日本の純愛史 6 純愛と吉永小百合 -戦後 (2)

昭和三十年代から四十年代にかけては、純愛ものが続々と登場してくる純愛黄金期である。その純愛時代を象徴する花形映画スターが、吉永小百合
それについて述べる前に、純愛とは趣きの異なる戦後カルチャーの話題物件をざっと見てみよう。
 昭和二十二年(一九四七)‥‥敗戦直後の性の解放を描いた『肉体の門』(田村泰次郎)がベストセラーになる(後に映画化)。
 二十四年(一九四九)‥‥活発で大胆なヒロインの登場する石坂洋次郎の人気小説『青い山脈』が映画化(石坂洋次郎の青春小説は数多く映画化された)。
 二十八年(一九五三)‥‥若尾文子主演の映画『十代の性典』がヒットして続々「性典もの」が作られる(『十代の誘惑』『乙女の診察室』『純潔革命』など)。
 三十一年(一九五六)‥‥『太陽の季節』や『狂った果実』など「太陽族映画」に婦人団体、PTAなどから上映制限運動が巻き起こる。
 三十二年(一九五七)‥‥三島由紀夫美徳のよろめき』(同年映画化)の影響で、「よろめき族」「よろめきマダム」(不倫主婦ということ)「よろめきドラマ」など「よろめき」が流行語に。
 三十五年(一九六〇)‥‥大島渚の『太陽の墓場』で主演デビューした炎加代子の雑誌対談での発言「セックスしている時が最高よ」が話題に。


肉体、性典、よろめき、セックス。「貞操」はいったいどこへ?という勢いだ。そういうものに"感化"される青少年の性道徳の乱れがこと挙げされるという構図も、今と似ている。
性表現に対する過剰反応は、二十五年(一九五〇)、伊藤整訳、D.H.ロレンスチャタレイ夫人の恋人』が猥褻文書として検察に押収(三十二年、有罪確定)されたり、三十六年(一九六一)、澁澤龍彦訳、マルキ・ド・サド悪徳の栄え』下巻が猥褻文書で有罪になる、といった事件にも現れていた。


こうした中で純愛ブームに近いと思われる社会現象は、昭和三十三年(一九五八)のミッチー・ブーム。皇太子(今の天皇)の奥さんに決まった美智子さん人気である。
初めて一般人が皇室に入るということでいろいろ議論も起こったが、それが障害のある純愛をイメージさせたりもした。
テニスコートで育まれた恋。しかし一般人女性との恋はすぐには実らず、王子様は傷心のヨーロッパ旅行へ。そしてついに「柳行李ひとつで来て下さい」という情熱的なプロポーズ。いちいち話題になるわけである。
皇太子の人柄を聞かれた美智子さんが、「ご清潔でご立派な」と形容した文句も流行語になった。私も「ご清潔でご立派な」人とミッチーみたいなロマンチックな恋がしたいな、軽井沢のテニスコートかどっかで‥‥とシンデレラを夢見た女子は多かろう。
もちろんそういう「純愛」の後には、「生殖」という一大事業が控えている。一般人から皇族へというのは大変な人生のリセットだが、落としどころは決まっているのだ。


日本が敗戦から立ち直ってきた昭和三十年代は、「青年」とか「純粋」とか「明日」とか「未来」といった言葉がキラキラ輝いていた時代であった。
まだ貧しいけれども、真面目に勉学に励み、真面目に働いて経済的に豊かになれば、世の中も良くなる、明るい未来が開けてくると信じられていた。


