「惚れたが悪い」という言葉

最近やたらと話題になっているこの匿名記事
親密なふるまいを見せる女性に、これは自分に気があると判断して告白したら空振りで、裏切られたような気になったという話である。
ブクマではこの男性に同情的な意見が多い。概ね、小悪魔に振り回された純朴な青年という感じで受け取られているようだ。


逆に、この男性の一方的なスタンスを批判する惚れたが悪いという反論(烏蛇ノート)も出た。
恋愛において、その気にさせた側には何の責任もない、恋愛感情は自己責任であると(それを言うのに、恋愛が人間関係において「イレギュラー」であるという前提を持ち出す必然性が今一つわからないが)。
その気にさせた側に何の責任もないとすると、恋愛関係にあると明言さえしなければ、どのように男/女を手玉にとって傷つけても免罪されるのだろうか。すべては、そんな男/女に「惚れたが悪い」?  
たとえば、彼女が食事の誘いなどに応じていたら? 
泊まった時彼とセックスしていたら? 
その後初めて彼が「つきあってほしい」と言ったら? 
そういうケースもあると思う。そこで「他に好きな人がいる」「友達のつもりだった」と言われたら、怒り出す人はもっと多いだろう。女性の行動はもっと非難されるだろう。これを男女逆にしたら、圧倒的に当事者(女性)の方に同情が集まるだろう。
この件に関して、男性の思い込み過ぎや単純さを指摘することはできるかもしれない。しかし、そこから派生して、恋愛を惚れた側の自己責任で語り、断罪する言説には、恋愛に陥ってしまう人への不寛容さを感じないでもない。


ちなみに、そこに引用されている太宰治の『お伽草子』に収められた『カチカチ山』の狸の話(このページ真ん中あたり)は、烏蛇氏の言うような「惚れたが悪い」という教訓を導き出すものではない。太宰が、美しい「少女」である兎がいかに残酷無慈悲か、いかに「非モテ」の気の毒な狸に感情移入して描いているか、読めばわかるだろう。
物語の最後はこのように結ばれている。

曰く、惚れたが悪いか。
古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。

‥‥あのイケメンでモテモテだったはずの太宰でさえこう言っているのである。


さて、恋愛感情は対象そのものだけでなく、対象との「関係性」によって喚起されるものである。
会ったこともないアイドルに恋愛感情を抱いて追いかけるのと、頻繁に家に遊びに来ていた女性に告白するのとは位相が異なる。そして誰でも(たとえ恋愛慣れしていない非モテの人だろうと)、言葉だけでコミュニケーションしているわけではなく、相手の言動から様々なサインを読み取ろうとするはずだ。
そのサインを恋愛感情によるものだと判断する基準は、人によって違うのである。恋愛体験によっても、相手への観察力によっても、その人の性格によっても性別によっても、その時の恋愛感情の強さによっても違ってくる。
この男性の場合、恋愛感情より状況判断(コクって成功するかどうか)を優先させていたような印象なのが気になるが、彼の基準を他人が判断してどうこう言うことは難しい。
もちろん女性の方の基準もどうこう言えない。恋愛行動についての互いの基準が異なっていたということが、不幸だったのだ。


もしこの男性の記事で疑問があるとしたら、最後のフレーズである。

畜生。もう一生女なんか信じない。興味もない。おれは一生独り者だ。


なぜそこに短絡するのか。なぜ一回の失恋体験(それもつきあってもいない)が女性全体への視線に還元されるのか。私はこの飛躍の方が怖い。
問題は「惚れた方が悪いか惚れさせた方にも責任があるか」ではなく、ある女性への思惑外れが、いとも簡単に女性不信に結びつくことである。


自分の感じた女の気まぐれと残酷さ。
振り返って見る自分の甘さと思い込み。
二人の間の決定的なずれ。
惨めで滑稽な結末。
それらを噛みしめて、あえて「惚れたが悪い」と最後に当事者が書いていたら、この記事はまったく別のものになっていただろう。
「惚れたが悪い」は、他者からの断罪の言葉ではない。
自分の胸のうちで後悔と諦念と自嘲と共に呟かれるものだ。