父と左翼

オールドレフト

「署名」ということで思い出したのは、高校の時の出来事である。正確には、それは連名の署名。ここ最近ネットで話題になっていた抗議文の最後に、書かれているようなものだ。
私は高校の時、学校内である抗議文に連名し、後から自分一人だけそれを取り消したことがあった。あまり思い出したくない体験だったのでずっと心の奥に押し込んでいたのが、ここを読んでいたらある言葉が引き金となって、連鎖反応的にその30年も前の「署名取り下げ事件」(というほどのものではないが)をくっきり思い出した。


私の行っていた県立旭丘高校は、愛知県でトップクラスの進学校だった。
といっても、そう言われているのは普通科で、一クラスだけある美術科は別。私は美術科で普通科に受かる学力はなかった。「旭丘?頭良かったんだ」と言われると、「いや、あの、美術科だったから関係ないの頭は」といつも言い訳しないとならない。
美術科の生徒はデッサンの入試成績重視でとられたので、学力は(上下差は幾分あったが)平均して普通科よりかなり低く、クラスの雰囲気は普通科よりかなり牧歌的だった。


在学していたのは、1974年からの3年間。これは微妙な時期である。どう微妙かというのを説明するのが難しいが、大学紛争が60年代末以降終息していって、大学紛争から飛び火した高校紛争もほぼ沈静化していた時期。
60年代末から70年代初頭、主に都市部の高校で学園民主化などを求める紛争(というか闘争)は起こっていたようだ。旭丘も、県下では紛争の激しさで一、二を争う高校だった。
制服自由化闘争(自治会が勝って長い間私服黙認だった)とか卒業式粉砕闘争(日の丸・君が代反対)とかがあり、毎週のように全校集会が開かれ、大量のビラが撒かれ、職員会議は連日夜中まで続いた。
なんで自分の入学より何年も前の学校のそんな事情を知っていたかというと、父が長らく旭丘高校で教員をやっていたからである。
紛争の渦中で学校管理職サイドと生徒の間に立って動いたり、生徒にシンパシーを示したりした教員は、多くが紛争直後にいろいろな高校に移動になった。父も県内のかなり遠くの高校にとばされ、その数年後に私は旭丘高校に入学したのだった。


入学当初旭丘はまだかなり自由な校風で、自治会活動も活発だった。そして旭丘の卒業式はその当時も、「ヤジと怒号の飛び交う騒然とした卒業式」(飛ばすのはもちろん生徒)として毎年ニュースで放映されるくらいの荒れっぷりだった。父はテレビを見ながら「おお、今年もやっとるな。やったれやったれ」と笑っていた。
でも私は知っている。小6の時、父が家に持って帰ってきた生徒のビラに書かれていたことを(父は学校で余った答案用紙やビラを切って、メモ用紙の代わりにしていた)。
「現国教師大野は反米反帝を我々に啓蒙する「進歩派」であるが、アメリカ嫌いゆえにロックは理解しないという旧左翼であり‥‥」。だいたいそんなような内容だった。
小6だったが、そこに書かれていることについては何となく想像がついた。
お父さんはシンポ的な先生と思われているけど、ある生徒さん達にはほんとの味方とは思われてない。何だかんだ言ってもやっぱりあっち側の人間じゃないかと思われている。


父はいわゆるガチガチのオールドレフトであった。その頃大学生だった叔父(母の弟)が新左翼の活動家になり、家の居間で父と叔父が向き合って、ちゃぶ台をひっくり返さんばかりの大喧嘩をしているのも目撃した。
「なにぃ?ボクんらの作ってきたものを「すべてブチ壊す」だと!? よしそんじゃあボクは君と闘うぞ!闘ったるぞ徹底的にな!!!」(ばんばん!‥‥ちゃぶ台を叩く音)
「ああいいですよ!徹底的に闘おうじゃないですか!!! 」(ばん!)
「大声はやめて頂戴な、ご近所にまる聞こ‥‥」(母)
「おまえはだまってなさい!これは重要なことなんだ!思想の問題だ!そうだろマコトくん!!」
‥‥「シソウ」がちがってるから「タタカウ」んだねきっと。しょっちゅう父が政治や天皇制の話などをしていたので、そのくらいはわかった。だいたい1歳(1960年)の時父と母とメーデーのデモに鉢巻きで参加して、朝日新聞の社会面にデカデカと写真が載ってしまったという"前科"が既にある。
70年の万博も、「あれは帝国主義と資本主義の許し難い茶番劇なのだ」ということで、連れてってもらえなかった。名古屋に住んでいて大阪万博に行っていない子どもは、クラスで私一人。
でも私は父の「シソウ」を(というか父という人を)「正しい」と思い、不平は言わなかった。こうして高校に入る頃には、それなりの"サヨク体質"に育っていた。

