『ふしだらかしら』を読む

おばあさんの性欲

面白い本を読んだ。『ふしだらかしら〜老嬢ジェーンのセックスとロマンをめぐる冒険〜』(ジェーン・ジャスカ/清宮真理訳/バジリコ株式会社)。

ふしだらかしら-老嬢ジェーンのセックスとロマンをめぐる冒険

ふしだらかしら-老嬢ジェーンのセックスとロマンをめぐる冒険


フケ専のポルノ小説でも、中高年女性向けのハーレクイン・ロマンスでもありませんよ。一人のアメリカ人女性の自伝である。腰巻きの文句は、

すべては「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」に掲載した個人広告から始まった。
アントニー・トロロープの小説が大好きな教養ある女性英語教師が綴る、
可笑しくて、ちょっぴり哀しくて、そしてまったくユニークな全米ベストセラーノンフィクション


筆者ジェーン(当時66歳)が出した個人広告とは次のようなもの。

67歳になる来年3月までに、好みに合った男性とたくさんセックスしたいのです。
まずは会話からとおっしゃるのなら、話題はトロロープでいかが?

ろくじゅうろくさい〜? そんなバアさんが「たくさんセックスしたい」だと〜?! と驚いてはいけない。老人にも性欲はある。性欲は死ぬまでなくならないとも言われる。特に女性は、更年期から急に性欲が昂進するそうだ。‥‥てことは、私ももう少ししたら。


それはともかく、この広告に全米から総計60通もの応募、というか立候補が集まったのである(さすがアメリカ!)。
中には勃起したペニスを誇示する全裸写真入りの手紙も(さすが!)。「あんたのガッツにゃ感心したぜ」とか(そりゃそうだよね)。年齢は30代から70代まで幅広いが、だいたい彼女と同世代からやや下が多かったようだ。
送られてきた手紙の中から「これは」と思われる物件をいくつか選び、手紙やメールや電話で彼らとやりとりをし、順番に会う。その模様が、笑える場面もイタい場面もせつない場面も、実に率直かつユーモアを込めて書かれている点に、まず驚いた。


相手は大学教授とか作家とか、どっちかというとインテリ系の人が多いようだが、職業が不明な人もいる。最初は手紙やメールの文面で判断するだけだから、会ってみるまではどんな人だかわからない。
いきなり挙動不審で引いたとか、自分よりちょっと上の年齢のはずなのに、会ったらどう見ても80過ぎだったとか、メールのやりとりで恋に落ちてつきあったが、うまくいかなかったとか、まあまあな人だけどセックスが‥‥‥とか。


会えば、まずは「見られる」ことからすべてが始まる。
彼女は自分の外見を冷静に分析しつつも、それなりに(というか、かなり)気にしている。本に掲載されている顔写真では、知的で爽やかないい感じの女性だが、それでも年齢上気にならないわけがない。いくら向こうもたるんだ顎やお尻の持ち主だとわかっても、恥ずかしいものは恥ずかしい。それに相手がとんでもない"危険"な男とも限らない。
なのに、なぜこんな「勇気ある(無防備な)行動」に踏み切ったのか。


彼女はこんなふうに書いている。

私が絶対的だと思っていることのひとつに、自分の身に起こることは100パーセント自分の責任だという法則があります。ですから、今回の行動を起こすことで、傷つくかもしれないことはわかっていました。
(中略)
それでも手を引くつもりはなかったのです。今回の冒険の目的は、結婚でも、末長いおつきあいでも、パートナーを得ることでもありません。私は自分の住んでいる場所も、そこでの生活もおおむね気に入っていました。ただ、そこには体の触れ合いが欠けていたのです。
(中略)
ええ、私は絶対におとなしく「あのやさしい夜」に入っていったりしません。消えゆく光に逆らって、セックスしまくるのです。