東宝や日活などの映画会社からは、石原裕次郎浅丘ルリ子和泉雅子芦川いづみ浜田光夫吉永小百合松原智恵子、渡哲也といった若手スターが続々デビューし、大量の青春映画が作られた。
青春映画は、純朴で前向きでたとえ貧しくても「いつでも夢を」(橋幸夫吉永小百合のデュエットによる大ヒット曲で映画にもなった)忘れず、志高く明るい明日を信じて歩いていくという真面目路線。
主人公達は笑うところはアッハッハと白い歯を見せて笑い、泣くところはシクシクと下を向いて泣く。でもキッパリと上げた顔にはもう涙の跡なんかない。複雑な演技はなし。込み入った話もなし。ヒットの決め手になるのは、素材(俳優)の人気度と新鮮度。
青春映画に混じってたくさん作られた純愛ものも、それまでの女の人生の苦労を描いて浪花節的涙を絞る湿っぽい話や、美男美女観賞用のメロドラマではなく、若いスターをはつらつと輝かせる「清く正しく美しく」なモードが基本だった。
この頃、青春映画と純愛映画の区別は曖昧で、青春純愛映画などと一括りにされたりしていたが、青春映画はどちらかというと友情に重点が置かれた群像劇で、その中に純愛シーンも挿入されているという感じだった。
六十年代の純愛映画は、『野菊の墓』のような淡い初恋や『風立ちぬ』のような難病ものから、身分差純愛、近松心中ものまで、障害のある恋物語の見本市のような賑わいであった。特徴はやはり、性関係がほとんどないというところ(特に昭和三十年代)。


ここには戦後、国家を挙げて推進された「純潔教育」の影響を強く見ることができる。
純潔教育とは、結婚するまでみだりに異性と性交せず貞操を守れと教えること。性教育の走りなのだが、当時は「異性と同室する時は机を挟んで対面しろ」だの「その際窓やドアは開けておけ」だの「異性に手紙を書く時は用件だけに絞れ」だの、非常に細かい男女交際マニュアルが全国の学校に配布されたらしい(みんなそんなこと守ってなかっただろうけど、大人に監視されて窮屈だったろうね)。
文学や映画では様々な恋愛模様が描かれていた一方で、「純愛にはセックスはない」という雰囲気がその後も漠然と共有されたので、今になって「そういうのは幼稚愛」などとどうでもいいいことを言い出す渡辺"愛ルケ"淳一のような人も出てきたわけである。


以下に、特に製作本数の多かった昭和三十五年〜四十四年(ほぼ六十年代)の純愛映画のタイトルを列挙してみよう。
●昭和三十五年〜三十九年‥‥‥ガラスの中の少女、雑草のような命、白い雲と少女、純愛物語 草の実、舞子の休日、銀座の恋の物語、流し雛、背くらべ、さようならの季節、ひとつのいのち、赤い蕾と白い花、泥だらけの純情、伊豆の踊り子潮騒、愛と死のかたみ、愛と死をみつめて、その人は遠く、霧子のタンゴ、あの娘に幸福を
●昭和四十年〜四十四年‥‥‥妻の日の愛のかたみに、絶唱、愛と死の記録、あこがれ、白鳥、夕笛、千曲川絶唱、夕月、夢は夜ひらく、北穂高絶唱津軽絶唱、永訣 わかれ、残雪、心中天網島‥‥


こうやって見ると、日本人は武者小路実篤に始まって「愛と死」がお気に入りである。タイトルに「愛と死」さえ入っていれば泣ける。少なくとも観客の方にはそうインプットされていただろう。
絶唱」「かたみ」も好まれている。純愛映画はハンカチ握り締めて見るものだった。





純愛映画のヒロインの座に君臨していたのが、吉永小百合である。
吉永小百合と言えば、戦後の邦画界を代表する大女優。十一歳で芸能界入りし、十五歳(一九六〇年)で日活に入社、多数の青春・恋愛映画で主役を演じた日活のトップスターだ。
これまでに百本以上の映画に出演しているが、六十四年の時点で青春・純愛もの以外の映画も含めると、なんと五十本もの出演作品がある。十代の若さで一年に十本前後の映画に出ていた勘定になる。
現在に至るまでの半世紀近くずっと現役で活躍している吉永小百合は、「脱がない女優」としても有名である。
六十四年の『潮騒』は、三島由紀夫の原作ではヌードシーンがあるが、映画では無し。七十二年、二十七歳の時に『忍ぶ川』という文芸純愛映画のヒロインに抜擢されたが、最後の方に軽い濡れ場があったため、マネージメントを務める父親の反対で降りている。
濡れ場など御法度だった純愛ヒロインの清純なイメージを、六十歳を超える今日まで維持しているという、驚異的な女優なのである。


