誰が作るのかという問題

おふくろの味

その人、独身?

その人、独身?

酒井順子のエッセイ『その人、独身?』を人から借りて読んだ。『負け犬の遠吠え』の各論(実践編と帯に書いてある)とも言える内容。絶妙のバランス感覚は相変わらずで、危なげない文章芸を楽しめる。
酒井順子という書き手自体、もうまったく危なげない。目の前で起こる出来事に巻き込まれつつも、常に一定の距離はキープというスタンスが身に付いている。
そこにはバブル期に大学を卒業し、かなり潤沢な消費生活を過ごしてきた人特有の醒めた(ある意味お気楽な)感覚があるが、最近は年相応の「毒」がいい感じに出て来た。たとえば、「おふくろの味と少子化の関係」という文章(以下、抜粋)。

おふくろの味賛美発言をする人というのは、例外なくマッチョ思想の持ち主です。彼らは「仕事もいいけど、子供を産んで育てるっていう女の幸せを、酒井にも早く知ってほしいんだよ」みたいな発言を、真剣な眼差しで言ってくれたりする。
その手の人は「結婚して子供を産んだ女性も外で働くべきだと思うんだ」などと言いつつ、「とはいえ家の仕事はきちんとやってもらわないと。おかずは最低でも五品」みたいなことを言い(以下略)


ここで、私はそれに該当しそうな人を何人か思い出しておかしくなったわけだが、酒井の筆の冴えは次のところである。

その手の男性を見てると思うのです。
彼等も本当は、「女に教育はいらない」とか「つべこべ言わず家で料理作ってろ」とか言いたいのであろう。なのに今の時代に生まれてしまったがために「おふくろの味の復権を」くらいのゆるい表現でしか自己主張ができないとは、なんだか可哀相でもあるなぁ、と。


上手い!私は思わず声に出して言った。糾弾せずに「可哀相」というところがいい。
女にそれなりの仕事ができる程度の知性も求めるが、同時にじゅうぶんな家庭的資質も求めるような贅沢な男は、いまだに多い。そういう男がよく持ち出すのが「おふくろ」、母。「マッチョ思想の持ち主」にとっては、錦の御旗のような絶対的価値を持っているのであろう。


ところで、最近の若い女子は料理ができない、という話をよく聞く。お米を洗剤で洗ったとか、油揚げに味つけせずにお稲荷さんを作ったとか。料理に対する女の無知ぶりを揶揄する番組まであった。家でやってないんだから仕方がない。それは男子も同じだ。
ところが、男は女が料理ができて当たり前と思っている。しかし今どき、花嫁修業でもしたか、一人暮らしをしてちゃんと自炊していたかでもない限り、それは無理な相談である。
私の母は二十歳で結婚した時、野菜炒めとオムレツしか作れなかったらしい(別にどこぞのお嬢さまではない)。専業だったので結婚後料理学校に通い、やっといっぱしのものを作れるようになった。


ジェンダー入門の授業では、男子に「女の子に最初から料理の腕を期待してもダメ」「料理が作れる男子はポイント高い」と言っている。「料理が上手い」を結婚相手の第一条件に上げた男子が前年度多く、これはまずいと思ったからだ。
そしたらミニレポートで、「そんなことが第一条件になるのが驚きです」「僕は料理得意なんでポイント高いかも」という「マッチョ思想」に毒されていない男子の回答があった。
二十歳前後と言えば、私の子ども(いないけど)くらいの年齢である。彼等のお母さんは働いている人が結構いる。「母親が仕事から帰って休む間もなく食事の支度をしているのに、ぜんぜんオヤジは手伝わない」「母親を手伝おうとすると、男がそんなことするなと父親に言われ頭にきた」というレポートも。若い男子の間には、少しは変化が訪れている模様。

