日本の純愛史 15 『この世の果て』にみる純愛の限界 -90年代(2)

純愛とは、「一身を犠牲にすることをいとわない、ひたむきな愛情」(新明解国語辞典)。
これが思い切りベタに描かれたのが、『高校教師』で一躍名が知れた脚本家、野島伸司の悲劇の純愛ドラマ第二弾『この世の果て』(94年/鈴木保奈美三上博史桜井幸子、豊川悦治、大浦龍宇二、横山めぐみ吉行和子)である。
都市(東京)がまだバブルの中で眩しく描かれていた『東京ラブストーリー』(91年)に対して、このドラマの東京は砂漠のようなまさに「この世の果て」。
女のために地位と名声を放棄した男と、男に究極の献身を捧げる女を中心に、様々な人物の愛憎が描かれた。ここでは主人公の士郎とまりあに絞って見ていこう。


天才ピアニストの士郎(三上)は、路上で偶然助けてくれたホステスのまりあ(鈴木)と離れ難くなり、連れ戻しに来た妻の前で自ら片手を切り裂きピアニスト生命を断つのだが、ピアノを弾くしか能のない男にロクな仕事はなく、まりあのヒモ的存在になり下がった自分に苛立って荒んでいき、二人を妬むホステス、ルミ(横山)の罠にかかって覚醒剤中毒となりしまいにはヤクザに追われる身に‥‥という悲惨極まりない展開である。
毎回これでもかというほど不運が二人に襲いかかり、ぐったり疲れるドラマであった。
一番疲れるのは、まりあが明るく気丈で献身的であるのに比例して、士郎が精神的にどんどん腐っていくところである。
仕事にあぶれ、毎日女から昼食代をもらって大人しくお留守番の毎日。ほとんど"飼い犬"と化した男のプライドが傷つくのは、女より優位に立てるところが何一つないからだ。
女が男より優位に立てるところが何もないとプライドが傷つく、という話はあまり聞いたことがない。女がそういう関係を受け入れるのは、"飼い犬"に甘んじてきた歴史が長いからかもしれない。


まりあは、ヒモ男を責めることもなく養い、「俺の手を返してくれ」などと理不尽なことを言われても耐え、士郎の暴力(覚醒剤による錯乱)が原因で子供を流産したにも関わらず、自分に掛けた保険金の受け取り人を妹(桜井)から彼に書き換えて、飛び込み自殺(失敗)まで敢行する。
非現実的なほど出来過ぎな女、"聖母"まりあ。
いくら好きでも、なんでそこまで? 


その背景と思わせるのが、まりあの子供時代のトラウマ話である。
彼女は少女時代、親に愛されていないという思いから自宅に放火し、父を死なせ妹を失明させた過去をもつ。今は手術費用捻出のために昼夜働き、ある意味で妹べったりの姉になり、それが原因で妹との間に確執が生じている。
つまりまりあは、贖罪意識によって過剰に献身的な「母親」ぶりを発揮してしまう女である。男がダメになればなるほど頑張るのも、同様のメンタリティだ。苦しみに依存しそれを快感とするのは、悲劇的な状況にナルシシズムを感じる「女の業」にも見える。
彼女は、薫(101回めのプロポーズ)や繭(高校教師)と基本的に同型である。
つまり野島伸司の描く純愛に生きる女は、皆「不幸を背負った病んだ聖母」タイプである。そういう女を「理想」として描くところに、「そんな女、いるわけねぇよ(‥‥でもいてほしい)」といった野島伸司の捩じれた願望がうかがわれる。


またこのドラマの場合、ある決定的な過去がその人の人格に大きく影響しているという設定は、ヒロインだけでなく、登場する人物の大半に及んでいる。
彼らの行動の逸脱は、すべて過去にあった「愛の喪失」の結果として描かれる。
たとえば、まりあの母(吉行)は二度夫を失うという体験のために、今は虚無的な毎日を送り、士郎は愛情のない妻に管理されたピアニストだったから、まりあの「無償の愛」に溺れ、まりあの客で実業家の征二(豊川)は妾の子という生い立ちだったから女を憎み、まりあの妹へ想いを寄せる淳(大浦)は元コインロッカーベイビーで顔に醜いあざがあったから、根性がひねくれてストーカー化し、ホステスのルミはレイプ被害時に恋人に逃げられたという過去のために、カップルを破滅させたいと思うようになり‥‥。
その他、結婚式前日に事故で植物人間になった妻を看護し続けて、そこらの「犠牲的精神」は信じなくなった医師や、かつてルミに騙され妻殺しをさせられて復讐に燃える男など、息苦しくなるようなトラウマと不幸な過去のオンパレードだ。
描かれるのはネガティヴな人物像であり、屈折していない者はほとんど登場しない。登場しても花屋の夫婦のように、善意が災いして思わぬ犯罪を呼んでしまい不幸になるという調子。一方、底辺で生きる者や罪に苦しむ者は、幸せを掴むために並々ならぬ苦労を強いられ、それが報われるとは限らない。


映画や小説においても、90年代は「トラウマ流行り」であった。
純粋な愛が外的障害(貧困、社会、他人の嫉妬)によって阻まれているような筋書きを作りながら、本当の原因は個人のトラウマ=「心の闇」にあるかのように思わせるこのドラマの作りは、明らかに当時の流行に従ったものである。




純愛を描くのに、献身や自己犠牲は「効果的」だからよく使われる。まりあの一途な行動は、他の人物に様々な影響を与え、視聴者を圧倒する。
しかしそれが愛情の純粋さ、深さによるものなのか、彼女の病理あるいは「女の業」に由来するものなのかは、冷静に見ると実に微妙だ。


