子どもにわかる「思想」

ネズミの脳内革命

ミッキーマウスのプロレタリア宣言

ミッキーマウスのプロレタリア宣言


ミッキーマウスのプロレタリア宣言』を読んでみたが‥‥微妙。微妙というか、これはあかん。アマゾンで一緒に買えと推奨している『フリーターにとって「自由」とは何か』杉田俊介著)の方がたぶんずっとまし(読んでないが)。


表紙にある言葉は「日本階級社会には、支配する人間と、忠実な犬と路上を徘徊するネズミとがいる」。「人間」は資本家で「犬」は正規雇用の人々で「ネズミ」はフリーター。まあ図式通りである。
で、「ネズミたちよ、自分の欲望をやつらに渡すな。世界を底から喰い破れ。「支配されざる者」の笑いと、そして自由を」。
「ネズミの欲望」ってのは何か。それを語る言葉が、新宿や永山則夫や山谷やアドルノベンヤミンデリダラカンや段ボールハウス・ペインティングやサウンド・デモやアルバート・アイラーチャーリー・パーカー
そして社会システム云々以前に「脳内の階級闘争」から始めよと言っている。


著者の平井玄は52年生まれ。早稲田大学中退してフリーターをしながら主に音楽関係のライターで食べてきた人のようだ。
自分の体験やいろんなエピソードが盛り込まれているので、そういう人の現場感覚のようなものは伝わってくるが、参照されているものへの思い入れが強過ぎ、妙な力みと温度の高さに違和感を覚える。
それに詳しい説明もなくアドルノベンヤミンデリダラカンを持ち出されても、わかるのは人文系の一部の人だけだ。それらを知っていることを前提で書かれているところが、まず間違い。
この本を読んで「脳内の階級闘争」を始めてもらいたいと筆者が願う人は、全国400万人のフリーターの人のはずである。
その中で、アドルノベンヤミンデリダラカンを読んだことある人が、何割いるのか。少なくとも私が仕事で行っている大学や専門学校を出て就職にあぶれてフリーターやってるような子たちは、どれも知らない。そしておそらく、段ボールハウス・ペインティングやサウンド・デモの「意義」を聞かされても、ピンとこないだろうと思う(私だってピンとこない)。
そういう人達に届く言葉にはなっていないところが、致命的である。


「労働の中で一度は徹底的に切断された指先と大脳が闘いの中で爆発的なニューロン結合を誘発し、無数の新しい神経回路によってつながれてしまう集団的創造行為」なんて言われても、全然わかんないって。
「「人間に似たところをすべて身からかなぐり捨ててもなお存続し続ける」生き物の未来」って何ですかいったい。
「サラリーマンやOLと呼ばれる人たちは本当に犬でいいのか。首にがっちりとした鎖をつけられてその鎖の長さの許す範囲でうろつき回ることを「自由」だと思い込み、エサをもらって喜んでいるような、そんな犬でいいのか」。
ダメだーこの芸のない言い方。
犬ではないネズミの方が「自由」で、「ネズミどもが下から見ている世界の方が、ずっと広大で深みがある」って言ったって、そんなの何の慰めにもなりませんよ。
ネズミ達の音楽(アイラーやパーカーやコールマン)をいくら「狂おしいほど美しい」と言われたって、そりゃスゴいかもしらんけど、それがどうした、ですよ。
そういう言い方は結局、「犬」の筑紫と同じなんですよ‥‥おじさん。


村上龍の『13歳のハローワーク』を、ちょっと胡散臭いものとして批判しているところは評価できた(それもツッコミが弱いが)。階級の構造を具体的に説明しているところもまあいいと思う。少なくとも『下流社会』が書かない論点はある。
でもそれ以外については「もういい、こういうノリは」と言いたくなった。「勇気を出して闘え」とアジっていることだけはわかるが、その中身は抽象的だし、何よりもその勇まし過ぎるアツい言葉遣いに引く。
いったい誰に向かって書いているのだろうかと初出を見てみたら、三章のうち二章は『現代思想』に掲載されたもの。「現代思想」な人に向けての言葉だったのである。
賢い左翼ネズミの人達が買って「そうだそうだ」と頷きながら読んでいるのだろうか。
‥‥もういいってばさ、そういうのは。

『しんせつな地主さん』

話はがらりと変わる。前、ナルニア国ものがたりのことを少し書いたが、私がそれと同じくらい愛読しているのはエリナー・ファージョンだ。彼女の短編集『ムギと王さま』には、二十のお話が入っている。ファンタジックなものもあるが、多くはイギリスの庶民の子どもの話。この短編集の最後に『しんせつな地主さん』という物語がある。