当時の吉永人気は、おそらくその後のどんな女優も及ばないだろう。
小百合ファンの男性は「サユリスト」と言われた。サユリストは当然、処女崇拝者である。昔、女優カレンダーから吉永の写真を切り抜いて壁に飾っていた私の父は、彼女が結婚した時「今夜はサユリちゃんの初夜だと思うと眠れん」などと言って、母に怒られていた。
吉永小百合は、特にすごい美人ではない。
それまでの有名女優というと、小津安二郎の映画によく出ていた"永遠の処女"こと原節子とか、『君の名は』の岸恵子とか、いかにも銀幕のスターらしい決してウンコなんかしない正統派美女タイプ。一般庶民には手の届かないところにいらっしゃる。
しかし、吉永は庶民派である(もちろんサユリストは、ウンコなんかしないと信じていた)。高嶺の花の豪華絢爛な美ではなく、素朴で躍動的な健康美。
特に十代の頃はほっぺがはちきれそうにパンパンで、二の腕が太く、どこか田舎臭くさえある。もんぺも白いソックスも似合うが、ハイヒールは似合わない。
数多く出演している青春映画では、ほとんど女学生役、それも頑張り屋さんの級長タイプだ。雨にも負けず、風にも負けず、西に嘘やゴマカシがあれば行って正し、東に困った友人がいれば駆けつけて励まし、相手の目は真っ正面からひたと見つめ、思ったことをハキハキと口にする「正しい少女」である。
このキャラクターは、純愛ものでもほぼ一貫している。純愛映画での代表作は、『泥だらけの純情』『愛と死をみつめて』『愛と死の記録』といったところ。全部死んじゃう役だが、あくまで健気でいったん決めたことは決して曲げず、痛ましいほど純粋かつひたむきに愛を貫く少女なのである。


何に出ても体当たりで熱演し、常にキラキラと相手を見つめる瞳に鬱陶しいほど訴求力のあった吉永小百合。「一生懸命」という言葉は、彼女のためにある言葉だ。「屈折」という言葉は、彼女の辞書にはない。演技はどれもほとんど同じなのであるが、熱演であることだけはひしひしと伝わってくる。
純愛という言葉には純粋、純情、清純、純真といったイメージがあるが、吉永がヒロインを演じる場合はそれプラス、熱心、熱望、熱血、熱中、熱烈、熱愛。そういうものをウザいと言っていては、彼女の純愛映画は見られない。


相手役の俳優は、青春ものでも純愛ものでも、圧倒的に浜田光夫である。六十年代初頭には高橋英樹、後半では渡哲也といった俳優とも組んでいるが、浜田光夫は吉永の相手役として頭角を現し、ほとんどそれだけで記憶されている人である。
吉永・浜田は、純愛コンビ、純愛のゴールデン・カップルなどと呼ばれ、コンビとしてだけでも二十本以上の映画で共演している日活のドル箱スターであった。
彼女が活躍した六十年代には、若手スターのグラビアや映画情報が掲載された「近代映画」「日活映画」という映画雑誌がある。そこから吉永関連の記事のタイトルをいくつか拾ってみよう。
夢見るひととき・吉永小百合さんグラフ、吉永小百合ABC、小説・吉永小百合物語、美しきハイティーンの星、吉永小百合・二つの顔、快調な純愛路線、光り輝く名コンビは愉し、吉永・浜田・仲良しコンビ対談、吉永小百合の人間的形成について、小百合ちゃんといっしょに二十才のオシャレを!、女に挑む小百合ちゃんの重大な心意気、小百合ちゃんには負けないぜ!(浜田)、夏のジュニアゆかた/吉永小百合、純愛映画は花盛り、夢がいっぱい!日活純愛路線七つの鍵!、小百合ちゃんのヨーロッパ日記、吉永小百合ちゃんへ21の質問、ワァー!素敵 小百合ちゃんだ!(ファン訪問)‥‥
キリがないのでこのくらいにしておくが、出る号出る号、吉永のグラビアや記事満載である。「小百合ちゃん」だらけ。
当然、吉永小百合特集号も何度か出ており、頻繁に雑誌の表紙やグラビアを飾り、国民的アイドルの座を不動のものにしていた。





