なぜ売春婦差別をするのか

蔑まれる仕事

そろそろ収束しそうな感じもあるが、議論がなんか込み入ったことになっている(というか、いた。煽り満載で)。たくさんのページにリンクを張るのは大変だし、たぶん全部順番に読む人はいないだろうと思うので、議論に言及して複数のリンクを張ってあるところからチョイスさせて頂きます。


いませんよ。(Je vous en prie)‥‥発端はこのあたり(既にブログ閉鎖されました)

わたしもたいがい育ちが悪いがそれに輪をかけておまえはほんとうに育ちが悪い反吐が出る。(顔を憎んで鼻を切れば、唇も消える)‥‥侮蔑された元売春婦の人。この後連続して関連記事が上げられている(現在、記事は削除されている)。
他人の職業にわざわざ貴賤をつける愚かな人々。(想像力はベッドルームと路上から)‥‥上の議論について述べて反響を呼んだ記事。これから読んだ方がわかりやすいかもしれない。
売春婦を差別しないという人の欺瞞(とーびーらーんぶしー)‥‥自分の記事を書いた後で読み直したら、この次の記事恋愛至上主義と売春婦差別の中で、私の書いたことの半分くらい既に書かれていた。けどまあいいや。
「いかなる理由があっても差別してはならない」というトートロジー(*minx*[macska dot org in egxile)‥‥何が差別なのかを巡って。このあと「売春者への蔑視発言を巡る議論」始め3つほど記事がある。


途中から一連の関連記事を追ったが、「差別とは何か」という話に入り込んだ中で議論が食い違ってきて、大元の「なぜ根強い売春婦差別があるのか」がなかなか見えてこないような気がした。
差別そのものを巡る議論は重要なものだと思うが、私が強く関心を引かれるのは「売春婦差別の根幹にあるのは何か」「なぜ人は売春という仕事を蔑むのか」ということだ。


「売春婦」に侮蔑的な視線を送り、彼らが差別されても当然と思う人がいる。またそうした言動をとる人がいる。
その原因には単純に、売春が「良くない行為」「恥ずべき行為」だと、物心ついてから親を始め様々なメディアを通して言われてきたということがまずあるだろう。
「売春は、体だけでなく心をすり減らすものだ」というような言説も耳にしたりする。もちろんそういう仕事は、売春以外にもたくさんある。ほとんどの労働が、体だけでなく心をすり減らすものではないか。しかし、なぜか売春だけが特別視される。
直接的な性行為でなくても、性を売っている職業もいくらでもある。サービス業に従事している大半の女性は、何らかの形で性を売っている。女性らしい身だしなみ、化粧、媚態、すべて女性の「性」に特化したものだ。しかし、なぜか「売春婦」だけが蔑視の対象になる。


それは、金銭を介さない(恋愛)関係の延長線上になされる「愛」のあるセックスが一番「正しいセックス」だという観念が、どこかにあるからだと思う。セックスとは愛し合った相手とするものだと。セックスという「愛の行為」をお金に替えてはいけないのだと。だから売春は卑しい職業だと。セックスを持ち上げることが、一方でセックスを貶めることになってしまうという現象がある。
セックスと「愛」とを緊密に結びつけ、それ以外のものとの結びつきを排除してきたのは、恋愛至上主義である。「愛」と結びつけられて広まった恋愛至上主義の中のセックスの観念が、女性の性を管理する純潔思想を広めると同時に、売春という職業への差別視線を育ててきた面は多分にあるだろう。


私も、売春は「恥ずべき行為」「卑しい職業」という刷り込みの中で育ってきた。
映画や小説で描かれる「売春婦」を見て少しその認識を改め、「セックス・ワーカー論」や「性の自己決定権」という概念に触れて、また少し考えを改めた。『東電OL殺人事件』を読んでまた別の角度から考え、中村うさぎのデリヘル嬢体験記を読んで‥‥。
それでも正直に言えば、私の中には売春という職業を、他の職業よりも特別視する心性が根強くある。自分が個別の「売春婦」を侮蔑したことはなくても。
しかし同時に「女はみな売春婦である」という言葉にも、悲しいが深く同意する。私は分裂している。分裂しながら「なぜ売春婦差別をするのか」について考えてみる。