ある村に、地所もちの金持ちの百姓がいた。チャードンというその男は、広い農地や多くの家畜を所有し、店や宿屋や製粉所を経営し、酷くケチで無情な者として知られていた。
冒頭から、作男ウィルとチャードンの会話である。解雇しないでくれと懇願する哀れなウィルにチャードンは、
「おれの時間をむだにするやつは、おれの金をむだにするんだ。きさまは、おれの時間をむだにした」
と責め、延々と罵倒する。ウィルは、
「おめえやおめえの身内が、おらになにかたのむようなことになってみろ」
と捨てゼリフを吐いて去る。
その村でチャードンに搾取されていない者はおらず、彼だけが大金持ちで村の人々は貧困に喘いでいた。


ところが一人者のチャードンはある日、市場に牛を売りに来ていた貧しい娘ジェインに一目惚れしてしまい、彼女が他人に売った牛を買い戻して彼女の元にタダで返してやるという、今までしたことのないような行いをする。ジェインにとってチャードンはとてつもなく「しんせつなひと」となり、やがて彼らは結婚する。
チャードンは相変わらず家の外ではあくどいことをしていたが、ジェインには「なんてあなたはしんせつなの」と言われたいばかりに尽くす。
彼女は女の子を産んで死に、チャードンは今度はそのチイジェイン(小さいジェイン)に「しんせつなおとう」と言われたいがためにあらゆることをするようになる。
まあここまでは只の愛妻家、親バカなふるまいなのであるが、ある事をきっかけにチャードンは崩れていくのである。
最初は、チイジェインが十円無くして泣いている子を連れて来て、
「うちのおとうちゃん、しんせつだから、あんたに十円やるよ」
と言ったことから。
チャードンは「まるでひと財産手ばなしたかのよう」な「大きな不安におそわれ」ながら、思わずその子にポケットから十円出してやってしまう。彼女は実はウィルの娘であったが、彼はそのことを知らない。
次に彼は、娘が連れてきた子どもたちに大盤振る舞いをし、前代未聞の異変が起こったと村中で噂されるようになる。


これ以降、「しんせつなおとう」を信じ切っている娘に言われるまま、チャードンは貧しい人に施しをするようになる。さらに自ら学校や孤児院に莫大な寄付をし、自分の財産を切り崩して村の人々に分け与える。
財産が減っていくとともに、チャードンの心の中の言い知れぬ不安はどんどん大きくなっていく。しかしいったん崩れかけたものは止めることができない。


村中の人々がそれぞれの生産手段を持ち、人間らしい暮らしをできるようになった頃、チャードンとチイジェインは山番の小屋で暮らし、人々に施しを受けるような身分になる。娘に残す財産は一銭もなくなって初めて、チャードンは「不安」から解放され、貧困の中で死ぬ。
残されたチイジェインを引き取りたいと最初に名乗りをあげたのはウィルであったが、チャードンに施しを受けたことのある村中の者が、彼女の親になりたいと言い出した。
そしてその村は、「世の中の子どものために金をつかって、じぶんの子どもには何ものこさなかった人間がすんでいたところ」として世間に知られるようになった‥‥という話。


エリナー・ファージョンは、19世紀の終わりのイギリスに生まれた人である。つまりどんどん開きが大きくなっていった資本家と貧しい庶民の生活の落差というものを、目の当たりにしている。それを貧しい庶民ではなく、資本家を主人公に据えて子ども向きに書いているところが面白い。
冷酷非情なチャードンは、自分の娘のために残したい財が目減りするたび何度となく「わしは、しっかりせにゃならんぞ」と思いつつも、何か大きな力に操られるようにして次々と資産を手放していくのである。
彼を動かしているのは「しんせつ」という、彼の辞書にはなかった言葉だ。
こんなに「しんせつ」なおとうは、私にだけでなく誰にでも「しんせつ」なはずだ、という幼い娘の無垢な確信が、彼を一文無しにし、村に恵みをもたらした。
彼にとりついていた「不安」は、私有財産を失った時点で消え失せた。
最後何も持たないチイジェインに差し出されるものは、村人の「感謝の心」のみである。


『しんせつな地主さん』は単なる勧善懲悪の話ではないし、大上段で教訓を語るものでもない。「階級闘争」の話ですらない。あえて言えば「善意と自滅」の話だ。しかし私は何度読んでも最後で泣く。
「どんな思想も、子どもにわかるように語られないものはないという気がしてきます」と、後書きで訳者の石井桃子は書いている。きっとそれが一番難しいことなのだろう。


ただ、「しんせつな地主さん」とは言い換えれば「金儲けしない資本家」ということである。ありえないファンタジーなのだ。チャードンのようなバカな資本家はまずいない今現在の状況は、チイジェイン的な美しい理想主義が絶えたのではないかという絶望と対応している。
‥‥だからといって、サウンド・デモで踊る気にもなれないんだけども。