「女」を擬態する

「オカマ」のヘアショー

「今回、モデルは全員オカマなの。見に来てね」と美容師に言われたのは、かなり前のことだった。
彼女は名古屋の美容師で、高校時代からの友人。毎年ヘア・ショーを開いているが、「美容師がモデルの頭弄ってるのなんか、すぐ見飽きるから」ということで、いつも大層凝ったエンターティメントなステージを作っている。
数年前開催したショーでも、身長185センチくらいの「オカマ」(ニューハーフ)の超美形を二人使い、
「うわ、何あのすごい美人」
「‥‥え、あれ男?」
「ええ〜っ」
と観客の目を釘付けにしていた。


なぜ彼女が「オカマ」(ニューハーフとお仕事している人が彼女たちとの間で共通して使っている言葉なので、ここではそれに倣って使わせて頂きます)を使うのかと言えば、その人工美にある。
女性のモデルで美しい人はいくらでもいるが、やはり「オカマ」の人の持つあたりを払うような圧倒的なゴージャス感や日常離れした美と、ショー用に考案するデコラディブなヘアスタイルとの相乗効果に、彼女を魅了してやまないものがあるらしい。
モデルとなる「オカマ」の人は、彼女の知人がやっているニューハーフのショーパブの店から選んでくるのだが、美に並々ならぬ執念を燃やす「オカマ」の皆さんは、大変プライドが高くわがままなので対応に腐心するということである。


以前もマリエ(ウェディングのショー)をやった時、人より目立つことが命の「オカマ」モデルが、「私こんな地味なの絶対イヤ」と、ウェディングドレスなのに勝手にイヤリングをキンキラキンなのに付け替えてしまい、「花嫁はパールって決まってるの。お願いだからパール付けて」と説得するのに苦労したとか。
「もうねえ、あの人達の自己顕示欲はすごいよ。自分の置かれている状況関係なしだからね」
と友人はこぼしていたが、「オカマ」の人がウェディングドレス着て花道を歩くという状況設定もいろんな意味ですごい。


今回のショーは、愛知県の美容業界主宰のもので、先週月曜日の昼間から、名古屋の中心部にあるオアシス21という広場に特設ステージを組んで開催された。
最初の方は美容学校の生徒や若手美容師のショーで、友人のグループはトリから二番目である。今回のテーマは「オペラ座の怪人」。


会場に来たら声をかけてと言われていたので、ステージの後ろの方をウロウロしていたら、突然すぐ横の階段から異様な集団が出現して、ゾロゾロとこっちに向かってきた。
18世紀のフランスはロココの貴婦人達である。皆、タッパが軽く2メートルはある(ヘアとヒールのせい)。ド派手な衣装とそら恐ろしいほどの美貌。それが総勢11人あまり。出演前の「オカマ」モデルの一行だった。アマゾンの奥地に生息する珍しい蝶が、突然変異の巨大進化を遂げて女に化けて現れたよう。通りすがりの人は皆目を丸くして足を止めている。
美容師の友人はそぞろ歩く巨大な蝶達の間を走り回り、「皆さん、こっちよこっち。よそ見しないでハイハイハイハイ」という感じですごく大変そうだった。彼女の美容室の男の子達も、見上げるような「オカマ」モデルに付き添って全然余裕ない感じ。それで言葉をかけるのはやめにした。
というより、2メートル超の貴婦人の群れに圧倒されて思わず後ずさってしまい、近寄れなかったのだが。


それまで行われていたステージでヘアモデルとなっていたのはもちろん女性ばかりで、そう面白くはないがそれなりなものではあった。
昔、あるクラブイベントで見たニューハーフのファッションショーでも、最初に出て来るのは女性モデルだった。しかしそこで後半、「オカマ」の人が登場すると空気が一変する。「どうよ!」という気合いと禍々しいまでの美しさが、女性モデルを上回っているせいだけではない。「女らしさ」が「オカマ」によって増幅演技されることにより、女性モデルが安っぽく見えてしまうという逆転が起こるのである。
どんな美女も、美形「オカマ」と同じステージでは醜くなる。


で、ヘアショー「オペラ座の怪人」では、あの有名なテーマ曲のイントロと共に、怪人に扮したマントの男性(この人は本物の男)に続いて、アゲハチョウのような妖艶なマダムが現れた。この人は件のショーパブのママで、このステージでは進行役である。
「みなさん、お元気?」
声が男だ。それに続いて豊満な胸元も露なモデル達が羽つき仮面を手に次々と登場。ライトの下で見るとそのデカダンスな人工美が際立つが、知らなかったらどう見ても男には見えない。客席に飛ぶ「どうよ」目線。隣の女子高生のグループはしきりに溜息を漏らしていた。


数百人の観客の中に、あれは全員「オカマ」だと見抜けた人はどのくらいいたのだろう。マダムには声で気づいた人はいたと思うが、モデルのあまりの完成度の高さに、半分くらいの客はわかってなかったと思う。
私の前にいた5歳くらいの女の子がしきりに母親に話しかけていた。
「ねえ、なんで男の人より女の人がみんな大きいの?」
「モデルさんだからよ」
いいえ、「オカマ」だからよ。
「みんな、お姫さまみたい」
「そうね、きれいねえ」
だって「オカマ」だもの。今でも半分くらいの人には、ちゃんとちんちんがついてるらしいわよ。