「高校生叛乱共闘」

しかし私は、高校で自治会の執行部に入ったりその手の「活動」に加わることはなく、ただ頻繁に配られるガリ版刷りのビラを読んでただけだった。そこに書かれていることに興味がないではなかったが、自分が学び始めたばかりの美術とどう関係してくるのか、全然わからなかった。
全校集会で発言している普通科の私服の生徒達が、なんかカッコつけてて自信たっぷりに見え、「優等生がスカしてんじゃないよ」と心の中で悪口を言っていた。まあ少し眩しかったのだ。


高校にはクラブハウスがあり、私が入っていた文芸部の部屋の両隣は、新聞部と社会科学研究部(通称社研)。
部室にいるとよく、両隣から議論している声が聞こえてきた。社研の部屋からはたまに「ソーカツだよ、ソーカツ!」などという緊迫した声。ソーカツってなに。
部室の壁と天井の間に20センチほどの隙間が空いており、私は壁際の机の上に乗って、何事が起こっているのか?とその隙間から時々隣を覗いていた。よくビラを配っている上級生と執行部の生徒が激論してたり、見慣れぬ他校の生徒が口角泡を飛ばして喋っていたりした。


私が時々覗いていたのに気づいたのか、ある時、社研の部員で校内では「活動家」として知られる一年上のT君が、「これ読んどいて」とビラとパンフを渡しに来た。
ビラには「部落解放同盟」と書いてあり、狭山事件裁判の被告の無罪を訴えるものであった。手刷りのパンフをめくると、「高校生叛乱共闘」「東アジア反日武装戦線」「我々旭丘生は日帝の先兵となってはならない!」「人民を搾取する側に回るな!」といった言葉がカクカクした文字でぎっちり並んでいた。
変なものをもらってしまったと思いながら、夜、親に隠れて布団の中でそれを読んだ。難しい言葉が多過ぎて閉口したが、子どもの頃からの"サヨク体質"が反応して、大雑把なところを極めて感覚的に理解した。
そんな適当なことでいいのか? その手の本を全然読んでないのだから仕方がない。オールドレフトの子どもなのに、マルクスさえ知らなかったし。


なんとなく父と折り合いが悪くなった。
そもそも父は、私が学校の式で君が代を歌わないことは奨励したが、学校に私服で行くことは断じて許さないのである。セーラー服と詰め襟は軍服でしょ、お父さん軍国主義反対でしょとリクツを言っても、「それとこれとは別」とまったく聞く耳持たず。
「シンポ的なこと言ってるがほんとは味方じゃない」と思えてきた。


T君は、自分たち高校生と狭山裁判とはどう繋がっているのかを、こんこんと私に話した。喫茶店で延べ4時間くらい。
旭丘の普通科の生徒がほぼ100%進学する中で、彼は印刷所で働きながら政治活動を続けていくと決めている筋金入りの「高叛共闘」の人だった。全校集会で喋っていることはあまり理解できなかったが、その時の話はわりとわかりやすかった(ような気がした)。
で、結局私はあるデモに参加した。朝「今日デモに行く。遅くなります」と書いたメモを自室の机の上に置いて私服をバッグに隠して持って行って、放課後部室で着替えて、一人で教えられた集合場所に行った。
それは、メーデーみたいな平和なデモではなかった。
機動隊は出てるしパトカーや装甲車は出てるし、高校生なので顔の下半分はタオルで隠さなきゃいけないし、激しいジグザグ行進で胸が潰れそうになるし‥‥。スニーカーの紐がほどけて困ったなと思っていたら、隊列が止まった時、隣の男の子がサッとかがんで結び直してくれたのだけが、心温まるひとときだった。
やっと終わって解散となり、地下鉄の駅まで高校生らしい女の子と一緒に歩いた。
階段を降りる時、彼女が「もうタオル取らない?」と言った。その子はすごく華奢で、しかもタオルを取ったらかなり可愛くて頭が良さそうだった。お互い高校名と学年だけ教え合った。
最終を待つ地下鉄のホーム。「じゃあ気をつけてね」と言って同学年の彼女は、私と反対方向の地下鉄に乗って去っていった。


