タンスの中の懊悩

捨てられない病

衣替えの季節である。
半年以上しまってあった夏物衣類を、衣装箱の奥から発掘する。まさに発掘するというに相応しい行為。物持ちがいいので、いつのまにかかなりの衣装持ちになってしまった。自分でもどれだけあるのか把握できてない。
高校時代に着ていたセーターが、いまだに捨てられないでとってある。さすがに夏物は消耗が激しいのでそれはないが、それでも20年くらい着ている服が数着。
件のセーターは、実に30年もの。ワインなら熟成も進んで飲み頃といったところ。高1の時、好きだった男子が着ていたアーガイルのセーターにそっくりなのを見つけて、小遣いはたいて衝動買いしたものだった。
そういう思い出があるのでなかなか捨てられない、というロマンチックなことでもなくて、単に気に入っているのであるが、今着るとピチピチだ。ピチピチの古着のセーターを着るというファッションもないではないけど、痩せてないと難しいわけで。
お婆さんになって痩せたらまた着よう。


発掘が進むと、何年も着ないで忘れていた衣類が次々出てくる。流行が終わってしまって着られないので、寝かしてあったのだ。流行はサイクルがあるから、また着られる時は来るだろうと思っての処置。
そのサイクルが来る前に辛抱しきれなくなり、ええいとばかりに捨ててしまうものもある。まさかこんなもの二度と流行らないだろうと。ドルマンスリーブのニットも、スパンコールの刺繍のカーディガンもそうやって捨てた。その直後にちゃんとサイクルはやってきて、後悔するのだがもう遅い。


しかし70年代ファッションがリバイバルしても、昔とはシルエットやテイストが微妙に違うわけである。古着として着こなすには、かなりのセンスを要する。新しいものを買って組み合わせないとオシャレでない。組み合わせを考えているうちにシーズンが終わってしまい、またしまい込むことになる。
もちろん体型の変化によって着られないもの、年齢的に無理なものも続々出て来る。いったいこんな細いウエストのスカートを私がいつ履いていたのか。そういう衣類を床に並べて眺めていると、しみじみせつなくなってくる。


80年代のジャケットには、必ず分厚い肩パッドが入っていた。ブラウスなんかにもしっかりと。合わせて着ると怒り肩になる。80年代の、鼻息の荒かったキャリアウーマンの栄華を彷彿とさせるシルエット。今では、田舎の商店街のおばさん向け洋品店にしかないシロモノである。
コム・デ・ギャルソンだって、肩パッドちゃんと入れていた。しかしジル・サンダーというデザイナーが、肩パッドなしのナチュラルなシルエットのジャケットを発表して(アルマーニが先だっけ。どっちでもいいや)、一気に肩パッドは過去のものとなった。
流行が去ったからといって、せっかく思い切って買って愛着したジャケットを、捨てるには忍びない。なんとか着れないものかと苦労してパッドを取ってみると、その分の布地がだぶついて大変みっともない。サイズの合ってない服を着ているようだ。大幅なリフォームをするには、リフォーム屋さんに出さねば。面倒臭いことだ。
そこでいっそ思い切って捨てればいいのであるが、悔しいのでまたしまい込む。


少し前に80年代のリバイバルがあり、肩パッドも一部で復活したのだが、どうしても着られなかった。ああいうものは、気合いを入れないと着れないということがわかった。
それに若い人が着るから新鮮に見えるのであって、40過ぎて着ていると、80年代の栄華を忘れられない時間の止まった人となる危険性が高い。新品ならまた別かもしれないが、新品買うほど肩パッドに執着があるわけでもない。
イタい格好はしたくないので、また溜め息をついてしまいこむ。いい加減捨てろよ。

妄想のガーター

衣装箱の底から妙な袋が出て来た。何かと思って開けてみると、「タイツのカタマリ」である。20足あまりがこんがらかって「カタマリ」になっている。この数年は黒か紺のタイツしか履かないので、それ以外のはしまいっぱなしになっていたのである。
黒い網タイツに派手なプリントのタイツ。おそらく一生履くまい。40過ぎての網タイは‥‥たとえどんな脚線美でもズレ過ぎだろう。何か使い道はないものか。
こういう時に「すてきな奥さん」とか「オレンジページ」を愛読していれば、即座に10通りくらいは有効利用の方法を思いつくのだろうが、私の思いついたのは普通のタイツは靴磨き用、網タイはタマネギを入れて縛って吊るしておく用‥‥。
靴磨きはともかく、網タイに入れたタマネギはどうだろうか。タマネギ、まずくならないだろうか。というか、そんなもの人の目が届く軒下に吊るすわけにはいかないし。
いろいろ思い悩み、面倒臭くなったのでまたしまい込む。忘れよう、網タイツのことは。


ついでなので、下着の引き出しも整理する。詳しく描写するのは控えるが、いろいろと大変なものが出てくる。昔はこういうものをつけた状態をやんごとなき相手に見せるために買ったのだなあと、しばし感慨にふける。
しかしガーターベルトとそれ用のストッキングの数が合わないのはなぜ。どこかに脱ぎ忘れてきたのか。どういう動機で買ったのかだけは覚えているが、ちゃんと身につけた確かな記憶がない。もしかしたら記憶から抹殺したのかもしれない。


そういえばちょっと前、下着泥棒のニュースがあった。
自宅から数百枚の女性下着が押収されたとして、それが床一面に並べられている様子がテレビに映し出されていた。やはり下着泥棒は華やかなものを好むのか、たまたまその泥棒の趣味だったのか、下着の展覧会のごとく色とりどりなブラとパンツがズラリ。お花畑のようである。
またそれをカメラが接近して丁寧に撮影している。あの中に自分のパンツを発見した人は、すごく厭だったろうと思う。
ニュースを見ていて、真っ赤なブラやフリフリのパンティを所有しているのは、たぶんとても地味なOLではないか?という、大変オヤジ臭い想像をした。外見は大人しく下着は大胆というのは、「昼は淑女で夜は娼婦」のイメージだから、いかにもオヤジが好きそうなギャップ。
そういう陳腐な想像しかできないということは、私も派手な下着を見ると、ついオヤジパターンの思考になるということだ。


しかし現実に、地味なOLは「いざ」という時のためにそういうものを所有している。
女性下着専門店に行ってみなさい。ほんとにあなたが履くの?と思われるようなものを、物色している地味なOLが必ず一人や二人。
で、本当の「いざ」はいきなり来たりするものだから、そういう時に限って色気も何もないババシャツなど着ていたりして、臍を噛むということが往々にしてある。
それとも、普通の主婦かな。「いざ」はないが、一人で「うふふ」な気分を味わうだけで満足という。タンスの中にお花畑作って喜んでいるのかもしれない。そういうケースが、上野千鶴子の『スカートの下の劇場』に紹介されていた記憶がある。


しかし、ガーターの処置をどうしようかというのが、目下の問題だ。この先つけることはおそらくない(だいたいストッキングなんか一年に一回履くか履かないか)が、捨てるに捨てられない。これを捨てたら女を捨てることになる、という声が頭の中でする。
そうだ、お婆さんになって‥‥そういうプレイもあるかもしれないし‥‥。


開けっ放しの引き出しを前に、女の妄想はホラーになっていく。