三月の兎

受験狂騒

春は木や草が芽吹き日差しが暖かくなって、何とはなしに心浮き立つ時期である。しかし受験生やその関係者にとっては、一喜一憂するシーズン。
大学卒業後から三十代の半ば頃まで、名古屋の美術系予備校K塾で実技の講師として働いていた期間、やはり春は心休まらないシーズンだった。予備校から離れて十年経ったいまだに、桜の蕾を見たり沈丁花の香りを嗅いだりすると、その当時の"狂騒"感情が喚起されるくらいだ。


学科の講師の仕事と、美術系のそれとはベクトルが少々異なっている。
学科は一人でワンステージだから授業のプレッシャーは大きい分、受験生の合否が直接自分に跳ね返ってくることはない。
美大系の授業は講義とは違うが、実技入試(大抵一次がデッサン、二次が洋画、日本画、彫刻、デザインなどの専門実技)でほぼ合否が決まるので、指導してきた側のプレッシャーは大きい。自分の担当学生の合否報告を待っている間は、胃潰瘍になりそうな気分。
学科試験だと、数学は失敗したが英語で挽回したとか、一問目は解けなかったが後はうまくいったとかいうふうに、配分ができる。しかし実技は、なかなかそういう具合にいかないのが困る。
たとえば石膏デッサンで、ビーナスの胴体は完璧に描けたが顔だけ半分描き‥‥では、全部ヤバい。全体的にバランスよくできていることが求められる。会場のくじ引きで、たまたま不得意なアングルに当たってしまったり、たまたま苦手な石膏像だったりということでも、差がついてくる。


本当に実力があれば、何が出てもどんな場所でも描けるのでは? 
しかしどんな人でも得手不得手があるものだ。現役だと、隣の人があまりにも上手くて気後れしたとか、後ろの奴が描いている木炭をバキバキ折るので気になって集中できなかったとかの、些細なことで総崩れしてしまうこともある。つまり現場度胸みたいなものがかなり要求される。
音楽の試験など、美術以上に度胸と落ち着きが重要だろう。デッサンなら描いている途中でいくら躓いても、頑張って時間内に挽回すればいいが、音楽だとミスタッチはそのままミスタッチとしてカウントされてしまう。
学科試験は答えが決まっているので、何点くらいとれたか目安はつくものである。
ところが芸術系はそれがつきにくい。出来は、描いた本人にすらわからないことがある。いい線行ったと踏んでいたのに落ちて、失敗したと思っていて受かることがある。いや、後者はあまりないが、前者はしばしば。
つまり究極的には、採点者にしか本当のところはわからないのである。ABCなどの段階評価で判定されるが、上手く描けていても魅力がないとか、浪人ズレしているとか、アクが強過ぎるとか、予備校のクセが出過ぎているとか、様々な理由で落とされる。


美術系予備校のどこの科にも大抵、「あんなに上手いのになぜか落ちてしまう、もう三浪の人」がいた。私自身の予備校時代まで遡ると一浪は当然、二浪はまあ普通、三浪もゴロゴロいて、中には九浪して芸大に入った(途中他の私大に数年通っているが)人までいた。
そこまでして行かなきゃいかんものか? そういうものではない。それはもう執念。というか、どう見ても東京芸大至上主義のせいである。
特に東京の予備校では、「芸大」と言ったら京都芸大でも大阪芸大でも愛知芸大でも沖縄芸大でもなく、東京芸大
わざわざ「東京」なんてつけなくても決まってるでしょという、まるで「大学」と言ったら東大を指すんでしょと言っているにも似たような、非常に鼻持ちならない雰囲気があった。
そして地方から上京して予備校に入ってきた者に、東京の受験生がまず言うのは「田舎、どこ?」。東京以外は田舎なのである。
あのね、名古屋は田舎じゃないよ、まあ偉大なる田舎とは言われているけども、といちいち心の中で反論していた。


当時は、一浪ごときで私大の滑り止めを受けるなど、ちょっと生意気だと思われていた。芸大一本で落ちたら二浪。
そういうところに何年もいたら、かなり視野狭窄するのではないかと思う。しかし最近は、どこの予備校もあまり多浪生はいないようだ。そこまでの芸大至上主義でもなくなったか、そもそもそんなに子どもの受験に何年もお金をかけられる家もなくなったのか。
せめて一浪くらいで片付いてもらわないと、出資する親も大変である。

ホテル対策

一般予備校と同様、有名美大に毎年何人送り込んだかということが、美術系予備校のウリである。
名古屋だと愛知芸大に何人ということになるが、やはり東京志向は強い。K塾は東京校もあったが、予備校激戦区だけあって苦戦を強いられていた。地方にあって、東京の強豪予備校と張り合わねばならないとなるともっと厳しい。
名古屋校の彫刻科は、その頃三十人から四十人前後の学生に東京芸大を受験させていた。受かるのは数人である。