承認されたい、触れられたい

私がふと思い出したのは、作家の中村うさぎである。
彼女はもともと買い物依存症だが、その後ホストクラブに通い詰め、美容整形し胸をふくらませ、最近は熟女デリヘル嬢をやった。美容整形の模様を女性週刊誌に掲載した時は既に45歳くらいだったが、「枯れたい人は枯れなさい。でも私は絶対に諦めない。どこまでも老いに逆らってやる」と言っていた。
どこまで自分が「女」として見られるか。男(といってもいろいろだが)から見てストライクゾーンに入っていられるか。セックスもやぶさかではないと男に思われるか。それが女にとって非常に重要な問題となるために病理にまで発展するということを、中村うさぎは極めて自覚的に身をもって示している。
ジェーンの場合は年齢もあって現れ方がまだ"穏健"だが、「女として見られ、欲情される存在でありたい」という切実な願望に突き動かされている点では、中村と同じだ。


ジェーン・ジャスカは、「女」としての自分を取り戻したいと切に願う、性欲に溢れたおばあさんである。たぶん、決して特殊な人ではない。
性欲を満たすにはオナニーでも可能だが、「体の触れ合い」が欲しいというところがポイントだ。それも、「心の触れ合い」は一切ない「体だけの触れ合い」ではダメなのだ。だから彼女は、自分の好きな作家の名前を出して、精神的なところで共鳴できる人という条件をさりげなく付け加えたのである。


女性は誰でも年齢と共に「女」とは見なされなくなり、セックスの機会も減っていく。それを普通の女は、仕方のないこととして受け止める。歳をとれば、性欲をもてあましていても押し殺す。
男でも同様の現象はあろうが、より若さと美しさを求められる女の方が、「苦しみ」は大きい。男はそれこそ風俗でも行けば、欲望の処理に関してはなんとかなるが、女の「男買い」は一般的なものではない。
女の欲望は、男に「承認されたい」欲求とどこかで深くつながっているのではないか。だから体とお金の交換である風俗をドライに楽しむことは、女には基本的に向かないのではないかと思う。


誰にも「女」として見られないということは、女にとっては淋しいことである。
仕事に頑張っていたり夢中になれるものがあれば、別にいいのではないか? いやそれも若い時だけであって、「いつかは」という可能性が残っているから、一時の淋しさにも耐えられるのだ。そういう煩悩を捨て達観の境地に至っている人はいいが、そうでない諦めの悪い多くの女にとって、加齢は恐怖である。
だんだんと重力に負けていく体のあちこち。確実に年老いて人相が変わっていく顔。そしてある時、まだまだ人生は続くのに、この先誰にも求められたり抱きしめられたりすることはない、という現実に直面してみなさい。その淋しさ、虚しさたるや、若い女子には想像もつかないであろう。
私も昔は想像がつかなかった。そして、最近ようやく想像できる歳になった。


ジェーンは「セックスしまくる」と宣言しており、実際セックスが大好きな人のようだが、セックス自体にそれほど執着がなくても「体の触れ合い」を女は求める。
それが身近になければ、室内犬とかペットを飼って「生きものとの触れ合い」を求める。愛情をもって抱きしめる生身の対象が、必要なのである。犬はこちらを抱きしめてくれないのが玉に傷だが。
若い女子同士でよく抱き合ったりベタベタくっついたりするのも、「体の触れ合い」を求めてのことだ。なにしろ女性の体には性感帯が多いから、別に性欲を意識してなくてもくっつきたがる人は時々いる。
私も若くて柔らかそうな女子を見ると、抱きしめたい衝動に駆られることがある。しないけどね。「ちょっとほっぺに触らせて」と親しい学生に言ったことはあるが。
そんなわけで更年期も近い私は、テレビ見たり仕事している身近な生きもの(夫)にベタベタひっついてみたり、髪の毛をくしゃくしゃにしてみたりして、厭がられている。

解放と嫉妬

さて、この本で面白いのは、いろんな男との出会いや別れの部分だけではない。彼女の少女時代の性、両親との関係、結婚生活、教師の仕事、夫の浮気と自分の浮気、過食症、夫との別れ、子育て、息子の自立、かかりつけの精神分析医への転移感情など、自分のこれまでについて、詳しく内省的に書かれているところがとても興味深い。
多感な時期を母親の厳しい教育のもとで過ごし、やがてフェミニズムに触発され、一方で常に自分の女性性に振り回され、最後は自分の欲望を自覚し‥‥という、一人のリアルな女の姿が浮かび上がってくる。