セックスへの信仰

たとえば、恋人とするセックスがいいか、そうでない相手とのセックスがいいかについては、いろいろあろうと思う。私のように恋愛感情がないとする気が起きない性的柔軟性に欠けた人(きっと恋愛至上主義に毒されているのだ)もいようし、下手に恋愛感情がない方が快楽を追求できる人もいよう。惰性や義務でできる人も。人がセックスをする理由は様々だ。
しかし広く行き渡っているのは、セックスにおける「愛」の至高の位置づけである。


「愛」を媒介にしてセックスするべきだ/するのが良いという観念。
そこから生まれる、セックスと金銭を交換する行為への忌避感。蔑み。
ここには、セックスに対する人の「恥の感覚」と、お金というものへの「恥の感覚」の二つがあるのではないか。


何でも金銭に換算する人は嫌われがちである。人はお金なしに生きていけないのにも関わらず、お金のことをあまりに云々する人ははしたないと言われることがある。
それは、人のお金に対する欲望は深く、そして浅ましいものであると自覚するからだろう。だから「お金のためではなく自己実現のための仕事」をしたいというキレイごとも、口をついて出る(ワーキングプアには夢のまた夢だ)。
同様に、セックスを「愛の行為」として恋愛のピークに持ち上げているにも関わらず、人はなぜか自分のセックスを隠したがる。あからさまなセックスの話をはしたないと言う人もいる。
それは、人の性欲が倒錯しており、そこにひたすら自己満足のエゴが多分に含まれることを、密かに自覚するからではないか。それで性欲を「愛」に保障してもらわないと不安になるのだ(自由に快楽のみを追求できる人は別だけど)。


挿入を条件とするセックスそのものは、男女の非対称性をその場で即物的に明らかにしてしまう行為である。そこで女性の身体は原則的に、「受け入れる立場」となる。セックスにおいて多くの男性が支配欲、征服欲を満足させられるのは、ジェンダーの影響もさることながら、そのセックス機能と構造が持つ「能動態」からも来ているはずだ。
だからセックスの根源にあるのは、一種の「暴力」である。そして性欲は、具体的に人にひけらかすことの躊躇われる欲望となる。そこに「恥の感覚」は刻印されてしまっている。
だが私達はその欲望を手放すことがなかなかできない。だからそこのところを「愛」にカバーしてもらうのだ。あるいは「暴力」性を各種のサービスによって快楽に転化してもらう。


人が、自分の恋人や母親や娘に「売春してほしくない」と思うとしたら、その「愛」に保障されないセックスにおいて、非対称性は前面化することを感知しているからだと私は想像する。
どこかの男による「支配」「征服」の形式を受け入れることによって、彼に性的快楽を支給する彼女。にも関わらず、もしかしたら見かけは「愛のあるセックス」と見分けのつかないセックスが展開されるかもしれない。まずそのイメージが受け入れ難いだろう。
恋人同志のセックスと売春のセックスと、どこが違うとはっきり言えるのか。売春婦は演技するが恋人は演技しない? そんなことは証明しようがない。
明確にあるのは、金銭授受の有無だけである。食事を奢ってプレゼントしてその後セックスしたら、金銭授受に形式は限りなく近くなる。目に見えない「愛」で境界線を引かない限り。


人が売春という仕事を蔑み、時に「悪」であるとまで断罪するのは、セックスにあるべきだと"信仰"されている「愛」の存在が揺らぐからである。恋愛のピークにあるべき「愛の行為」の信憑構造が崩れるからである。
もちろん巷でそんなものはとっくの昔に崩れ去っているのは、知っている。でも自分がその当事者にはなりたくない。いや自分もその当事者かもしれないと想像したくはない。だって自分は彼女/彼を愛しているではないか。"だから"セックスしたいと思ったはずではないか‥‥。


金と性。その二つは、人の欲望の「恥」の部分を引き受けている。「恥」であり、同時にまごうかたなく「真実」の部分を。それが、売春という仕事に凝縮されているように見える。男女関係を美しく仕立て上げてくれる恋愛至上主義は、そこで打ち砕かれる。粉飾してくれるものが何もないのである。
そのことに耐えられない人の一部は、売春婦に侮蔑の言葉を投げつけ、売春という職業を攻撃することで、自分の"信仰"を守ろうとするのかもしれない。