一次(二日間)の試験があり、一日か二日後に一次発表、翌日から二次試験(二日間)というスケジュールだった。
一年みっちりやってきたので、入試が始まったら生徒の頑張りにすべて任せる。もう充分に指導はした。あとは君達の実力と度胸次第、健闘を祈る。果報は寝て待ってるよ。
‥‥と、ゆったり構えていられればいいのだが、そうはいかない。試験日の前日夜までデッサン指導して東京に送り出した翌日(一次の一日目)、昼の12時過ぎにK塾彫刻科受験生代表の浪人生から電話がかかってくるのを、講師一同教官室でじっと待つ。
トゥルルルル、カチャ、
「先生、ド、ドレイのトルソでした!」
「ドレイか。一部屋何体?」「四体です!」
「列は二列だな?」
「そーです!」
「わかった、ご苦労さん。で、おまえの出だしの調子は?」
「えと、まあまあってとこです」
「よし、午後も頑張れよ!」
「ハイッ」ガチャ。
「ドレイ全部で何体ある?」
「たしか四体」
「じゃあ二体持っていくか」
「あのでっかいの二つも担いで新幹線乗るんですか?うへえ‥‥」
「しょうがないだろう。おまえら若いんだから働け」
「東京校に借りたら?」
「向こうだって使うよ」
「でも二体じゃ対策できないな」
「どうしよう、もうこの際だから‥‥」
「四体でいこう!四体担いで東京行くぞ!」


どういうことか説明します。
名古屋から送り出した受験生はほぼ全員、芸大の裏手の池之端のホテルに宿泊を取らせている。そこに講師が行って、ホテルの部屋で、デッサン一日目の夜、二日目に向けてのアドバイスをするのである。
アドバイスするのに、試験に出た石膏像が必要となる。普通はそんなものはトラックで運ぶのだが、それだと一日目を終えて戻ってきた受験生より、ホテルに着くのが遅れてしまう。
それで若い講師数人が25キロはあるかさばる石膏像(エアパッキンで包んである)を担ぎ、彼らの手荷物と参考デッサン作品を年増の講師が持って、ぞろぞろ7人くらいで、新幹線乗って出向くのだ。一体どういう一行かと不審の目で見られながらの東京行き。


夕方ホテルで待っていると、受験生が続々と帰ってくる。浪人生はだいたい落ち着いているが、現役は浮き足だっている。
ロビーに駆け込みざま、「先生どうしよう、構図まちがえちゃった、ああんどうしよう」と泣き出さんばかりの声を上げる受験生や、いきなりガッツポーズで入ってくる受験生。何事かという顔の他の泊まり客。ロビーの隅にでっかい石膏像はいくつもあるし。どこでも不審の目で見られる一行である。


ホテルの部屋はアトリエと違って、狭くて薄暗い。夜なので自然光もない。
まずベッドを壁際に立てて場所を作り、デスクの上に石膏像を据え、スタンドの傘をとって会場と似た陰影ができるように調整。
三部屋に分かれた講師が、グループ分けした学生の部屋に順番に電話をかけて一人づつ呼び出し、スケッチブックにざっと描かせた今日のシゴトを見て話を訊き、アドバイス
だいたい第一声と顔色で、うまく行っているかどうかわかる。ガッツポーズしてたからってうまくいっているとは限らない。ただ躁状態になっているだけのことが多い。


もう半分終わっている状態でアドバイスなどしても、あまり効果はないのではないかと思われるかもしれないが、やっておくに越したことはないのである。全然やらないよりやった方がいいかもしれないことは、何でもやるのが予備校講師の務め。
泣きそうな子には自信をつけさせ、浮き足立った奴は落ち着かせ、今日のミスを明日の四時間でいかに挽回するか、どこにポイントを置いて仕上げるかなどのアドバイスを十数人に三時間近く。
終わりの方になると、一人の学生が部屋から出たとたんベッドに倒れ込みたくなったりするが、ベッド立ててるのでそれもできない。


やっと終わったと思って部屋の外に出てみると、廊下の隅に置いた石膏像を食い入るように見ている浪人生がいる。
講師達が遅い食事に出かけて帰ってきても、まだ見ている。「そろそろ寝ろよ」と言いそうになる若手講師に、年増講師が「ほっといてやれ」。
もう僕には後がないんだよ。これで落ちたら後がない。あと一浪させてくれなんて、親に言うのは無理。と、その浪人生の背中には書いてある。