吉永小百合のヒット作から、『泥だらけの純情』と『愛と死の記録』を見てみよう(書籍と共に記録的な大ヒットとなった『愛と死をみつめて』については、拙書参照)。


『泥だらけの純情』(六十三年)は純愛ものの名作と言われる、六十年代を代表する作品である。吉永・浜田コンビの八作目で、「真面目な女子+ヤンチャ君」という人気キャラを演じている。
翌年には韓国でリメイク(正確には著作権無視のパクリ)され、七十七年にも山口百恵三浦友和で再映画化された。ちなみに韓国版は更にリメイクされて、ペ・ヨンジュン主演のドラマにまでなっている。


不良学生に絡まれていた真美(吉永)を助けたヤクザの下っ端の次郎(浜田)は、「澄んだ瞳の中に俺の姿が映ってやがった」と惚れてしまい、喫茶店に「怖くて」入ったこともない金持ち箱入り娘の真美も彼に惹かれてつきあい出し、貧しい次郎の職探しまで心配してやるのだが、母親に交際を猛反対されて「ママは真美の敵よ!」と逆上。
思い込んだらテコでも動かない吉永"真美"小百合と、ヤクの売買の罪を一人で被って自首を承諾させられていた次郎は駆け落ちし、新聞には「誘拐か?階級を超えての愛の逃避行か?」などと書き立てられ、雪山で心中してしまうという話。
しかし違和感のあるのは、次郎がずっと真美のことを「お嬢さん」と呼んでいることだ。道ばたで駄菓子など買って「これ食いなよ」などと気安く言っているにも関わらず、呼びかける時は「お嬢さん!」(やはり「階級」差ゆえか?)。
典型的に純愛モードなシーンもある。つきあい始めたばかりの時に、「今夜は何するの?」と尋ねる次郎に、真美が、「ジュースを飲みながらテレビで「動物の生態」という番組を見ます」と答えると、その夜次郎は、入った店で強引にテレビのチャンネル変えて、嬉しそうに同じ番組を見、嬉しそうにジュースを飲むのだ(微笑ましい)。
その一方、最初のデートで次郎は真美をボクシング観戦に連れて行き怖がらせてしまうし、真美が誘うのは現代音楽のコンサートで、次郎は退屈のあまり眠りこけそうになっている。おそらくこれだと、つきあっていくうちにうまくいかなくなるのでは?とも思える。どう見ても釣り合わない。
が、今はとにかく二人でいられれば何でもいいと。吉永小百合の純愛映画の多くは、この恋の初めの高揚感と初々しさがウリである。


雪の中ではしゃいで雪だるま作っている終わりの方のシーンでは、本当に心中するのだろうかという楽しそうな雰囲気だ。そこにふいに睡眠薬のケースと二人のマジな顔の短い連続ショットが入り、その次はいきなり真美の黒枠の写真である。
大量の菊の花に囲まれた真美の写真の後のシーンは、葬式の花輪が外にポツンと置かれたすごくみすぼらしい次郎の家。「階級」の違いをあからさまに感じさせる演出である。
若者の純粋な愛を引き裂くのは、「家」の格差、それを生み出す貧富の差のある社会、そういう社会を作った「大人」が、純愛の障害。全部オトナが悪いのさ。
非常にわかりやすい構図である。





