日本の純愛史 16(最終回)『星の金貨』、マレビトの奇跡 -90年代(2)

九十年代のテレビドラマで目立っていたのは、『ピュア』『ひとつ屋根の下』『家なき子』など障碍者が登場するドラマである。そこでは概ね、障碍者=純粋な心をもった者という設定で作られていた。
純愛ドラマで粘り強く愛を貫こうとするのも、障碍者の方である。聴覚障碍者が主人公の『愛していると言ってくれ』と『星の金貨』の人気で、手話を習う若者が急増という現象まで起こった。


星の金貨』(酒井法子大沢たかお竹野内豊細川直美)では、恋人の記憶喪失というもっと強力な純愛の障害によって、ただでさえ「弱者」である聴覚障碍者のヒロインが、散々辛酸を舐めるという話。人気に乗じて『続・星の金貨』『新・星の金貨』が作られているが、ここでは大ヒットとなった最初のドラマを取り上げよう。

星の金貨 VOL.1 [DVD]

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両親に捨てられた聴覚障碍者の彩(酒井)は、北海道の片田舎の診療所で医者の秀一(大沢)の助手をしている。ある時、東京の大病院の息子である秀一は親から呼び出され、帰って来たら彩と結婚することを誓って北海道を発つ。
その後音信不通となった秀一を探して彩は東京に出て来るが、彼は事故で記憶を失っており、その事故で知り合った祥子(細川)に愛されている。
彩は秀一の勤務する病院で働き彼に献身するものの、二人の仲は秀一の記憶喪失によって立証不可能になっており、彩を思い出せない秀一と祥子の関係が進展していく。
祥子は大会社社長令嬢で、いかにも育ちの良さそうな華やかな美人。それにひきかえ、彩は身よりのない貧しい小娘。もう昔の少女マンガによく出てきたような、鮮やか過ぎる対比である。
彩は秀一に「私があなたの婚約者」と伝える勇気がなく、大病院の御曹司の秀一とは社会的に不釣り合いである自分の立場に"引け目"を感じつつ、いつか彼の記憶が蘇るのを信じて辛抱強く待っている。その精神構造は、『愛染かつら』のかつ枝と似ている。
一方、秀一の弟、拓巳(竹野内)も病院の勤務医なのだが、優秀な兄に嫉妬し、彩が兄ばかり追いかけるのも気に入らず、不貞腐れて遊んでいる。これまた鮮やか過ぎる対比だ。


さて、大怪我をした彩の執刀医となった秀一が、手術の最中突然宙を見つめてつぶやき出す場面がドラマのピークである。
「身よりのない貧しい少女が、一切れのパンを持って歩いていました。その少女は‥‥」
秀一と彩の過去を繋ぐキーモチーフのアンデルセン童話である『星の金貨』の、出だしのフレーズだ。貧しい少女が自分よりも貧しい子供達にいろいろなものを分け与え、最後は裸同然で歩いていると、空の星が金貨となって降ってくるという話。
「金貨」は、自己犠牲を厭わない底辺の弱者に、最後にもたらされる天の恩寵である。秀一はかつて北海道時代に、彩に手話でその童話を語り聞かせ、いつも「彩の上に星が降る」と締めくくっていたという伏線がある。


ようやく空白の二年間を取り戻した秀一は彩に改めて愛を誓い、祥子に「結婚できない」と告げるのだが、祥子の妊娠が発覚して責任を取らざるを得なくなるというジェットコースターのような展開。
絶望した彩は入水自殺を図るが患者に助けられ、諦めて北海道に帰ることを決意。
空港まで追いかけてきた秀一は再度「北海道で結婚しよう」と言うが(ってもう祥子と結婚式挙げてしまった後)、彩は「あなたの子どもに私のような思いをさせないで。私は後悔してない」と涙目の笑顔で去っていく。


つまりヒロインの努力は報われない。ほぼ一方通行の愛である。その代わりに、逆境の中で彼女の中に芽生えていく「強さ」がテーマとなっている。
それは、拓巳との絡みでよく描かれている。うるさくつきまとう拓巳を拒否しつつ、彼の怠惰な姿勢を叱りつけ、医者としての自信をなくした拓巳が「俺を殴れ!俺の中の臆病を殴り飛ばせ!」(こういう大袈裟なセリフが多い)とすがりつけば、容赦なく平手打ち。まるで厳しいおかんである。
そもそも「北海道」という彼女の出身地がキーだろう。
北海道の大自然に生きる人々は、どこまでもピュアで心が広く芯が強く、母なる大地並みのスケールの愛に溢れている。実際はそうでもないかもしれないが、そういうイメージがある。