フェミニストと言えば上野千鶴子も、自身のセックス観についてあけすけに語る人だが、私はいつも微妙な不快感を抱いてきた。
なんだか自らを「性的に解放された進んだ女」として普通の女たちの一段上に位置づけ、そこから見下ろしているような印象を受けるからだ。男を「快楽の道具」みたいに思っているような印象も受ける。かりに男が女を(本質的に)「快楽の道具」だと思っていたとしても、そういうところで男と同列に立てて嬉しいのか?という素朴な疑問を抱かされる。
作家の岩井志麻子斎藤綾子も奔放なセックスライフを語る人だが、上野のようなエリート臭さはないし、ユーモアがある。


ジェーンの語りに私が共感するのは、「見下ろしている」感が一切ないことだ。自分のブザマな姿も、人には言えないような恥ずかしい欲望も、正面から率直に見つめている。
上野千鶴子は「あけすけ」だが、ジェーンは「誠実」。私には、ジェーンの方がずっと知性的に見える。
彼女の生き方は、普通の女性がどんなに自立しても、男性からの(何らかの)「承認」なしに生きていくのはしんどい(のではないか?)という、これまでのフェミニズムがあまり直視してないような事実に向き合っている。
そして、たとえ結婚してセックスして子どもを産んで「女の身体機能」をフルに使っても、満たされない思いというのはやってくるものだということ。
三砂ちづるの『オニババ化する女たち』では、結婚も出産もしなかった人が歳をとって男を漁るオニババになる、といったことが書かれていたが、そんな簡単なもんじゃないのである。


ところで日本では、このようなケースはあるのだろうか? 老嬢のセフレ募集。
女が自分の性について正直に書くだけでも抵抗があるのに、「男が欲しい」と公に言うのはもっと抵抗があるだろう。ジェーンのように「私はふしだらな女」と明るく言ってしまえればいいが、日本の60代の女性でそこまでできる人は滅多にいないだろう。
「私はふしだらな女だった」と、今は「枯れている」ことを前提に過去を回想して書くことはできても、既に女と見なされない年齢になって性欲を誇示することは恥ずかしい、との認識が強いはずだ。
欲求不満のオバさんほど見苦しいものはない。ババアは性欲なんか隠しておけ。それが世間の(特に男の)眼差しである。
アメリカの女性だって、それは基本的に同じだと思う。
ただ違うのは、彼女の決断に(面白半分ではあれ)喝采を送り、見守る友人たちがいたことだ。性感染のことなど、まじめにいろいろ忠告してくれる人もいた。日本だったら、「恥ずかしいことはやめなさい」という忠告の方が多いかもしれない。


中でも面白かったのは、33歳独身のキャリアウーマンの姪、キャロラインの反応である。
彼女は最初、叔母さんの味方につき暖かく応援する。ところが、ジェーンが三十代前半の男性に「求められた」と聞いてから、ものすごく不機嫌になるのである。歳が女より30以上も下、しかもすごく知的でかなりのイケメンだというではないか! いったいどういうこと! え?!(口には出さないがそういう態度でいろいろ嫌みを言う)


いや、キャロラインの気持ちもわかる。
60代のおばあさんが60や50のオジさんとつきあうのはいい。しかし自分と同世代の若くていい男に「求められた」なんてイヤ。それも自分の叔母で、金持ちでもなければすごい美人でもないのに‥‥どうしてよどうしてよ。
いやあ世の中まだ捨てたもんじゃないわね、私の未来にも希望があるかも♪というふうに、前向きには考えられないわけである。女ってどんな女にも、たとえ相手が66歳のおばあさんでも、嫉妬する時はするものなのだと思った。


しかし、ジェーンがこれで心身ともに「性的に解放された進んだ女」に生まれ変わったというわけではないのだ。この本の後書きで、彼女はそれを正直に告白している。
興味のある方は、是非書店で本を手に取ってみて下さい。