家に帰ると嵐のような説教が待っていた。
「そういう活動をやりたいなら今すぐ出て行け」と言われて頭にきたので出て行こうとしたら(って夜中に行くあてもないんだが)、母が泣き出し父にはぶん殴られた。頭を二発も。まあ予想はついていたことである。
で、デモや集会には二度と行きませんと約束させられた。「異議なし!」ばかり唱和している集会も疲れるだけのデモも、もう行く気はなかったので、それは別によかったけど。


ある日、部室で文芸部誌の原稿を書いていた私のところに、T君がまたパンフやビラを持ってきた。
天皇制とは」「日の丸・君が代問題」「旭丘卒業式粉砕闘争総括」。この資料を参考にして来たる卒業式粉砕闘争のための立て看の文章を書いてくれと言われた。なんか大変そうだったが、「書くと勉強になるよ」と言われ、文章ならまあいいかとつい引き受けてしまったのが、間違いの始まり。
二年生の三学期である。「ヤジと怒号」の中で執り行われる卒業式まで、あと一ヶ月あまり。
だいたい毎年自治会執行部が全校集会で生徒の意見をとりまとめ、「日の丸掲揚、君が代斉唱を無しに」という要望を学校側に出しているようだった。その執行部の配っている比較的穏健なビラとは別の、「日の丸・君が代断固阻止!卒業式粉砕!天皇制粉砕!」の最もカゲキな抗議文というか檄文を、学校で最もカゲキな集団を代表してこの私が書くことになってしまったのである。
参考にともらったビラやパンフをいくら読んでも、それは私の文章の言葉遣いとは違い過ぎて、全然うまく書けないので頭が痛くなった。

名前削除の屈辱

ものすごく苦労して一週間くらいかかって書いて、1000字くらいの文章をT君に渡した。檄文というより、やはり抗議文になった。
それを社研の人達で検討したようで、次の日「まあ初めてだから仕方ないけど、このへんがちょっと展開不十分」と書き直しを命じられた。「これ以上のこと書けない」と言うと、「じゃあこっちで直しとく」ということでかなり檄文調になったやつを返され、「悪いけど、立て看に書く作業してくれる?僕達これからジョーセン行かなきゃならないんで頼む」と言われた。
ジョーセンの意味が「情宣」=情報宣伝、つまりビラ撒きだということがわかったのは、だいぶん後だった。


部室でせっせと大きな立て看に字を書いた。角張ったアジビラ文字みたいのが書けないので、檄文は私のやや丸めの文字になった。文字は普通で内容は普通でないというアンバランス。
日が暮れた頃、差し入れを持って戻ってきたT君は立て看を見て少し可笑しそうな顔をしていたが、別に何も言わなかった。一番下に、連名の生徒5人ほどの名前を「有志」として書いた。最後は私の名前。
立て看は翌日の早朝、校舎の中央昇降口の壁の前に据え付けられた。


その日。学校帰りにデッサン塾に行って帰宅した私は、玄関先で待っていた父にえらい剣幕で怒鳴りつけられた。
学校から電話がかかってきたのである。電話してきたのは父の元同僚で、今では教頭補佐。「先生のお嬢さんの名前があったんですけどねえ」と、どういうカゲキな内容でカゲキな集団かもコト細かに報告されたらしい。それで、電話口でただひたすら謝るしかなかったらしい。
父はもう頭から湯気が出そうなくらい、激怒していた。そして今まで聞いたことのない悲鳴に近いような声で怒鳴り散らした。
「あいつ(電話してきた教頭補佐のこと)は昔の紛争の時何もやらんかった管理職の犬なんだぞ!け、権力の手先なんだぞ!お父さんがどおゆう気持ちで頭を下げたと思う!ええ?! サキコ!おおおまえはお父さんの面目を、丸つぶれにしたんだぞ!! 」
‥‥‥お父さん、日の丸・君が代反対じゃなかったの?天皇制反対じゃ?言論は自由だよ、たかが立て看じゃん、デモでつかまったわけじゃないじゃん‥‥。
「犬」に下げたくない頭を下げてしまった父の震える口元を見ていたら、そうしたあらゆるリクツが喉に詰まって何も言えなくなってしまった。


