土方のバイト

昨日から、夫がまた土方のバイトに行っている。
101回目のプロポーズ』の武田鉄矢みたいに、私に心底惚れ直してしまって指輪を買うために働いているのではない。予備校の仕事がこの時期暇なので、家でごろごろしているのももったいないし、小遣いもないから。
四十代の男で特別なスキルも資格もなく何か仕事をと思うと、土方のバイトくらいしかないのである。
私も同じような身分なので、今の仕事が完全になくなったら、美術関係の個人教授以外ではパートのレジ打ちか掃除婦くらいしかないだろう。


土方といってもいろいろあるが、彼の行っているのはビルの防水塗装の仕事である。その防水工務店のM氏には、例の仲良しのT氏の店で知り合った。
「景気よさそうだなあ。俺、金ないからなんか仕事回して」
と夫が冗談半分本気半分で言ったら、実は人手が足りなくて困っていたということで、暇なら是非と言われたのである。それで、一回目は二月下旬に十日間だけ働くことになった。一日行って一万円。T氏には
「あんたみたいな人が肉体労働なんかできるの? どうせ三日で音を上げるんじゃないの?」
と散々冷やかされていたが、夫は
「よし、十日で十万だ」と張り切っていた。
「それに、これでちっとは痩せるかもしれん」
痩せないのはジムをずっとサボっているからだってば。まあ私も最近サボりがちなので全然痩せないが。


仕事はマンションの屋上の古くなった防水塗装を剥がして、新しく塗り直す作業である。
毎朝六時に、私の作った弁当を持って出かけて行った。まだ二月は寒かったのでズボンの下にスキー用のタイツ穿いて。事務所に行って作業着に着替え、現地に行き、六時過ぎに事務所に戻ってくるというパターンだ。
一緒に仕事するのはM氏ではなく、そこで働いている五十代半ばの親方である。夫の話によると、この人が滅法無口な職人気質の人で、必要最小限の指示しか出さない。
「だから俺いちいち訊いたよ。こっちから訊かんと、自分がどういう作業やってんだかわからんもん」
何でもどういうシステムになっているのかということを常に詳しく知りたがる夫は、逐一質問しては「ああそういうことなんか」と納得してやっていたそうだ。
「でないと、あんな単純作業黙ってやっとれんぞ。かがみっぱなしで股関節痛なるし、さびーしよ」


毎日ヘロヘロになって帰ってきて、お風呂に入ってご飯を食べるとすぐグーグーと寝てしまうという、健康的な生活になった。外に飲みにも行かない。だらだらテレビも見ない。いい傾向だ。戸外なので陽に灼けて、だらけきっていた顔もやや締まって精悍になってきた。
水筒のお茶が半分しか減ってないので訊いたら、
「親方が昼休みにチューハイ買ってくれた」
酒飲んでやってんの? いいのそれ。
「俺はそう飲まんけど、親方が飲むんだわ。まあちっとは飲まなやっとれんぞ。屋上、さびーしよ」


最後の五日は東京に行ってくれと言われて、親方と出張した。東京にはM氏の弟さんのやっている事務所があるのだ。そこに名古屋から上京している役者修行中の若者がおり、三人で仕事していたようだ。
夫は親方とウィークリーマンションに泊まり、仕事が終わると二人で銭湯に行って、赤提灯で一杯飲んで帰るという、まさに出稼ぎブルーワーカーの生活。雨の日は仕事ができないので、パチンコに行って稼いだそうだ。東京まで行ってCRエヴァンゲリオンか。
夫はわりと仕事の呑み込みが良かったらしく、結構間に合う人として認めてもらい、都合のつく時はいつでも来てほしいと言われて、授業の始まる前にもう一稼ぎということで、昨日から一週間また土方である。なんか知らないけど、イキイキしている。
でも一生その仕事をやれと言われたら、そんなイキイキはしてられないと思う。頭脳労働ばかりしてきた人が、たまに一週間とか十日とかやるだけだから新鮮に感じるのであって。


夫は職人的な手仕事に憧れがあるらしい。テレビを見ていて、漆塗り職人とか竹細工職人とかが出てくると、
「いいなあ。俺も職人になろうかな」
と言う。そんなの今更無理なのだが、目が羨望の眼差しになっている。
「ああいう、実際にモノを触る仕事をしたいなあ」
でも技術がないじゃない。
「じゃあ、たこやき職人でもいいわ」
なんでたこやき。
「例えばの話。原価幾らで今日の分は何個作って、儲けは幾らってわかりやすいだろ。自分が作ったものを自分が売って人に食べてもらって。なんかはっきりしとるがや。儲からんでも、そういう実質的な仕事がしたいんだよ俺」


‥‥‥わかりました。じゃあ老後はたこやき屋ということで。それまでは防水職人の下働きということで。予備校非常勤は当面の命綱なので、頑張ってなるべくクビを繋いでおくように。大事なバイト代を、パチンコと飲み代につっこまないで貯金しておくように。
あと、誰か私に仕事をください。