。十二単で婚礼をやるのは一般人なら酔狂とされようが、皇室ではそれが「普通」。そこは、世の中がどんなに変わっても変わらず、変わらないことによって異質性、特権性を保持し続ける空間である。
でなければ、皇族が「特別な人々」と看做され得る理由がない。ちょっと都合が悪くなったから、みんなの意見を聞いて手直ししてみます、なんて議会制民主主義みたいなことは邪道のはずである。


そうやって天皇というものは、「女子は男子にはなれない」ことを体現し続けてきた。「全員女子世界」なのにバリバリの家父長制、それが皇室である。
その一端が今崩れようとしている。今時、女性が天皇になってもいいんじゃない?という、物わかりのいい世論を背景に。


しかし均等法や参画法があっても、世間の大半の女子は男子にはなれなかった。なれたらなれたで男子以上に大変だった。そういう女子を見て、後の女子の多くは最初からならない道を選んだ。こんな会社(社会)で男並みに働かねばならないなんてバカみたい。会社(社会)にはもう期待しない。それが本音だ。
そんな中で、今さら女を天皇にしてどうする。女性天皇を歓迎したからってどうなる。それで何か「いいことした」とでも思えるのか。女性天皇男女共同参画社会の「象徴」だとエバれるのか。
それで、「なんで男子になりたいの?」と問われてしまった長男嫁の憂鬱は、晴れるのか。
晴れるわけがなかろう。



●付記:この文章は、名古屋の演劇批評紙「Voice of NANA II」第14号(2004年6月25日発行)に発表された、宮田優子氏の論考「雅子皇太子妃問題」から多くの示唆を受けている。


初出:2005年2月・晶文社ワンダーランド