「 明日朝一で行って名前を消しなさい。 ちゃんと消したかどうか、仕事に行く途中回って見に行くからな。いいか、消してなかったら教室まで呼びに行くぞ」
出て行けと言われた時よりつらい。自分が書いた立て看なのに名前を消さねばならないとは、なんというザマであろう。
明日が永遠に来なければいいと思ったが朝は無情にも来てしまい、こんな場面は誰にも見られたくないので校門が開くと同時に校内に入り、父に渡された極太の黒マジックで自分の名前をコソコソと塗りつぶし、誰もやってこないうちに部室に行って一時間目まで隠れていた。
一時間目の後、教室にT君が来た。
「どうしたの、あれ」
「親のこと知ってる○○から家に通報がきて‥‥名前消さないと許さんって言われた」
「ちぇっ、汚ねえ手使うなあ」
しかしどうしようもない。親掛かりの身では何をやってもだめだ。
といって、T君みたいに高校出て「活動」するような覚悟も意志もないし、親と対決する勇気もない。大学はどうしても行きたかった。美術をやめる気も(その頃は)毛頭なかった。
T君はまだ何かいろいろ言ってきたが、私はもうほとんど聞いてなかった。それでついに彼も「見込みなし」と諦めて寄ってこなくなった。


父は、私の行動に始終目を光らせていた。何時に帰宅するか毎日報告せねばならず、ちょっと遅れると何をしていたのか問い質される。家にいる時も何かと監視。
そんな中で、問題の卒業式の日が迫ってきた。
毎年荒れるので、確か在校生は講堂の中に入れないことになっていた。だから講堂の外から先輩たちを応援するのである。講堂の中でも騒然、外でも騒然(と、ずっと前から父に聞かされていた)。
行きたくてたまらなかったが、当日は家から一歩たりとも出してもらえず、テレビのニュースでその模様を見た。
「県立旭丘高校の卒業式は、今年も「一部の」生徒のヤジと怒号が飛び交う中、混乱の内に終わりました」。拳を突き出して何か叫んでいるT君がアップで3秒くらい映っていた。


「活動」していた人たちがほとんど卒業し、校長が替わって管理が厳しくなり、学園民主化とか「卒業式粉砕」なんかどうでもいいという生徒が増え、また一年経って私もとうとう卒業式を迎えた。
君が代斉唱」という声がかかると、担任に釘を刺されていた美術科の生徒は全員立った。普通科でも半分近くが立ち上がった。*1「みんな立つなー」「おーい座れー」「ヤメろ」「ナンセンス」という言葉が座っている生徒達から上がり、にわかにザワザワとなる。そんな中で式は粛々と進行した。
私は下を向いて座っていた。美術科の列は一番端にあり、壁際にズラリと並んだ先生達の視線が痛かった。ああ早く終わってくれ。
「校歌斉唱」でやっと全員が立って合唱した。


旭丘高校の卒業式はそれから加速度的に穏やかになっていったようで、80年代には服装の自由化も廃止され、一律制服に戻ったと新聞で読んだ。*2
父は相変わらずガチガチのオールドレフトだが、娘に対するあまり一貫性のない態度は変わらない。
大学受験時は「私大はダメだ。私腹を肥やしてる資本家にやる金などない」と国立一本しか受けさせてくれなかったのに、私大の非常勤をしている私に今は、「おまえは常勤にはなれんのか」と何度も訊くのである。



1960年のメーデー、デモ行進。愛知県高校教職員組合の隊列にいる、父に抱かれた1歳の私。横にいるのは母。

*1:追記:「こんなに立つんだ」という印象があったのでそう書いたが、今思うともっと少なかったかもしれない。何しろ周囲の級友が立っている隙間からちらっと見ただけだから。記憶っていい加減。

*2:追記:wikiで調べたら今は服装自由のようである。