『愛と死の記録』(一九六六年/共演・渡哲也)でも、出会ってすぐに恋心がメラメラと燃え上がり突っ走るパターンが描かれている。


ふとしたことで知り合ったレコード店店員の和江(吉永)と、印刷工場で働く幸雄(渡)は、一回目のデートで意気投合。
二回目は、バイク二人乗りしてやって来た海辺で、「空も海も空気もみんな二人のもんじゃ!この瞬間を永遠に記憶するんじゃ!」(←広島弁)と和江を抱きしめる幸雄。
もうそこで和江は結婚の意志を固めてしまうのである。早過ぎる。
帰りはふとしたことから喧嘩になり、幸雄はバイクから和江を降ろして去ってしまうのだが、雨の中をとぼとぼ歩く和江の元にまたすぐさま戻ってきて、情熱的な抱擁。
ずぶ濡れの男女が抱き合うというシーンは六十年代の映画に多い気がするが、これもメラメラと燃え上がるためには欠かせない。
幸雄は被爆者だったのでその後発病し、悩んで和江と別れようとする。しかし、一旦思い込んだ吉永小百合がそんなことでは引くはずもなく、「うちはもうあんたの妻よ」と病院に泊まり込んで献身的な看病をし、恋人の死後は妙にふっきれた顔をしていたのに、突然後追い自殺


反戦メッセージが込められた芸術祭参加作品で、かなりの力作である。幸雄が直接の戦争被害者なら、和江は間接的被害者。
それは理解できるが、バイク二人乗りでかっとばした時点から以降、「愛と死」に向かってかっとばしづめなので、二人のスピードについていくのが結構大変。
幸雄だけにピントの合っているような和江の思い詰めた瞳は、こわい。どんな作品に出てもひたむきな熱視線で通す吉永小百合に見つめられたら、動けなくなりそうだ。
最後の「あ、立ち直ったのかな」と思わせてといて、いきなり睡眠薬飲んで死んでしまうところは、すごく吉永小百合な感じである。明るく見えるが、爆弾も抱えているのだ。
どこまでも頑張り抜いて限界でポッキリ折れてしまう「正しい少女」こそ、六十年代の純愛を体現する者である。『愛染かつら』の「待つ女」かつ枝タイプは、猪突猛進のヒロイン吉永小百合によって蹴散らされたのであった。


純愛もの全体で見ると、庶民階級の女と男という設定が多いが、男が階級が上の場合は、舟木一夫のような真面目そうな優男タイプ、階級が同じか下の場合は、浜田光夫に代表される純情なヤンチャタイプである。
つまり王子様が迎えにきてくれるパターンと、不良が体を張って守ってくれるパターン。女子にとってはどちらも捨て難いものがある。
ヒロインに既婚者や子持ちのシングルマザーは登場せず、圧倒的に若い娘、つまり勤労少女か女学生である。女子高生や女子大生ではなく、「女学生」と言う。もちろん処女。健気で可憐な路傍の花の彼女達は皆明るくて、目をキラキラと輝かせ早口でハキハキ喋るという演技。


ヒロインはハキハキと明るくても、悲しい結末の待っていることがしばしばある。大抵、ラストで主人公のどちらかが死んでいる。そして年代が後半の方が「死亡率」が高い。
全般に男は不可抗力(事故、病気、戦争など)で死ぬのに対し、女は自殺が目につく。
純愛もの慣れして、より純愛度の高いドラマを求める観客は、どちらかが死なないと納得しなかったのかもしれないが、積極的に死ぬ役が女に振られているのはなぜだろうか。
女は恋を失ったら生きていけないが、男には仕事があるんで簡単に死ぬわけにはいかん、ということか。
それとも、女性客はやはり、ヒロインの悲しい最期に自分を重ねて泣いてみたかったのだろうか。
たぶん両方だろう。(続く)



●追記/純潔教育
純潔教育については、『純愛の精神誌ー昭和30年代の青春を読む』藤井淑禎著/新潮選書)に詳しい。純潔教育は、「敗戦による性道徳の荒廃の立て直しと男女共学に代表される新時代の男女関係の指針づくりとして登場してきた」もので、昭和20年代初頭から文部省による法整備が進んでいる。
「純潔」は、未婚女性の社会的な性管理に利用される言葉だった。