ドラマ全体を見ると、大病院の中に渦巻く陰謀やワルモノ理事の悪事などドロドロしたところは、火曜サスペンス劇場のノリだ。
涙や平手打ちや取っ組み合いがよく出て来るところは、人情刑事もの。
記憶喪失や、異母兄弟である秀一と拓巳の、彩を巡る確執などは、後の『冬のソナタ』のモチーフと似ている。
登場人物が多く関係が運命的に絡み合っていくとこは、まるでドストエフスキーの小説のような重いノリ。
童話は「星の金貨」だけでなく、「人魚姫」も入っている。
溺れた王子を助けて彼に一目惚れし、魔法使いに頼んで人間にしてもらった人魚姫は口が訊けないので思いを伝えられず、彼女が自分を助けたとは知らない王子は他所の国の王女と結婚し、人魚姫は海に身を投げ泡と消える。ドラマ『星の金貨』は、それと同形の話である。
事実、彩は入水自殺する際、「あの人魚姫のように小さな水の泡になります。海になり土になり風になりそして星になり、あの人を永遠に守ります」という遺書を書いていた。


火曜サスペンス劇場+人情刑事もの+冬ソナ+ドストエフスキー+童話。
強力だ。強力過ぎて、今見ると引く場面も多い。





同じ失恋と言っても、彩は『東京ラブストーリー』のリカとは対照的である。
リカは押しまくって自分のプライドを守るために別れたが、彩は引きまくって相手の幸せのために別れている。彼女の献身愛が、自分の幸せを願う以上に秀一の幸せを願うものである以上、この結末は避けられない。
自分の気持ちに正直であることを評価する人は、リカを支持するだろうし、自己犠牲に美しさを見出す人は、彩に感動するだろう。ただ九十年代の中頃に彩のようなヒロインが現れたのは、象徴的である。


まず、こんなにさまざまな屈辱を味わう女が、戦後の純愛ものに登場したことはなかった。
リカの失恋がいくら惨めだったとしても、彼女は自信に満ちた都会の"キャリアウーマン"であり、「負け犬」になるかもしれないが「負け組」になることはない女であった。
だが彩は、垢抜けない田舎娘で孤児で障碍者というハンディを背負った、根っからの"弱者"である。「一番弱い者がとうとう最後に幸せを掴みました」というお約束的結末も、採用されない。
しかし九十年代の半ばになって、一身を犠牲にすることを厭わない「おしん」のように耐える古典的なヒロインが出てきたのは、リアルな女を描いては純愛物語は成立しないという見切りがあったからだろう。
おしん」で「おかん」。それが、九十年代中期の純愛ドラマが理想的に描いた純愛者(女)である。


彩は困難にメゲず、周囲の人々に惜しみない無私の愛を注ぎ、まるでマザー・テレサのようなあり方によって、病院の人々に認められ患者を感動させ、遊び人の拓巳を魅了し彼の改心まで促した。
しかし彼女の上に「星の金貨」は降らない。彩は最終的に、何もご褒美を手にすることがない。
彼女の純愛がもたらしたものは、その成就=「彼女の幸福」ではなく、「みんなの幸福」である。
病院は彩がそこに登場して以降、潜在していた「病根」が徐々に明るみになって混乱をきたし、彩の退場をもって「正常」を取り戻す。彩は、腐敗した共同体に亀裂を入れ再修復を促すマレビトなのだ。
彩の純愛の効果は、「みんなの幸福」というかたちで周囲に還元され、彼女を再び元の孤独にさし戻す。
本人に幸せは訪れないが、思いがけないプレゼントを周囲の人々に残す一種の「奇跡」として、純愛は描かれている。だから男女が結ばれない結末は必然だと言える。


周囲に還元された「奇跡」の効果は、拓巳に象徴的に表現されている。彼は医師としての自覚を取り戻し、投げやりな生活態度を改め、最終的には東京の大病院の勤務医の地位を捨てて、彩のいる北海道の片田舎の診療所までやって来る。
もちろん拓巳の純愛も報われないだろう。恵まれた環境に甘えてきた男が、初めて「自分の欲望」に従って生き方を選択したということだけが、純愛が彼にもたらした効能である。