最終回で世間一般的な幸せを掴みかかったまりあに、最大の「不運」が訪れる。
士郎を覚醒剤中毒から救い出すにも関わらず、元のさやに収まってはまた相手をダメにすると考えた彼女は、征二(豊川悦治)のプロポーズに応じるのだが、岸壁でこっそり見送る士郎の姿を結婚式を挙げる教会に向かうヘリの窓から発見したとたん、思い出が走馬灯のように頭を駆け巡り、なんとヘリから東京湾にダイビング。
玉の輿まであと一歩で、すべてが元の木阿弥となる。
私なら、散々人に甘えて迷惑をかけ続けた一文無しの士郎より、大金持ちで自分のことを大切にしてくれそうな征二の方に行くだろう。まりあによって初めて愛情に目覚め、ヤクザに大金払って士郎から手を引かせ、思わぬ流産で妊娠不能な身体になった彼女を引き受ける征二の方が、百倍信頼できそうだ。みすぼらしい野良犬みたいな三上博史を最後に見つけてドキッとしても、見なかったことにする。
ドラマを見ていた大半の女はそう考えただろう。もうトヨエツにしとけと。


しかしまりあは、決して"野良犬"を捨てることができない。士郎は自分が初めて心を開くことのできた男であり、自分のためにピアニストの一生を棒にふったのだから、自分だけが勝手に幸せになるのは、やはり無理だということなのだ。
彼女のような女にとって、最後に士郎を偶然見つけてしまったのは、「不運」というより「宿命」である。
一命をとりとめたが植物人間になったまりあを、士郎は"奪還"する。
「君を失うことで君を取り戻したのだ」「僕の未来を君に捧げる」
記憶と意志をもったヒトとしての女は失われたにも関わらず、士郎は「取り戻した」としている。そこで初めて彼が、人形のような彼女より"優位"に立てるのだとしたら、皮肉な運命だ。男女のどちらにとっても、ヒロインが死んで男が回想するという古典的パターンより、残酷な結末になっている。


視聴者は、まりあの派手な自己犠牲シーンに目を奪われ、究極の純愛ものを見たような気にもさせられた。『この世の果て』は当時、相手に対価も代償も求めず、死すら恐れない「無償の愛」を描いた感動ドラマとして受け止められた。
しかし、男女はすれ違ったままで終了する。ここには、「幸福で十全な男女関係」に対する根本的な懐疑が感じられる。このドラマは、純愛への憧れと純愛への諦念に分裂しているのである。


ただ、それまでの純愛ドラマにはなかったのが、純愛の底知れない「精算力」だ。
士郎はまりあと出会ったことで、生き方を全面的に変更した。天才ピアニストとしての地位と名声の放棄と、恵まれた環境と人間関係の放棄。その代償が大き過ぎたために、彼は底辺まで転落した。
まりあは、生き方を根本的に変えたというわけではない(彼女は終始一貫している)。士郎だけが、それまでのレールに乗った人生を破棄し、そこから時間をかけて別の生き方を選択した。
別の生き方とは、名もなく貧しく自分の十字架(自分のために廃人となった女)を一生背負って生きるということである。それは士郎が最初から求めていたものではない。純愛の延長線上で必然的に選ぶことになった、かつては想像もしなかった生き方だ。
一時的に転落したとしても、当初の望み通り憧れの女と結婚できた『101回めのプロポーズ』とは、そこが決定的に違っている。転落したまま二人だけの幸せに充足したいと願った『高校教師』の先を描いているとも言える。


純愛の底知れない「精算力」とは、夢の実現ではなく、純愛が破壊を通じて個人にもたらす思いがけない人生のリセットのことだ、というのがこのドラマの回答である。
純愛は、恋の成就というハッピーエンドや感傷的な回想に、当事者を留め置いてはくれない。まったく予期せぬところまで連れて行き、そこに置き去りにするものだ、と。そこまでを描いた点においてのみ、私はこのドラマを評価したいと思う。





さて、『101回目のプロポーズ』も『高校教師』も『この世の果て』も、男はかつての純愛黄金期の主人公のような青少年ではなく、青年期を過ぎた大人である。彼らは、社会的転落と引き換えにしか純愛をまっとうできない(九十年代後半の『青い鳥』『失楽園』も同様)。純愛は、今現在の状態を確保したままでは手に入らないものとして描かれている。
だが現実問題として、そんな究極の選択をできる人は極めて少ないはずだ。男が女のために進んで一生を棒に振るなど、ファンタジーの世界である。そもそも「そんな女、いるわけねぇよ」という諦観がある。
つまり描かれる女は、実は具体的な恋愛対象としての女ではなく、男が初めて自覚した「自分の欲望」そのものだと見るべきではないか。
「社会の欲望」(金銭欲、名声欲、物欲、消費欲、勤労意欲、学習意欲など、社会が人にインストールした欲望)を手放して、「自分の欲望」(何かあるいは誰かとの熱い緊張関係の中で一瞬一瞬を輝かせたいという凶暴な欲望)を生きることの困難さと自由。それがたまたま「純愛」という不可能な形を借りて現れているように思う。


従って男女関係という観点から見ると、恋愛の喜びとかせつなさとか醍醐味といったものは、ここではもはや重要な意味を持たない。
ポイントは、「自分の欲望」を生きることにおいて生じたリスクを、彼がどのように背負ったかという点である。
それがもっとも完成度の高い形で描かれたのが九十七年の『青い鳥』(豊川悦司夏川結衣)であるが、男性が主人公のドラマが続いたので、次回は『星の金貨』の分析でこの連載の締めくくりとしたい。(続く)