非モテ女が見えないのはなぜ?

議論をめぐって考えたこと

10/19のコメント欄で紹介した、男は私憤を無理矢理公憤に替えるというエントリを読んで、じゃあ非モテ男性も私憤を公憤(に近いもの)に変えたいのではないかと思った。そういう感情がどこかにあってカミングアウトして、「同志」が繋がってネットに社会が形成されたのではないかと。
自虐だけでなく、非モテを一種の美意識にまで高めたり理論武装したりいろいろしているのは、私も少しは知っている。派閥もあるらしい。「男らしい」ふるまいだ。


私的言語を公的言語に、個人的なことを社会的なこと、政治的なことに昇華させようとするのを、とりあえず男性的な特徴だとしてみると(女性がそういうことをしないということではない)、この現象は納得できる。
その結果「非モテ男」というのは一つのカテゴリとして有名になり、非モテ、モテ、男女を問わず、いろんな人がブログでネタにした。
そういう場に、非モテ女性はとても少ない、カミングアウト自体少ないというのを読んで、確かに少ない気がするなと思った。非モテですと書いている人はいるが、それをブログの主要なテーマにしてあらゆる角度からの考察に取り組んでいるような人は、私が知らないだけかもしれないがまだ見たことがない。


そこで唐突に、オタクと腐女子の違いを思い浮かべた。
オタクは語ることが好きな人が多い。語りを共有し、時には外に向けてアピールもする。解説者も大勢いる。だからオタク文化は早くからそれ以外の人々に認知された。
しかし腐女子にそういう現象は、これまではあまり見られなかった。腐女子内でのコミュニケーションは密にあっても、自らを対外的に語るという姿勢はオタクに比べて希薄。それと同じことが、非モテ男性と非モテ女性にもあるような気がする。


なぜそうなるのだろうか。
それを考える前に触れておかねばならないのが、「恋愛できない女性は洒落にならない」は本当か(「烏蛇ノート」)。途中で議論に参加したが、なんか頭が混乱してきたのでこちらで再考する。
私も先日取り上げた元ネタの非モテ女性が洒落にならない理由」(「世界の果て」)では、「女の仕事は恋愛(と社会的に看做されている)ので、非モテ女性は洒落にならない」という話だった。だから彼女達は、非モテ男性のように徒党を組んだり語ったりはしないということである。
一方、「烏蛇ノート」では、「女の仕事は恋愛」に現実的な疑義を呈した上で、非モテ女性は2ちゃんなど特定の場所で活発にコミュニケーションしていると指摘されていた。ブログ界隈では少ないが、いるところにはいるんですよと。


この非モテ男性と非モテ女性の語りの形式の違いは、オタクと腐女子の違いに似ているなと思った。
男は自分のところに旗を立てて対外的なアピールをし、同志を見つけに行きネットワークを作る。
女は、一カ所に集まって井戸端会議をする。
しかしこれだけでは、男=公、活動的、女=私、非活動的というジェンダー規範がここにも見られるというだけのことになり、なぜ非モテ女性が見えないか?という理由としては弱い。


考える角度を変えてみる。
オタクも腐女子も、セクシュアリティがその嗜好に反映される。一方、非モテ男性と非モテ女性は、しばしば「恋愛弱者」と表現される。つまりどちらの話も「性」を巡っている。
男は昔から集まっては猥談などしたりして、性的な言語活動が活発だった。いかにモテるかとかセックスが強いかという自慢話。女性はそこに参加することはほとんどない。そんなのは「はしたない」とされたこともあるが、それだけではない。女は不特定多数の男の性的な視線(直接見なくて脳内でも)に晒されたくないのだ。


性の根源には暴力がある。セックスは、能動と受動に人を振り分ける暴力的な要素を否応なく孕んでいる。
そんなセックスはしてないと言う男の人は、ありあまる性欲を持て余していた十代の頃を思い出してほしい。その欲求に多少なりとも暴力的なものは含まれてなかったか。
セックスを暴力的だと言ったからといって、レイプを肯定しているのではもちろんない。セックスに孕まれる根源的な暴力性を隠蔽、粉飾するのが、相手への尊重的態度とか愛情とか様々なテクニックとかサービスだ。そして隠蔽、粉飾はあった方がいいに決まっている。
セックスで男性は、物理的には「能動」側であり、女性は物理的には「受動」側だから、セックスで主体性をより強く発揮することを求められるのは、主に男性の方である。体位とかそういう話ではなく、男にすべてがかかっているということだ。そして多くの場合男はずーっと女を見ているが、女は必ずしもそうではない。
男が見る者=主体で、女が見られる者=客体という、ある定型がここに現れる。


「受動」で客体の女が、それを棚上げして楽しむことができるから、ボーイズラブ腐女子のセックスファンタジーとなるのではないかと思う。
そこに自分を見つめる(暴力的な)男の視線はない。自分をネタにして性的妄想に耽る男、女を値踏みする男の視線のない世界。そこでは唯一自分が能動的な主体であり、見る側に立てる。
男は猥談と同様、自分のオタク趣味についても、いかにモテないかという話も公にした。
いかにモテないかなんて、一昔前なら隠したいようなことを公に話題にできるのは、それでも男には仕事(金を稼ぐ)があるからか。それはさておき、モテてもモテなくても男は基本的に「能動」のポジションにおり、女を見る者である。リアルであろうがネットであろうが同じである。


ではその語りの輪の中に、非モテ女性が参入できるだろうか。
「恋愛できないってことは何だ。化粧もしない地味な女なのか、すげえブスなのか、ありえないデブなのか。女はやっぱり外見だからな。キッツイだろうな、いくら学歴や収入が良くても」‥
‥などと思われるかもしれないところに、気楽に入っていけるだろうか。いくら顔が見えないからと言って。


いや決してそんなふうには思わない? じゃあ非モテ女って何ですか。「男っぽく振る舞うのが気持ちいいからこうしてたら、なんか非モテになっちゃった。男とは仲間同士」みたいなのじゃないですよ。それは仮性非モテ女。
ではなく「いくら女らしくしようが性格良くふるまおうが、絶対男が寄ってこない。男友達さえできない」、それが真の非モテ女でしょう。男が女の外見にこだわるのだったら、そういう人はいるでしょう。学生時代に誰でも一人くらいは目撃しているはずだ。いや視界に入ってすらいないかもしれないが。
そんな女性が、女を憎んだり、女に興味津々だったり、女はやっぱり顔だと思っていたり、男の非モテはまだしも女の非モテは洒落にならんと思ってたり、ブスは何より嫌いだと思ってたり、ブスの性生活なんて想像するのもやだと思ってたりするかもしれない男子がうじゃうじゃいるところで、気軽に「ハイ、非モテ女です」と手を挙げられるだろうか。そんな見えない視線の「暴力」に、進んで晒されたいと思うだろうか。


その人が「ふん、何が女らしくしろだ。アホくさ。男なんか邪魔なだけだわ」と明るく開き直れるような人や、「非モテ男も大変そうだけど、非モテ女もそれなりにキツいんですよ」とさばけて語れる人だったらまだいい。
でもジェンダー規範を深く内面化しており、モテないことを何より苦にしている人だったら、目立たずひっそり暮らしたいと思うのではないか。


もちろんこんなふうに言ってしまうことそれ自体が、非モテ女性に対する偏見や抑圧になりかねないということは、私も自覚している。
でも私が当事者だったら、モテだの非モテだのの言葉が飛び交っていて、男が大勢いるところに、堂々とカミングアウトして入っていく度胸はない。入りたいとも思わないだろう(それか恋愛の話題には一切触れない)。
そのことをどうしても書きたかった。