作品の時間

未来がこわい

私が時間について考える時、参照するのは映画と音楽である。映画も音楽も、後戻り不可能な時間の推移と不可分の関係にある。
それを言うなら、演劇も小説もそうなのかもしれないが、演劇の場合もし俳優が舞台で倒れたらそこで演劇の時間はストップするし(あまりないことだけど)、小説だと気になるところを任意に読み直しながら読み進めることができる点で、演劇内、小説内の時間の流れから自由になる余地がある。音楽も、生の演奏の場合だと、演奏者の心づもりひとつで費やされる時間や音楽そのものが変わることがある。


しかし、あらかじめ撮影され編集されて完成品となっている映画や、録音された音楽CD(音楽と言ったら生音ではなく録音で聴くことが圧倒的に多い)は、既に終わりまで完全にできあがっているその時間の中に受け手を巻き込んで、ただひたすら自動的に進んでいく。映画館で席を立ったり、DVDやCDをストップさせたりしない限り。


完全に映画時間や音楽時間に浸かっている時、人は無防備だ。それは、誰かの決めた運命に身を委ねているのと似ている。
運命が決まってから、つまり映画や音楽が終わってから、またリアルな時間が続いていくということを知っているから、安心して身を委ねられるのである。その安心は、現実で何か困ったことが起こっても、後になってみたらきっと笑えるだろうと先取りする感覚に近い。


しかしリアルな時間がどうにも苦痛に満ちたものであった時、映画や音楽が終わってほしくないと思うことがある。
そういう時に、次から次へとレンタルビデオを借りて見ていたことがあった。没頭できさえすればどんな種類の映画でもいい。前に見たことを忘れて同じものを借りてしまうことがたまにあったが、それは大抵「没頭できさえすれば」と思って借りた映画だったりすることが多かった。


没頭したいと思って見ていた作品の時間が、突然止まってしまったらこわい。
見ていた映画のDVDが、あるところからいきなり画面が真っ黒になり、そのまま終わってしまったら。まだまだ続いていってから終わりに至るはずのものが、何の前触れもなく途中で終了。ステージでハプニングが起きた以上のショックだろう。
突然の死とは、そういうふうに訪れるのかもしれない。


小説でそういう「驚き」を利用して、何ページも‥‥‥や意味不明の言葉や白紙が続くという手法がある。
物語に即したかたちでそういう"実験"をやっていたのは筒井康隆だが、ウラジーミル・ソローキンはいきなり不条理に技を繰り出してくる作家である。素朴な小説読みの私は、初めて読んだ時まるでどこか悪い場所に置き去りにされたような気持ちになった。
小説では急いでページをめくってその先を確かめることができるが、受け手の時間を支配する映画だったら、もっとリアルにそれを感じただろう。


普通の商業映画を見ていて、初めて時間の残酷さと恐ろしさを感じたのは、『猿の惑星』(1968)のラストシーンである。一年後くらいにテレビ放映されたのを見たのだが、あの取り返しのつかない感じはトラウマになりそうだった。
「明るい未来」とか「夢の21世紀」なんて言葉が学習雑誌にいっぱい載っているのに、未来真っ暗じゃないか(まだ『ドラえもん』が始まるずっと昔だ)。翌日学校では、『猿の惑星』の話でもちきりだった。みんな同じようにショッキングだったんだなと思って、少し安心した。


SFは未来を、ミステリは過去を探索していくジャンルだから、時間の扱いについて工夫が凝らされる。
最近だと『メメント』(2001)という、10分の短期記憶しかない男の物語が、過去の時間をテーマに扱っている。物語映画がリニアな時間の流れを前提としているとすると、この映画は10分の短期記憶という設定をうまく利用して過去に遡及していく。それとミステリが絡んで、映画でしかできないことをなかなか見事にやっていた。『マルホランド・ドライブ』ほどの凄さはないが、見終わると必ずもう一回見たくなる映画だった。

