三万円くれたら

時々行く地元の和食屋さんで、たまに会うおじさんがいる。40代半ばから後半くらい。まあ私と同世代といったところ。いつも一人で来てお酒飲んでいるか、出勤前の女の人と同伴で来ている。
こないだ夫とその店のカウンターで飲んでいたら、おじさんが少年を二人連れて入って来た。高校二年の長男と中学二年の次男だという。夫の話では、最近時々連れてきているらしい。家族連れが来ないではない店だが、父親と年頃の息子二人というのは珍しい。彼らもカウンターに座ったので、私はずっと観察していた。


高二の長男はジャニーズの山下くんみたいなヘアスタイルをしていて、いかにも今風な男の子。親父の行きつけの店に行くってんでオシャレしてきたのか、黒いテーラードジャケットの襟の上にデカいシャツの襟を出して着ているのが、今いちダサい。
慣れた顔つきでネタの並んだケースの中を見ながら、「これ、どうやって食べるの?」などと板さんに訊いている。小生意気なガキだ。板さんは「今うまいもん作ってやるから待っとれやニイちゃん」と笑っている。
「俺、ネギトロ食いてえな」。やっぱりコドモだ。
「こいつらにオレンジジュース出したって」と父親が言うと、長男はちょっと口を尖らせた。
「僕もネギトロ丼」と次男が言った。中二なので三歳上のニイちゃんよりさすがに幼く、キョトキョトしている。


おじさんは隣の夫と世間話を始めた。
ニイちゃんが携帯に没頭しているので、弟は手持ち無沙汰な顔で大人の話に耳を傾けていた。あまりお父さんには似ていない女の子みたいな顔をしているなあと思っていたら、おじさんが急に「こいつ、顔似てると思う?」と訊いてきた。あまり似てませんねと言うのも失礼な気がして、「ええ目のへんが」と言うと、次男は「やだなあ」と言った。
「母さん似がよかったよ。スポーツ万能で勉強もできたんだよ」
そう、きっとあなたはお母さん似なんでしょ、知らないけど。
ネギトロ丼が来て、次男は美味そうに食べ出した。私達がツマミに食べていたフナ味噌を、夫が「これ、ちょっと食ってみ」と少しその丼に載せた。彼は一口食べて微妙な顔をした。大人の味は舌に合わなかったらしい。
夫が魚についてのちょっとした講釈を垂れると、彼が予備校講師だということを父親に聞いて知っているらしい次男は、「すごいな、塾の先生って頭いいんだ。何でも知ってるんだ」と言った。きっと社交辞令のつもりだろう。


「おまえなあ、中二にもなっていつも親父の後にくっついとってはいかんぞ」と、若者をからかいたくてたまらない夫は言った。
すると彼は、つるんとした眉間にちょっと皺を寄せて言い放った。
「三万円くれたら、いつでも家出てってやるよ」
思わずどっと笑う大人達。
「三万円?おい、せめて三百万って言えよ」
「三万円じゃアパートも借りれんぞ(笑)」
彼はすごく決まり悪そうな顔になった。


中二にしたら、三万円は大金である。
三万円くれたら出てってやる。
親父の店について来て、よそのオヤジにちょっかい出されて、大人の前で精一杯の強がりを言ってみたのに、失笑されてしまった。悔しいだろうね。
兄貴の方はタバコを吹かしながら、板さんに「俺あと一年で卒業だからさあ、出たらバンバン金稼ぐんだよ。何して稼ごかな〜」などと言っている。
「がんばってくれやニイちゃん」
夫は私に「あいつはオヤジの会社潰しそうだな」と呟いた。


一時間ほどして弟が、「眠たくなってきた」と言うと、おじさんは板さんに「タクシー二台呼んで」と言った。‥‥二台? 
タクシーが来るとおじさんは、次男に「先に寝とれな」と言い、もう一台に長男と二人で乗ってどこかへ行った。
「なにあれ、どういうこと?」
夫に尋ねるとこういう話であった。


おじさんは中小企業の社長で、バツイチである。全然家庭を顧みず女遊びばかりしていたので、何年か前に奥さんが出て行ってしまった。その後もおじさんは結構遊んでいるらしいが、子どもが年頃になり、長男は親を真似てか夜遊びばかりするようになってしまった。
それで、親の目の届かないところで悪い仲間とつるんでいるよりはマシだろうということで、自分の行きつけの店に時々連れてきているのである。そして次男だけ先に帰し、長男はこの後カラオケスナックに連れていくのである。
「あの人酒飲みの遊び人だからさ、息子を連れていくのも自分の行く店なんだよ。まあ女のいるところには連れていかんだろうがな。そういうふうにしかやれん人なの」


三万円じゃなくて三百万円くれたら出てってやるよ。
中二の男の子は今頃タクシーの中でそう思っているんだろか、と思った。