料理する男

ところで、私は働きながら主婦業を必死にやっていた時代があった。仕事をしその上で、料理も家事全般もささっとこなすような妻をやろうとしていたのである(当初は)。思えば主婦業、いや結婚を舐めていた。
私の仕事は平均週4日くらいだったが、その頃美術作家活動というものをしていて、まあそれにかなりの精力を費やしていたので、家事との両立が大変であった。
大変であることは夫も知っていて、時々手伝ってくれようとはするのだが、如何せん彼の仕事は私の三倍くらい過酷で多忙である。そういう相手に、「家事手伝って」「たまには食事作って」とは言いにくい。
多忙のみならず、収入が私よりずっと多かったことも、「手伝ってよ」と気安く言えない要因。稼ぎの多寡は、そのまま家庭内の目に見えぬ上下関係に跳ね返ってくるものである。


そのうち心底疲れてきた。仕事やめよかな?という考えがふとよぎる。個展前のテンパッている時期は料理も手抜きになる。「おふくろの味」とか「おかずは最低でも五品」などと贅沢を言う相手ではなかったが、手抜きが続けば不機嫌になる。
一念発起した夫がせっかく包丁を握ってキッチンに立っているのを、あれこれと横からうるさく口出ししたので大喧嘩に発展、などというつまらないことも起こる。
家事を巡る幾多の喧嘩を経て私は、「妻に過度に期待することをやめさせる」計画を進めた。それは遅々として進まない計画であった。彼ももともとはどっちかと言うと「マッチョ思想」な人だったのである(今でもたぶん隠れマッチョだ)。
が、最終的に彼は「何も言わなくてもご飯の用意ができている家」というものを、ようやく諦めた。そして今度は、やたらと熱心に料理番組を見るようになった。


今ではスーパーに行けば吟味に吟味を重ねて食材を選び、私より丁寧に味噌汁を作り、小豆を戻して豆ご飯を炊く。ダシ巻き玉子なんて面倒なものを嬉々として作る。それを斜めにちまちまと切り分けてお花の形に並べるなどという、細かい芸まで見せる。その皿を「こうゆうのは、どや!」と人の前に突きつけて満足気。
そこまでしてくれなくてもいいのであるが、「うまいものを自分で作る」「作ったものを人に食べさせる」喜びに多少目覚めてくれたのは、本当に助かる。
「それはなあ、おまえがやらんから仕方なくやってんだ」
それでもいいわ。ただ、「これ食ってみ」とお腹空いていない相手に強要し、口に入れる前から「どや?!」と訊くのはやめてほしい。


しかしここまで来るのに、十年以上かかったのである。前ほど、夫の仕事が多忙でなくなった(もちろん収入も落ちた)せいもある。
毎日台所に立つ習慣のなかった男は、少し時間がないと「さあご飯作ろかな」なんて余裕は生まれないであろう。お金はあるが忙しい人は外食で済ませるし、お金がなくて時間のある人は家で作る。なんとなくそういうふうになってきている気がする。
仕事が忙しいが子どものいる人は、いつも外食というわけにいかないだろうから一番大変である。そこに「おふくろの味」だの「おかずは五品」だの言われたら、キレるに決まっている。
叔父の奥さんは教師で仕事が忙しく、全然儲からない古本屋を半分趣味でやっていた叔父が、家事の大半と子どもの世話の半分を引き受けていた。団塊の世代は口のわりに男尊女卑の男が多いと私は思っているが、叔父の主夫ぶりは実に自然で見事であった。


そういうことを前、夫に話したら、
「おまえがバリバリ稼げりゃ、俺だって仕事はずっと減らして主婦やったっていいよ。やれる自信があるね。おまえよりは」
と言われた。悔しい。私が「バリバリ稼ぐ」なんてことは一生なさそうなのを見越して言っているのである。
ちょっと料理上手くなったからって、調子乗るんじゃないよ。アイロンがけできないくせに。
それより最近困ったことは、お腹が空けば夜中であろうと、冷蔵庫を漁ってさっさとなんか作って食べてしまうことである。
時々、朝起きるとご飯が炊けていて味噌汁までできているのは有り難いが、なんだかんだと作って食い散らかした痕跡が。そういうことをしているから、どんどん腹が出てくるのだ。
料理を苦にしない男は、えてして太りがちなのが難点である。