日本の純愛史 3 恋愛結婚と純愛 -大正時代

大正期は、貞操を巡る議論が活発になった時代である。
大正三年、雑誌『青鞜』を中心として貞操論争というものが勃発。女がパンのために体を売るのは是か非か?という一人の女性のリアル体験の問いを発端として、『婦人公論』『平凡』など他の雑誌媒体にも飛び火し、女の純潔(貞操)を巡る議論は活発化する。


「愛を中心とした男女の結合の間には、貞操といふやうなものは不必要だと思はれます。」
と訴えるのは伊藤野枝平塚らいてう
「結婚前の婦人に向かって、道徳は何を要求して居ますか。それは絶対的純潔則処女性といふことであります。娘時代の名誉の総ては殆どこの一事にあるといっても過言ではないのですから、万一その処女を失った娘は、父母の憤怒、悲嘆はもとより、社会の嘲罵を一身に集めなければなりません。(中略)それが息子の場合はどうでせう。」
と、性規範のダブル・スタンダードを嘆いた(『資料 性と愛をめぐる論争』より/ドメス出版)。
「愛があって結ばれることのどこが不道徳?」という態度の伊藤野枝に対し、平塚らいてうは「女に純潔が要求されるなら男にも」という意見。
明治から大正にかけては、男が花柳界での遊びで性病に罹患したまま結婚して妻に移してしまい、不妊の原因となるといった困った事例が多発していた。そんな背景も、女性による「男女とも結婚相手以外とのセックスはなし」思想に繋がっていたようだ。


明治末期から大正には、恋愛をめぐる文化人の事件が数々あった。
 一九〇九 漱石の弟子の森田草平(既婚)と平塚らいてうの心中未遂事件。
 一九一二 北原白秋と人妻松下俊子との不倫(松下の夫に姦通罪で告訴され、離婚した俊子と結婚するが後に離婚)。 
 同年   与謝野鉄幹と晶子の不倫(後に結婚)。
 一九一六 伊藤野枝アナーキスト大杉栄と神近市子の三角関係。
 一九二一 炭坑王の妻の地位を投げ捨てて恋人と駆け落ちした柳原白蓮事件。
 一九二三 有島武郎と編集者波多野秋子の心中事件。
 一九二四 中原中也小林秀雄と新劇女優長谷川康子の三角関係。
インテリがこぞって真面目に恋愛に取り組んだ時代だけに、起こる事件が派手である。今なら「略奪愛」などと名付けられて、女性週刊誌のトップを賑々しく飾りそうな勢いだ。


こうした、それまでの規範に囚われない男女関係を「自由恋愛」と呼んだ。今で言う普通の恋愛のこと。一生一人の人だけに操を通さねばならないという縛りはなく、透谷の恋愛至上主義が「なし」としていた性関係も「あり」とした。
「自由恋愛」は恋愛至上主義に乗っかっているように見えるが、至上主義のような禁欲性はない。大正末期には「性愛論」が流行り、「職業婦人」が注目された大正デモクラシーなムードの中で、開放的な恋愛(気分)が文化系の一部の若い男女の間では共有されていた。
『恋愛の昭和史』小谷野敦文藝春秋)によると、山本宣治という当時の生物学者は、

オナニーが無害であること、適切な避妊によれば自由恋愛も是であることを説いた。(中略)大正十三年に刊行された『恋愛革命』(アルス)では、生物学的立場から人間の性を論じ、「娘の童貞」を後生大事に守る風潮を批判して、むしろ自由な社交の機会を与えて、「色魔や不良少年を見分けて自身で蹴飛ばす丈の強さ賢こさ」を養うべきだと言っている。

‥‥当時としては相当進んだ議論である。
しかしこんなことが話題になるのも、都会では依然として、「無知と禁欲」が良家の子女の条件とされていたからである。
田舎では恋愛だの貞操だのと面倒な議論をする人はいず、好みの相手がいれば夜這いのフリーセックス。童貞の筆下ろしを年増の女がしてやるのもごく普通のことで、性は都市部と違ってまだおおらかな面があった。