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音楽のような人生

音楽について、子どもの頃からいつも不思議だったのは、なぜこの音の次にあの音がきて最後にその音になると、こういう感情を呼び起こされるのだろう?ということである。
言葉ならまだわかる。意味がありイメージできるものがあるから。しかし音は、基本的に抽象的なものだ。
音の不思議について考え出すと、私にはわからないことだらけである


たとえば、ドミソとドミ(フラット)ソはそれぞれメジャーコード、マイナーコードということになっている。
なぜドミソのミの音が半音下がっただけで、「悲しい」感じになるのだろう。
しかも、シミ(フラット)ソになると「ミステリアス」な感じになる。
そしてさらに低い音が半音下がって、シ(フラット)ミ(フラット)ソになると、なんだか「一山越えた」感じになる。
なぜなんだろう。
それから、ドミソはなぜ「今・安定」の感じで、ドファラはなぜ「未来・希望」の感じで、シレソはなぜ「過去・内省」の感じ(大雑把に言うと)に聴こえるのだろうか。この三つのコードが交互に繰り返されると、必ずそういう感じを受けるのだ。
これは私だけの感覚ではなく、西洋音楽を聞き慣れた人に共通の感覚のはずである。


さまざまなコードや音の並びが駆使され、人の感情をいかようにも操ることができる音楽の謎。
おそらく言葉(音声)の発生と関係あることなんじゃないかと思うが、昔音楽を学んだにも関わらず専門的なことはよく知らない。ただ、どうしてだろう?と不思議に思っていただけだった。このことを論理的に説明している人は、きっといるのだろうが。


いわゆるよく出来ている音楽というのは、この音の次にはどうしてもこの音でなければならなかったという必然性に、隅々まで満たされている。最初聴いた時は「お、この次にこうくるんだ。で、次はこういう展開。へええ」と感心して聴くだけだが、繰り返し聴いて、その綿密な計算に気づく。
その計算とは、言い換えれば、時間を最初から最後まで完全にコントロールしたいという一種の支配欲だろうと思う。
支配欲のない音楽は、偶然性に左右される。アドリブや即興演奏といったものになる。そしてジョン・ケージの『4分33秒』に行き着いた。
しかし今耳にする多くの音楽は、支配欲系のものである。最初の一音から最後の一音まで、計算されている。その計算の巧みさを競っている。
そういうものに人は安心感を覚えるとすると、それは自分の人生を自分で隅から隅まで把握しておきたいという欲求と、どこかでつながっているように思う。


人は生まれた時のことは覚えていないし、死ぬ時のことはわからない。つまり自分の人生は、始まりと終わりがボケていて「今」がもっともくっきりしている帯のようなものだ。
普通に記憶力があっても、今から過去に遡るにつれて帯の色は徐々に薄くなったり、とぎれとぎれになったりしている。
未来の方は、明日の命も知れない人、つまり帯にほとんど色のない人もいれば、三十年先くらいまできっちり人生設計のたっている、帯の色がカラフルな人もいる。
それもあくまでその人の中で想定されていることに過ぎないから、まだまだ続いていくはずの人生が、突然終わりになってしまうこともある。最近では、ハリケーンや台風で亡くなった人々のように。


だから、始まりと終わりがはっきりしている音楽=物語を人は求める。
その間が「悲し」かったり「ミステリアス」だったり「一山越えた」り「安定」してたり「希望」があったり「内省」したりという変化に富んだ、でも隅々まで必然性(理由)のある音楽。
それは、自分ではコントロールできない運命の、一時的でささやかな代替物である。


人生に対して真に達観しいつでも運命を受け入れる覚悟のできている人には、作り込まれた音楽はいらないだろう。
そういう人はきっと、自分が生まれる前からずっと鳴っていて、自分の死後も変わらず鳴り続けるような音だけで充足しているのではないかと思う。