『美しき町』の美しき諦観

恋愛結婚とお見合い結婚

天才マンガ家高野文子の作品集『棒がいっぽん』には、『美しき町』という短編が収録されている。


時代はおそらく、昭和三十年代の終わりか四十年代の始め頃。工場労働者が多く住む町のアパートで、つましい生活をスタートさせた新婚夫婦の日常が描かれている。
特別ドラマチックな出来事が起こるわけではない。ベタベタした新婚の風景も、微笑ましくバカバカしい喧嘩もない。この若い夫婦の間にはいつも、まるで三十年連れ添った夫婦のような、控えめで淡々とした情感が漂っている。
彼らは、お見合いで結婚している夫婦だ。
サナエさんは、お見合いの一回目で、「いい人だと思うわ」と結婚を承諾する。相手のノブオさんは、特別な魅力があるとかお金持ちとかすごい男前というわけではなく、普通に真面目な工場労働者。
サナエさんが結婚をすぐ決めたからといって、「結婚に対して投げやりな気持ちだったわけでは」ない。お見合いの場面はちらっと最初に描かれるだけだが、二人の間の控えめで淡々とした情感は、結婚への認識が共通するところからきているものだろうと思わせる。


昭和三十年代は、まだ若干お見合い結婚の方が多いが、恋愛結婚がどんどん増えていった時期。恋愛結婚の数がお見合いを追い越すのは、昭和四十年前後。
昭和三十二年に結婚した私の両親は、恋愛結婚だった。父は古典的な恋愛至上主義者のロマンチストだったし、母も白いウェディングドレスと恋愛結婚に憧れを持つ、ごく普通の女性だったようだ。
私はと言えば、お姫様が運命的に王子様に出会って結ばれるというシンデレラ物語にどっぷり浸かって成長してきたので、結婚は恋愛の延長線上にしか考えられないという精神構造が、十代でしっかりできあがっていた。
そもそも二十代の終わり頃まで結婚を具体的に考えることなどなく、ただ恋愛に夢中になっていた。結婚を決めたのも恋愛の延長線上で、お見合いではなかった。


今は、お見合い結婚と恋愛結婚を単純に比較するのが難しくなってきているように思われる。
お見合い結婚には、「そういう形で結婚するのが普通」とか、「家と家の関係優先」といった、かつてのような縛りはほとんどなくなった。ブライダル産業などが主催するお見合いパーティが盛んだが、それも、第三者の介入によって一対の男女を結婚を前提とした恋愛関係にもっていくシステムでしかない。
お見合いパーティに参加する人だって、今は多かれ少なかれ恋愛至上主義の洗礼を受けている。一方で、結婚のメリットとリスクを十分鑑みて判断せねばならないという見方も浸透している。さらに、「恋愛相手=理想の人」と、「結婚=理想の人生」というファンタジーが入り交じっている。
「自分の価値を冷静に審判し、自分と釣り合っていそうなそこそこのところで手を打ち承諾する」という、昔は常識とされた判断をしないまま、お見合いを繰り返す人も多いだろう。

恋愛至上主義の外で

瀧澤氏が恋愛と恋愛至上主義について最近死にたくなるほど誰かを愛してしまう理由という記事を上げていた。そこのコメント欄の後半でこの間、(恋愛が)「翼賛されたのは、端的に資本主義と家族イデオロギーの関係を包むものとして都合が良いからでしょう」という指摘が入った。
資本主義社会と近代国家成立のための最小単位である近代家族は、明治以降の恋愛至上主義+ロマンチックラブ・イデオロギーによって下支えされてきたという認識を踏まえれば、こうした指摘が入るのは当然とも言える。
私がこのような言い方をするのは、もちろんその手の本を読んだからだが、
「パパとママが出会って好きになって結婚して私が生まれて、パパは家族のことが大好きだから一生懸命働いて、ママも家族のことが大好きだからみんなの面倒を見てくれて、それで私は不自由のない生活ができて、こういう家族がいっぱい増えれば世の中がうまくいって、みんなが幸せになれるんだ」
みたいなことは、子どもの頃に信じていたと思う。その信仰の是非はここでは問わないが、そう教育されていたということは後で気づく。


で、たとえばフェミニズムは、そうした「愛」によって、近代家族における家父長制が隠蔽、もしくは粉飾されていると指摘してきた。
だからフェミニズムとしては恋愛至上主義を、ジェンダー観点から根底的に問い直さないといけないわけで、夫婦別姓なんて言ってる場合じゃないのだが、そこをあんまりつつくと「恋愛は素晴らしいもの」という世の中の一般的価値観に水を指してますます支持されなくなるので、表立ってあんまり言えなくなったというジレンマに陥っているようにも思われる。


恋愛至上主義下では、異性愛の男女の関係は、恋愛という「愛」を通じて形成されるのが理想となる。結婚は、熱烈な恋愛の末にするのが理想となる。
でも恋愛感情っていつかは醒めるものだよね。恋愛感情がなくなった時に残っているものは何だろう。そして、恋愛感情なしに形成されるものは何だろう‥‥。


サナエさんとノブオさんは、恋愛至上主義と結びついた恋愛結婚が世の中の主流となり始める時代に、地味にお見合い結婚を選んだ人たちである。たぶんこのくらいの人が自分に釣り合っているのだろうと謙虚な判断を下し、あっさりと結婚した。
恋愛至上主義に多かれ少なかれ影響されている立場からは、それが「自分という可能性に満ちた物語」に夢を持たない寂しい態度にも思えるだろう。


物語の最後の方で、ちょっとした出来事が起こる。一段落ついてから二人は、「たとえば三十年たったあとで、今の、こうしたことを思い出したりするのかしら」と、口にはしないが思う。
これが恋愛結婚した”新婚ラブラブ夫婦”の心情なら、面白くも何ともない。「そんなのロマンチックラブ・イデオロギーに洗脳されてるだけだ」とツッコミが入るだろう。
しかしサナエさんとノブオさんは、そうした「愛」ゆえの高揚感とは無縁である。おそらく高野文子は、「二人は淡々と結婚生活を続け、三十年後、あの夜のことを思い出したりするだろう」という確信のもとに描いているのである。


「理想の相手」を追い求めずお見合い結婚した地味な新婚夫婦の、ささやかな記憶をずっと先の将来へ投影する想念に、その静かな想念で締めくくられたエンディングに、私はいつも胸をつかれる。
ああ、こういう美しい諦観が、最初から私に備わっていたらなと思うのである。