一方、大正時代の一般大衆が読んでいた新聞雑誌には、「処女」「貞操」という言葉が溢れていたようだ。

真珠夫人』には、「処女」という語は三十回出てくる。「貞操」は四回だけだが、実にこれ以降昭和敗戦後まで、恋愛通俗小説の題名には、「処女」「貞操」が頻出することになり、この二つのキーワードは女性読者の関心を引きつけ続けたのである。
(『恋愛の昭和史』)

真珠夫人』は、2002年にフジテレビで放映された昼メロの原作となった菊池寛新聞小説大正九年・一九二〇)。
父親を死に追いやった金持ちに復讐するためその後妻に入り、愛する男のために貞操を守り抜いて奮闘する美貌の人妻がヒロインだ。美人の処女の「あわや‥‥」の場面満載。純潔(貞操、処女)のための大義名分がはっきりしているので、感情移入も楽。「処女」はやはり女の"切り札"として機能していたということだ。





こうした中で、「女は結婚まで貞操を守れ」という明治以来の性規範を「恋愛結婚論」として展開しベストセラーとなったのが、廚川白村の『近代の恋愛観』(大正十年・一九二一)である。
冒頭に掲げられているのは、ヴィクトリア朝イングランドの詩人ロバート・ブラウニングの"Love is best."という詩句。
ラブ・イズ・ベスト(愛より大事なものはなし)。
この"キャッチコピー"は、しばらく女学生の合い言葉になるほど流行ったという。
白村は愛のない結婚を激しく非難し、「純なる恋は至上至高の美であり善である」と、恋愛における犠牲的精神の重要性を説いた。透谷と似た恋愛至上主義である。
「純なる恋」とは、もちろんセックス抜きの精神的な恋。そしてその先にこそ正しい結婚はあると、きっちり結婚のあり方にまで言及している。


『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』加藤秀一ちくま新書)によればこれは、恋愛の先には結婚があり、結婚における母性と生殖がより価値の高いものとして論じられている「道徳」の書であった。
一時の衝動に惑わされることなく女子は貞操を守り、愛情で結ばれた相手と結婚して子を産み母になりなさい。それが女の生きる道。今なら細木数子が言っているようなことだ。


ちなみに大正時代、「結婚」には性交という意味もあった。「今夜結婚しませんか」は「今夜初セックスしようよ」という意味。恋愛至上主義の御陰で、「恋愛」には一般に性行為が含まれなかった時代ならではの話である。
男は玄人女性と遊んで当たり前だったが、素人女性の処女性はあくまで遵守すべしという貞操観念は、浸透していたと言える。
当時、都市の青年子女の間でも「恋愛結婚論」が盛り上がっていた。
恋愛結婚で最優先される男女の愛は、これまでの家絡みの見合い結婚に対抗できる唯一にして最強の「道理」である。
いくら親のお墨付きでも、愛のない結婚では不幸になる。『金色夜叉』の宮や『野菊の墓』の民子を見よ。ラブ・イズ・ベスト。「恋愛結婚したい!」とプチインテリな若い男女は熱望しただろう。


「恋愛結婚したい」ということは、「結婚のきっかけを(見合いでなく)恋愛にしたい」ということである。
それはつまり、男女の交わりを親の命令でなく、自由意志でしたいということである。
もっともな欲求だが、「恋愛」と「恋愛結婚」とは、意味がまったく異なる。「恋愛結婚」の「恋愛」は、「結婚」に従属しているのだ。言い換えればそれは、「結婚」という最終着地点をあらかじめ計算に入れた「恋愛」である。
この意味でも、透谷・白村の恋愛至上主義は、「自由恋愛」とは方向性が違ってくる。
前者は実質的には、結婚の条件を「家同志の利害」から「男女の愛」に置き換えたものであって、女性の位置づけはほぼ昔ながらのままである。後者は男女関係のリベラル化であり、結婚という目標は設定されていない。


「自由恋愛」に踏み切れた女は、都市の一部の「職業婦人」や有閑マダムや"モダンガール"だけだったし、どこまでも男女平等というわけではなかった。「自由」のハードルは高かった。
大多数の女性は「自由恋愛」に憧れながらも、厳しい純潔規範の中で「純粋な愛情」で結ばれた相手との恋愛結婚を夢見るのが精一杯だった。