「私」を愛して

「最後に言おうか迷ったんだけど、まあ曖昧でいいかと思って」と後で友人は言っていた。言わなくてよかったんじゃないかと思う。子供のお母さんが質問攻めに遭ったことは間違いない。
ママ、にゅーはーふってなに? それはね‥‥えーと、モデルさんのことをそう言うんじゃないかな。
「オカマ」とはニューハーフとは何か、5歳で知るのは少し早いかもしれない。


「ところで前ショーに使ってた人、今回入ってた?」
「一人はね。もう一人はあれから顔面が崩壊して、顎の肉がすごいことになっちゃったんだわ」
「オカマ」の人達は、ほぼ全員整形している。額の途中から鼻先までしっかり入れ、目は当然いじり、顔全体の皮膚も引っ張っている。顔も体もどれだけ金かけていじっているかが、彼女達のステイタス。でもやはりどこかで限界は来るので、マイケル・ジャクソンになる人がいてもおかしくないわけである。
毎晩ショーを見せている「オカマ」の人のプロ根性はすごいもので、水商売の鉄則とは言え、上下関係も滅法厳しいらしい。
オペラ座の怪人」のヒロインはクリスティーナという若い女なので、ショーパブの中で一番下っ端の若い華奢な「オカマ」をヒロインとして使うことになったのだが、その他の先輩「オカマ」に「なんであんな芸もない子を? 私を使ってよ」と抗議されてなだめるのに一苦労だったとのことである。


女の闘いと同じである。「女」だけをウリにしているので、女より激しいかもしれない。
「メークも大変だよ。やっぱり体毛濃い人いるもんで、ヒゲを抜くのに時間がかかるかかる」
時間がかかる分一層、「女」に化けるんだという気合いが入るでしょうね。女でもそうだと思う。
「その一方で、うちの男の子をからかってんだよ、ウインクしたりして。みんなビビってた」
そりゃまあちょっとビビるでしょうね。大事にせねばならないモデルだし、美人だし、「オカマ」だし。


11人のうち、約半分が韓国人とフィリピン人だそうだ。
フィリピン女性の出稼ぎは多い。そして水商売の給料は安いが、チップが高い。ショーパブでも売れっ子になると、ワンステージ終わったら胸の谷間に万札が次々突っ込まれる。それで彼女は故郷に仕送りし、「警察署の近く」に宮殿のような家を建て、一族郎党を住まわせる。もともと治安が悪いので警察も買収して自宅の警備に当たってもらうのである。
だが、自己管理をしっかりしてママになるような人を除いては、水商売で生きる「オカマ」の現実は厳しいという。
しょっちゅうホルモン注射を打つので、副作用で精神不安定になりやすいし、セクシュアリティも単に相手が「男」ならいいというわけではもちろんなく、男らしい男が好きな人、女装の男が好きな人、性転換した人じゃないとダメな人など、好みが細分化されており、ぴったりの相手を見つけるのは大変だそうだ。顔面崩壊の恐怖もある。
そういう精神的ストレスに恒常的に晒されて、自殺する人も少なくないという。鶴舞公園は公会堂とグラウンドと図書館に囲まれた古くて広い公園だが、名古屋の「オカマ」の自殺の名所と言われている。


私は女でヘテロなので、「オカマ」の人の苦悩はわからない。しかし「女」を擬態するということにおいて、「オカマ」と女は似ている。いずれも、素のままでは「女」と見なされないということで、化粧をし女装をする。美や若さへの執着も、男を上回る。「女」を擬態することは女と「オカマ」にとっては一種の快楽であり嗜癖だから、なかなか手放せないのである。
男は擬態と知らずに女に、あるいは「オカマ」に近づく。擬態とわかった時、ほとんどの男は引く。
『ヘドウィグ&ザ・アングリーインチ』の性転換手術失敗者ヘドウィグは、逃げ出そうとするトミーに「私を愛しているなら私の股間も愛して」と言った。しかし、「私の股間を愛せなくても私を愛して」と言うべきだったのではないか。


あなたは私に「女」を見て近づいたのかもしれない。私も「女」のフリして引き寄せたかもしれない。でもあれは擬態でした。騙していてすみません。
あなたの愛しているのは「女」である。私ではない。「女」は、あなたの頭の中にしかいない。「女」のスクリーンを通して私を見るのは、もうやめてほしい。私を直接見てほしい。私が「女」でなくても私を愛して。
私も過去に何回かそう思ったことがある。しかしそれを男に要求するのは難しいと知った。
一番困ったことは、「女」でないところの「私」が何者なのか、私にもわかっていなかったということだ。
「私は「女」に擬態している者です。「オカマ」じゃないけどね。それでもよかったら」
いっそ最初にそう言ってしまえたら、楽だったのだろうか。