浪人してみろ

芸大の一次の倍率が異常に高いのは、いわゆる記念受験も多いからだと言われているが、よくは知らない。ただ予備校の中で言えば、万が一に賭けて受ける(受けさせる)というケースは結構あった。
「受かりそうな私大だけでいいです」なんて志の低いのはダメとされる(今はどうか知らない)。一年間同じクラスなので、そのクラスの雰囲気をどこまで「上昇志向」に持っていくかということが、合格実績に跳ね返ってくるのである。
美大は皆同じような大学を受けるから、同じ予備校の生徒でなくても、あそこで見た奴がここにも受けに来ているとわかることがある。去年いた奴がまたいるなとか。
一次で隣で描いていた人が二次でいるかいないかも、すぐわかる。私は現役の時、回りにいる人が皆浪人生に見えて内心ビビった。後ろで描いていた女の人なんか、ものすごくうまいなと思った。
しかし二次試験にその人は来なかった。「なあんだ、私あの人より良かったんだ」と慢心していたら、最終で自分も落ちた。


さて、一次が終わると全員受験生は名古屋に戻り、二次対策をしながら一次の発表を待つ。彼らにとってもこちらにとっても、一番嫌な時間。
デッサンがうまくいった自信のある学生は、さっさと心棒を作りバシバシ粘土をつけて二次試験に向かって頑張っているが、希望がないと自分でわかっている学生はやる気になれないのが一目でわかる。でもチンタラしていると「がっかりするのは発表を聞いてからだ」と叱られるので、やらざるを得ない。
講師も心情的には、望みのありそうな生徒の指導に熱を入れたくなるものである。しかしそうすると、自信のない生徒はますますやる気を無くすので、まんべんなく熱を入れねばならない。
万が一そいつが受かっていないとも限らないし。


一次に残るのは、だいたいクラスの四分の一以下。悪い時は、ほんの数人。これを全員の前で発表する時が、またつらい(発表するのは主任なので私は後ろで学生を見ているだけだが)。特に、もう後がない多浪生が漏れていたりすると気が重い。
全員シーンとなっているアトリエの中で読み上げられる受験番号。受かっていてもそれを態度に出すと、また講師に叱られる。「喜ぶのは最終の結果が出てからだ」。


もちろん二次の塑像対策はいくら何でもホテルではできないので、K塾東京校で東京の受験生と一緒にやるのだが、やはり名古屋の講師は数人行くのである。一次合格者をなんとしてでも最終合格にねじ込むためには、最後の最後までつきあわねばならぬということで。
東京二次の受験生より行った講師の数が多いくらいの時もあった。それで落ちていたら、あれだけ新幹線代とホテル代を出させて、何をやっていたのかということになってしまうので、責任重大。


彫刻の二次試験は一部屋12人くらいなので、この中から誰が残るんだろう?と思わざるをえない。
一つのモチーフを4人が囲んだりする場合、嫌でも他の3人の進行状況が目に入ってくる。人の前を横切ってモチーフに近づく人がいると、キッと睨まれる。もう火花が飛び交う感じだ。
最初の粘土のつけ方が甘くて、終わりの方でドサッと下半分落ちてしまったり、心棒が粘土から突き出てしまったりすることも、ごくたまにはある。それが他人の失敗なら、内心「うわ、可哀相。でもこれで競争相手が一人減った」。
こういう経験は一生に二回くらいで済ませたいものである。


こうして東京方面の試験も地元の試験も終わり、最終合格発表を待つまでの間にも、仕事はある。
滑り止めの私大に合格していて、芸大に望みを繋いでいる学生をどうするかということ。芸大の発表の前に、私大の入学手続きをしないといけなかったりするのだ。
芸大が受かっていれば、私大に払った入学金は捨て銭になるが、落ちていれば私大に行くことになる。しかし実力はじゅうぶん合格ラインに達していると見られている場合、落ちても滑り止めには行ってほしくない。なぜなら次の年のクラスの「上昇志向」作り、ひいては実績作りに、彼の存在が大きいからである。
それで「もし芸大がダメだったら、もう一年頑張って再挑戦してみろ」と言う。つまり、私大の入学金は払わないで蹴ってしまえと。
もちろん来年絶対受かるという「保証」はない。生徒もギャンブルかもしれないとわかっている。
しかし先生もそこまで言ってることだし、私大四年間の授業料を国公立と比べたら雲泥の差だし、一浪くらい普通だし、あいつに負けたのも悔しいし‥‥‥というわけで、本人もその親もその気になり、また一年受験生活をやるのである。


それで次の年受からなかったらどうしてくれるのか?去年私大に行ってればよかったじゃん、ということになろう。だから浪人を勧めた講師も必死である。重い石膏像担いで東京まで行くくらい、どうってことはないという話なのだ。
あの季節、周囲の誰もが三月の兎であった(三月の兎は発情期で気が狂ったように走り回るので、"気違い"として「不思議の国のアリス」にも出て来る)。