おばあさんの体

筋肉痛

五日ほど前のこと、朝起きたら体の約70%の筋肉がヒステリーを起こしていた。腕と首以外の筋肉が強度の筋肉痛。
特にかがむ、座る、階段を降りるという所作の時は、「あたー、あたたたたた‥‥」というケンシロウのようなセリフ(声は弱々しい)を発しつつ、いつもの三倍くらいの時間をかけないと行為が遂行できない。トイレの時は要介護なくらい大変。
すべては、前日にジムでがんばり過ぎたせい。


ここのところ、25キロのスクワット(バーを肩に担いだ屈伸運動)とベンチプレス(仰向きに寝てバーを上げ下げする)をやっていたが、それに加えて初めて、40キロのバーを連続して腿のところまで持ち上げるやつ(何て言うのか忘れた‥‥デッドリフトか)を限界までやった。ほんとはあまり限界までやりたくないのだが、トレーナーの人が厳しいのだ。
私の前にやっていた女性など、一通りやり終えたところでトレーナーに、
「もうそれが限界?」
と訊かれ、
「まだできますけど」と言ったら、
「じゃあ今なんでやめたの?」
とツッコまれていた。
やってる最中は、10回できたらやめようなどと思ってやったりするものだが、
「10回やったらヤメなんて決めていてはダメ」
とこちらの魂胆を見抜かれ牽制される。


ジムに行き始めたのは去年の11月。自主的にランニングなどということは性格上絶対にムリなので、好きなスーパー銭湯に行くお金をそっちに回して始めた。
ずっと機械のトレーニングだけだと思っていたら、今では重量挙げの人の練習みたいなことになっている。御陰でひどい肩こりがすっかりとれたのと、疲れにくくなったのはよかったものの、体重が減らない(むしろ増えた)ので中途半端でやめるわけにはいかない。


というか、もう減量は諦めて、もっぱら体力作りに重点を置いているのが実情。今から鍛えておいたら、たぶん10年後とか20年後の体力が違ってくるだろうということで。
年をとって体力がなくなり、思うように動けないという事態が来るのが私は怖い。貧乏で「弱者」になるのはある程度(あくまである程度)までは耐えられるが、体力的に「弱者」に転落するのは怖い。少しでもその時期を遅らせたいと思う。


私の年齢(47)だと、これからそろそろ親の介護問題が出て来る。それも四人分。一人で抱え込むわけではない(そんなことできない)が、体力はあったに越したことはない。
災害に遭う可能性もある。特に東海沖大地震。基礎体力があれば、瓦礫の下になっても少しは生き延びられるかもしれない。柱の下敷きになった夫とか犬とかを助け出さねばならないかもしれないし。
そういう時に40キロや50キロ簡単に持ち上げられないと困る。シェイプアップして洋服をきれいに着こなしたい、なんてことよりずっと切実な問題である(私にとっては)。


今はもっぱらそういう危機感をバネにしてジムに通っているわけだが、がんばり過ぎたので一時的に老体となってしまった。
いつもの体ではないので、仕事に行くのに早めに家を出た。おばあさんのようにトボトボと駅の構内を歩く。大股でサッサと歩けないので狭い歩幅。
階段が大変だ。人中で「あたー」は言いたくない。ほんとのおばあさんなら手すりにすがって一歩一歩降りてもいいが、そこまでは人目が気になってできないので歯を食いしばってゆっくり降りた。


専門学校に着くと、三階までの階段の上り下りが地獄のよう。デッサン指導では学生の椅子に座るので、いちいち腰と腿が痛い。たぶん「なんか今日は先生、動作がゆっくり」と思われたはずだ。足を引きずってまたトボトボと帰ってきた。
サッサと歩けない、トボトボとしか歩けないというのは、実に悲しいものである。首が自然にうなだれる。筋肉のヒステリーは2日続いてやっと収まった。