しかし考えてみると、仮に頑張って純愛を貫いても、結婚というかたちで制度の中に入ってしまえば、それは"純愛の死"を意味する。
二人の愛が成就して安定するわけだから、後はそれを守るのみ。むしろ今度は、家庭内の男女不平等と戦わねばならなくなるのでは? 
恋愛では同志のような恋人だった男も、家の中では威張った暴君になるかもしれない。こんな男に操を立ててきたのかと馬鹿馬鹿しくなるかもしれない。
よく言われるように、恋愛感情にはタイムリミットがあるからこそ、最後を死で締めくくって”永遠の愛”に収める純愛物語の伝統も生まれたわけである。


西欧の「情熱恋愛」はもともとは、結婚とは相容れないものだった。「社会の欲望」(結婚)と「自分の欲望」(恋)とは厳しく対立していた。がんじがらめの規範の中に「純粋な愛」の生まれるきっかけはあった。
つまりあちらの小説の中では、恋愛至上主義に生きることは、世の中に背中を向け後ろ指を指され「崖っぷち」で孤軍奮闘することとして描かれていた。
一方で近代以降、恋愛が(小説の世界ではなく現実社会で)"市民権"を得ていったのは、その先に結婚というゴールを設定できたためである。
一人の異性に永遠の愛と貞操を誓い合う恋愛は、西欧ではロマンチック・ラブとして賞賛されてきた。ロマンチック・ラブは、「生涯契約」(結婚)と「再生産」(男女のセックスによる子作り)を暗黙の前提としている。キリスト教社会で同性愛者が迫害されたのもオナニーが禁じられたのも、それらが「再生産」に結びつかないからだ。
異性愛者の恋愛から結婚に至る道を唯一正しいものとするこの考え方を、ロマンチック・ラブ・イデオロギーという。


日本でも、若い男女が「恋愛したい」と普通に思うようになったのは、恋愛結婚という新しいかたちが提案されたためだろう。逆に言えば、親の意向でも一族の利害でも生活のためでも世間体のためでもなく、「男女の愛」という動機がクローズアップされて、結婚それ自体もがぜん"ロマンチック"でステキなものに見えたのである。
従って、親の命令に従いたくない女性達にとって、どうせするなら見合い結婚より恋愛結婚の方が幸せになれそうに思えたとしても、不思議ではない。思えただけで実際は、生活苦や夫の浮気で破綻するケースがあるのは、見合い結婚でも恋愛結婚でも変わらなかったはずだが。


恋愛結婚は、結婚形式の民主化である。自由と平等が旗印であった近代に、民主化は当然の結末である。
しかしあらかじめ結婚(そして家庭、生殖)というゴールを設定すれば、恋愛はやがてその"手段"となる。
結婚の手段としての恋愛には、見合い以上に"戦略と戦術"が使われる。女性なら「処女」、男性なら経済力さえあれば、とりあえず結婚相手としての最低ラインはクリアだったのが、容貌、ふるまい、教養、服装、コミュニケーション能力なども細かくチェックされるようになる。
つまり、恋愛結婚の登場によって恋愛は、結婚に至るまでの過酷な自由競争への道を歩み出したのである。
もしそうでなかったならば、「ラブ・イズ・ベスト」なのであれば、のちに「恋愛は結婚のためのビジネスよ」と割り切る人も、若さと容貌とコミュ能力と金を巡る仁義なき恋愛資本主義も、「負け犬」も生まれてはいないはずである。


明治末期から大正期に起こったのは、恋愛が結婚という「社会の欲望」に回収されていく現象だった。
しかし恋愛結婚のほろ苦い現実と諦念は、二葉亭四迷の『浮雲』や夏目漱石の『それから』『こころ』といった小説に、既に描かれてもいた。一方、泉鏡花は当世の恋愛や恋愛結婚ではなく、昔ながらの色恋の世界に濃ゆい男女のドラマを求めた。
熱烈恋愛の末に結婚しても誰もが幸せになるとは限らない、そういう現実はとっくに見えていたのだった。


では、純愛はどこに行ったのか。
自分の誇りと意地とスジを通し、熱い緊張関係だけに生きたいと願う世の中に背を向けた捨て身の純愛任侠精神は? 
それは昭和初期に意外なかたちで突然現れる。(続く)