戦後の純愛ものの大雑把な流れをまとめると、次のようになる。


a 五十〜六十年代‥‥‥乙女と青春、純潔純愛
b 六十年代末〜七十年代前半‥‥‥暴走と心中、挫折純愛
c 七十年代後半‥‥‥古典回帰、アイドル純愛
a'八十年代‥‥‥純愛暗黒時代、トレンディドラマ全盛
b'九十年代‥‥‥悲劇と無償の愛、命がけ純愛
c'二〇〇四年‥‥‥レトロと癒しと泣き、韓国風味純愛(詳しくは拙本参照)


各時代の傾向は、世相を反映しながら反復されている。そのことを示すために、a-a'、b-b'、c-c'という対応関係を作ってみた。
まず、なぜ純愛黄金期(a)と純愛暗黒時代(a')が対応するのか? 
五十〜六十年代(a)は、右肩上がりの経済成長が始まった時代である。純愛映画から次々若いスターが輩出され、純愛往復書簡や手記がヒットし、ジュニア向けの純愛小説が量産され、純潔の若い恋が謳歌された。純愛それ自体が「流行もの」。つまりこの当時の純愛ドラマは、一種の"トレンディドラマ"だった。
日本が戦後空前のバブル景気で浮かれていたのが八十年代(a')である。この時期盛んに作られたトレンディドラマでも若手スターばかりが起用され、消費を背景とした若者の恋が謳歌された。
内容はまったく異なっても、若い女子に受ける「流行もの」としての位置づけは、両者同じなのである。


b-b'はわかりやすい。六十年代の学生運動に代表される政治的高揚感とその挫折の結果として、六十年代末〜七十年代前半(b)の純愛映画が悲劇的であったように、九十一年のバブル崩壊の結果として、九十年代(b')の純愛ドラマはシリアス路線だった。九十年代に、ファッションや音楽で七十年代回帰が起こっていたことも、この現象と符合する。
そして七十年代後半(c)に、カリスマ的アイドルがレトロな純愛物語を演じたと同様の現象が、二〇〇四年(c')に起こっている。cのカリスマは山口百恵、物語は古典文芸もの。c'のカリスマはペ・ヨンジュン、物語はレトロ趣味。
レトロと言えば、八十年代を回想した「セカチュー」も同様。セックスの匂いがしないところも、共通している。
こうした反復の中で、純愛は実際にはありえないもの、不可能なものとしてのイメージを強めていった。


明治の恋愛至上主義は、純潔賛美の精神主義から始まり、やがて恋愛結婚流行の下地を作った(一九三五年、69.0%の人が見合いで結婚しているが、二〇〇〇年、見合いで結婚する人はわずか7.1%。一方一九三五年、13.4%の人が恋愛結婚しているが、二〇〇〇年、恋愛で結婚する人は86.6%。逆転は六十年代半ばに起こっている)。
現在まで引き継がれている純愛ものの核心たるテーマは、もう純潔でも恋愛結婚に至る道でもなく、「相手の唯一無二」性である。恋愛ドラマでよくあるように、別の相手との間で揺れ動くことなく、主人公はほぼ迷いなく、自分にとって唯一無二と信じる対象に向かっていく。相手への信仰に近い愛が、純愛である。


「連載のはじめに」で、私は純愛を「任侠」になぞらえた。「純粋でベタマジで思い込んだら命がけ」。
大義や理想に全人生を賭けられる人は、幸せだと思う。自分の生と引き換えにしてもいいほどの何か。普通の人間にそんなものはない。それは、「ありえない、不可能なもの」だ。
しかし生の無意味さに、四六時中向き合っていくことはできない(人生の無情さや無常さに向き合い耐えることはできても)。そこで人は生き甲斐を見出し「人生の意味」を作り出す。意味の濃度が高まると、そこに「唯一無二」性が求められる。だから純愛はもともと、相対化や多様性とは対立している。


信心が嵩じて死に至ることもある。
ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』は、純愛を信仰に変え「殉教」する女の話だった(当ブログ内映画評はこちら)。純愛は「ひたすらな愛」であり、相手とずっと共にいることを求めるものであるのに、それが極限まで追求されてある閾を超えてしまうと、純愛そのものをつまり自らをぶち壊すのである。
純愛は突き詰められると自壊する。純愛者は「向こう側」に突き抜ける。
アートにとてもよく似ている。