スーツへの視線

賛否両論

『メガネ男子』に続いて『スーツ男子』なんて本も出て、男子のビジュアルへの女子の嗜好が注目されるようになった昨今。
男のスーツ姿がいいというのは、かつて酒井順子も熱く語っていた。メガネもスーツもある種の拘束性や、型を感じさせる。型の中に押し込められて初めて出てくる男のフェロモン、てとこだ。
メガネは度の入っていない伊達メガネもあるが、基本はあくまで実質的な身体機能に関わるアイテム。
しかしスーツは? スーツスタイルこそは機能から逸脱した「型」そのものだから、眼鏡より一層「型に押し込められたがゆえの男のフェロモン」も滲み出てくるだろう、理屈として。


もちろん女のスーツ姿というのもある。これが好きな男も結構いるのは、白衣や制服同様、型に押し込められて出てくる何かがそこにあるからだ。女子大生のリクルートスーツのぎこちない着こなしがいい、などと言う男もいる。
今の女子の流行のファッションは、下着みたいなキャミとかヘソ出しジーンズとかテロテロしたワンピとか、やたら「女」を強調したものが多いので、そういうのに食傷気味の男は、リクルートスーツ姿の女子の一歩引いた、ほのかにダサい佇まいに惹かれるのだ。
その萌えは、「型」と、そこに無理に合わせようとしている身体や心とのズレを感じ取ることからも生まれる。
リクルート女子の、拘束衣にまだなじめないとまどい、密かな反発、仕方ないという諦め、微妙に被虐的な服従感覚、次々不採用の通知を受け取り、足を棒にして次の会社に向かう疲れと苛立ちと緊張感、汗でブラウスが背中に張り付いて気持ち悪いわ、化粧も崩れてきたし‥‥そういうさまざまなものを瞬時に感じ取り、男は萌える。
「初々しくていい」などという美辞麗句でごまかしたりするが、本当はそういうことである。
って、あたかも男の心理を見透かしているかのような分析をしているが、私が男だったらそう思うだろうなということで言ってみた。


で、女の「スーツ男子」萌えにも似たようなところはあるのだが、スーツはもともと男の衣装だったから、やはり「男らしさ」の象徴として見る向きは強い。
酒井順子が強調していたのも、鍛えられた逆三角形の身体を上等な仕立ての直線的なスーツに包んでいる男性の、「男ならでは」のストイックな魅力であった。『スーツ男子』のコンセプトもほぼ同じ。
そこでステキと言われているのは、決して腹の出たオッサンのくたびれた背広姿や、疲れた営業マンのアオキでイチキュッパ(替えズボン付き)のスーツ姿ではない。


スーツはサラリーマンの制服ということで、かつては「ドブネズミ」などとからかわれた(自虐もあった)。汚れの目立たないグレーのスーツ姿のサラリーマンが多かったからである。
ネクタイなども「あんなもので首を締めて。犬の首輪だ」などと言われたものである。毎日のようにスーツを着、ネクタイで首を括っている男は、会社(社会)の歯車であり奴隷であり犬。
そういう見方をしていたのは、主に全共闘世代の男であった。
それもスーツもネクタイもしなくていい自由業なり、社会的立ち位置を取ってきた男。
「社会の歯車になるな」という青年の主張をそのまま持ち続けて大人になり、歯車にならざるを得なかったサラリーマンスーツの男達を「体制に寝返った裏切り者」「権力の犬」と看做して、揶揄の視線で見てきたような男である。


じゃあそういうアンチ・スーツ派の男のファッションがどうかというと、これが全然なってないことがしばしばだ。
どこにでもゲタ穿きで来たり、中途半端な長髪にバンダナ巻いていたり、やたらハデなTシャツを着ていたり、ケミカルウォッシュのジーンズの上下だったり、バカの一つ覚えのように首に安物のインドなスカーフを巻いていたり、場違いなアウトドアファッションだったり‥‥。
ファッションより大事なことに心血を注いできて、センスを磨くことも磨こうと思う暇もなかったとかいうなら、まだ許せる。また本当に独自な生き方をしていて、それが自然と独特のファッションに現れているというなら、文句はつけない。
そうじゃなくて、そういう「自由」で「個性的」な格好を、「サラリーマン社会なんかからはドロップアウトした反体制者」のチンケな自己主張としてだけしているように見えるから、引くのである。


そしてそういう人が、大きく見れば自分も歯車化しているかもしれないことは棚に上げ、スーツにネクタイであくせく働いているサラリーマンを小馬鹿にするような物言いをしたりすると、私は軽い殺意すら覚える。
エラそうなこと言う前にな、その青年の主張から一歩も出てないイタいカッコを何とかしろ。