貧困+老い+孤独

現代美術のアーティストで、ホームレスのおばあさんになって数ヶ月過ごすという実験をした女性(名前失念)がいた。
体からおばあさんになるために、わざと視野がボケて見えるような眼鏡をかけ、外から見えないように体に錘をつけたという。錘をつければ体力は奪われ行動は制限される。外見もいかにも家のない薄汚れたおばあさんに扮した。
そしてかなり危険な目に晒されながら、密かにビデオを撮り続けた。底辺の弱者から見た世界がどういうものか、底辺の弱者を見る人々の目がどういうものかを示すために。


私はその作品を雑誌で断片的にしか見ていないが、それが健常な人から見た世界とはまったく異なるだろうことは想像できる。
想像できるけれども、誰も自分がいつかそういう立場に立つかもしれないという想像までは、なかなかできない。
そのアーティストはまだ30代だったと思うが、貧しい老婆になりきっただけでなく、その立場を体を張ってリアルに実感してみようと試みたところが、それをアートと言うかどうかは措いといて興味深い。


単に老婆に巧妙に扮するだけだったら、シンディ・シャーマンというアーティストもやっている。
彼女はいろんな女に扮し、映画のスチール風のセルフポートレイトを撮る作家として、90年代にブレイクした。もともとデートの前に着ていく服が決まらず、とっかえひっかえしているシャーマンを見て、ボーイフレンドが「それを作品にしてみたら?」と言ったところから始まったらしい。
森村泰昌という作家も、絵画の一部や女優に扮した作品で有名だ。シャーマンも森村も、別人に扮することの楽しさを伝えようとしていたわけではないが、コスプレそれ自体は楽しいものだろう。
しかし実際におばあさんを体験するのは、それもホームレスのおばあさんを体験するのは、楽しいものじゃない。
貧困+老い+孤独。誰も見たくないイメージだ。


一頃、老化現象を逆にポジティブに捉えて、「老人力」などと赤瀬川原平あたりが言っていたが、ホームレスのおじいさんだったら、そんな呑気なこと言ってられる余裕はない。どこまでいっても「力」とは程遠い感覚しかないはずだ。
老人力」なんて、普通に暮らしていけて、趣味を楽しむ余裕があって、介護が必要になっても困らないような老人のためだけの言葉なのだ。
赤瀬川は元はコンセプチュアル・アートの人だが、ネガティブなイメージに「力」さえつければ何か価値転倒できるというコンセプトから匂ってくるのは、現代美術のお気楽さ、いや"とんち"感覚だけである。


私は筋肉痛の二日間だけ、一部おばあさんな身体と心境になった。その二日間は何をやるのも億劫で、思い通りのスピードで動けないのに苛立った。
歳をとるとは、こういう身体機能の劣化を少しずつ受け入れていく過程なのだろう。そこで生じる不自由さを補ってくれる環境が、誰にでも準備されているのだったら理想的である。
しかし、そうはならない。最近も、痴呆になった年老いた妻を夫が絞め殺して首つり自殺した事件があった。そのニュースを見ていた夫は、
「あーあ、俺もああなるんかな」
と呟いた。思っていても口にするのはやめてほしい。


夫は常々、
「生きる希望がなくなったら、ダイナマイトを腰に巻いて長良川河口堰に突っ込む」
と言っている。
彼はかなり熱心に河口堰建設反対運動をしていたので、半分本気かもしれない。
ダイナマイトは土木建設業をやっている知人からいくらでも手に入るという。予備校の生徒にも、
「お前ら、自殺したくなってもそこらで首つって死ぬな。河口堰に突っ込んでくれ」
と言っているそうだ。だけど誰がそんなこと真に受けるのか。
「いや、俺が呼びかければ5人や6人は来る」
‥‥なんだと。
しかし公共物破壊で、残った私は計画を事前に知っていたとして警察に追求されるのではないか。
「じゃあ、お前は反対岸から同時に突っ込め」
うーんどうしよーかな‥‥と迷うところではないが、生きる希望を完全になくしたらそういう心境になるのかもしれないな。先のことはわからない。
それまでは、せいぜい体を鍛えておくことにしよう。
あと、痴呆にならないように頭もね。