型の強み

私は、男のスーツ姿が特別好きなわけではない。メガネ男子フェチじゃないように、スーツ男子フェチでもない。上等なスーツを見ればそれを欲しくなる男の気持ちはわかるし、似合っていればカッコいいなと思うくらいだ。


夫も昔はスーツなんか着ない男だった。予備校講師という職業だからかもしれないが、最初に会った時は本当にいい加減な格好をしていた。これだと学生の第一印象がどうかと思うくらい、おしゃれに無頓着。
それがある時ファッションもそれなりに重要だということに気づき、カジュアルなおしゃれは難しそうなので、手堅くコンサバ路線をとった。
とったのはいいが、最初のうちは、よく変な組み合わせで出て行こうとする時があった。
「それ、ちょっと合わないんじゃない?」
「なんで」
「だってそのシャツにそのネクタイは浮いてるよ」
「じゃあどれが合うんだ」
「これは?」
「それは先週のこの授業でした」
「じゃあこれは?」
「それもう飽きた」
「いっそこっちは?」
「そんなん合うか?」
「じゃ好きにすれば」
「くそう‥‥なんでこれがいかんのだ、ちゃんとローテーション組んでるんだ俺はブツブツ」


ある日、駅の売店で、ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」のわんちゃんの絵柄のパクリが、深紅の地に散っている派手でファンキーな安ネクタイを見つけ、シャレの通じるパーティなんかでするのがいいんじゃないかと思って、夫に買ってきた。
そしたら少し後、そのネクタイをして仕事から帰ってきてびっくり。
「ちょっと! 授業にそれしてったの?」
「いかんのか」
うーん‥‥どうかと思うね。そのネクタイだと、何を喋っても冗談かまやかしに聞こえてしまいそう。お笑い芸人や怪しいマジシャンだったらいいかもしれないが。
そういうことを経て、最近の一時期は懇意になった服屋のお兄さんに勧められるまま、ホイホイとジャケットやシャツなどを作っていた。
もっとも夫は腹の出たおっさんなので、何を着ても「お!」というわけにはいかない。しかしそこがかえってお兄さんのプロ根性を刺激するらしく、
「センセイみたいな人は、ちょっとこういうのを着てみて下さい。これ、これですよーオシャレなのは」
などと言われて、夫もまんざらではない様子。着せ甲斐は今いちだが、馬子にも衣装でそれなりに売り甲斐のある客ということであろう。


かつて私がいた美術の世界では、やはりスーツ男子はほぼ皆無だった。アーティストらしくいかにもラフな(貧乏な)格好、もしくは保守的ではないコジャレた格好というのを、なんとなく皆していたように思う。
仮にネクタイしたとしても、現代美術な若い作家はモッズ風だったりパンク風だったりと、ひとヒネリが入る。どこか「不良」エッセンスがないと、というわけで。当時の音楽方面では、トーキング・ヘッズデヴィッド・バーンのぶかぶかスーツが話題だった。
そこに登場したのが、発光ダイオードのデジタルカウンター作品(電光掲示板風の数字が1から9までカウントされていくのがいっぱいあるやつ)で一躍有名になった宮島達男である。
彼は正統派のスーツに白いシャツにネクタイ姿で、80年代の終わりに華々しくデビューした。しかも黒ぶち眼鏡。見かけほとんど丸の内のビジネスマンか官僚。アーティストのイメージとは程遠い優等生スタイルだった。
「狙ったねえ‥‥」
BTに掲載された宮島の写真を見て、私は呟いたものである。
それ以降、国際的日本人若手アーティストの名をほしいままにした宮島だが、今に至るまでパブリックな写真ではそのビジネスマンスタイルを崩していない。
そう言えばトレードマークとなった数字の作品についても、「あと10年はこれでいける」と本人自ら語っていた。作品もファッションも、10年以上路線が変わっていない。執念のように。


スタイルを一貫して崩さない、というスタンスは、「男らしい」とよく言われる。頑固一徹、この道○十年というのも、なんか「漢(おとこ)」な感じ。
軸がぶれない、ちょっとやそっとのことに動じない、スタンドプレーはしないが実力は折り紙つき、クールで寡黙。
そういうイメージに、型の決まった男のスーツは適している。かつて「ドブネズミ」とか「犬」とか言われたマイナスイメージも、もはやない。どころか女子の「萌え」対象。


何でもありの自由さ、規則のない野放図さにフェティシズムは生まれないのである。個性とは常に「型」からの距離の取り方で測られる。真に個性的で真に自由であることが難しいように、個性的で自由なファッションというものももはや幻想。
スーツを「保守的」の一言で切り捨ててきた人は今、「型」の強みというものをしみじみと思い知らされているだろう。