なぜ「使う時には注意が必要」なの?

昨日のエントリについたtomo-moon氏のブクマコメント

「相手を性的に好ましいと看做した上で出てくるようなからかい」 それは周囲からみると必ずしも気持ちのいいものではない場合もあるので、使う時には注意が必要ですね。(その逆だと、いじめに取る人もいる)

「周囲から見ると」ということは、公開されているやりとり、つまりネット上でのやりとりが想定されているのだろう。そこで「必ずしも気持ちのいいものではない場合」とはどういう場合なのだろう。またそういう場合があったとして、なぜ「注意が必要」なのか。そのあたりを考察してみる。


「相手を性的に好ましいと看做した上で出てくるようなからかい」の一例は昨日書いた。そういう男女が冗談っぽくやりあっているのを見るのは、私は別に不快ではない。むしろ「この人たちギリギリのラインを楽しんでるんだな」と思い、その戯れ合いがどこまでうまくできているかに興味を抱く。
同性同士でもそうだと思うが、男女のファックコミュニケーションの場合、ギャラリーがいることを意識して、より面白いやりとりをしようという意識がどこかにある。つまりネットでのファックコミュは、わりと気心の知れた男女間の言葉遊びであると同時に、周囲のギャラリーに見せている芸でもある。ファックコミュは結構人目を引くものだから、そうしたことをまったく意識せずに発言するということは、まずないと私は思う。
これがメールのやりとりだったりすると、他者の目がない分、行き過ぎてベタな性的戯言になったり、逆に一方がキレてマジな喧嘩に発展したりしやすいかもしれない。しかし自分達のやりとりが見られているということを意識すれば、遊びと芸を両立させようとするのが普通である。


さてそこで、「周囲からみると必ずしも気持ちのいいものではない場合」について。
第一に考えられるのは、一方が厭がっているのが見えるのに、もう一方が追いかけて攻撃している場合である。ファックコミュは両者の合意のもとに行われる遊びだから、明らかに均衡が崩れるとちょっと見苦しい。芸としても成り立たない。
だがそういう場合でも、やめたくなった方はスルーするなり相手に抗議するなりその場から消えるなり、防衛手段はあるわけである。無理矢理セクハラ会話に付き合わされているなどということは、弱みを握られて脅迫されているとか、なんらかの明白な権力関係がない限り、ありえない。
少なくともネット上でファックコミュニケーションできる男女に、そういう関係は想定しにくい。


そうすると、「周囲から見ると、必ずしも気持ちのいいものではない場合」とは、「ファックコミュ自体が苦手なギャラリーにとっては、それが気持ちのいいものではない」ということだろうか。そういう人はいると思う。どんな言説もやりとりも、誰かを絶対に不快にさせないという保障はないわけだから。
私がまだ十代のネンネの頃であれば、そうした会話を見たら「いやっ。大人ってなんてケガらわしいの!」とショックを受けたかもしれない。大人になってみて初めて、「あ、こういうのもありかもね」と思えるのである。それでも「気持ちのいいものではない」と思えば、そういうところは読まずに飛ばせばいいのである。
たとえば私はジェンダーの授業で性的な事柄についてかなりあからさまに話すことがあり、それは話す必然性があってしているのだが、百数十人の聴講生の中には、「こんな話、聞きたくない」と思う学生もいるかもしれない。聞きたくなければ席を立って出ていけばいいが、授業だから一応聞かざるを得ないという状況がある。そうすると、その学生にとって私の話は「暴力」以外の何ものでもなくなる。教室は権力空間だ。


しかしネットは教室ではないので、無理矢理読まねばならないことはない。これはちょっと不快だなと思ったら、さっさと別のページに飛べる自由がある。
そういう回避する自由が誰にも平等にあるからこそ、両者合意の元でなら、どういったコミュニケーションをするのも自由ということになっているのだ。するのも自由、しないのも自由、読むのも自由、読まないのも自由。
AとBが、男女のファックコミュニケーションをしていたとする。それをCが見て「気持ちのいいものではない」と思ったとする。しかしA、Bには楽しむ自由があり、Cには読まない自由がある。もちろん批判する自由もある。
だがこういうものを論難するのは、テレビで紳介が千秋にセクハラまがいのツッコミをしているのを見て、「不快だ、やめろ」と怒っているのに似ている。あれは芸なのだ。厭だったらチャンネル変えれば済む。
従って、A、Bに、「周囲」に「気持ちのいいものではない」と感じる人がいることを考えて「注意が必要」とは言えない。そもそも、デリケートな人を不快にさせないように注意して、ぬるいファックコミュをやってもらっても、見ている方としてはちっとも面白くないし、やってる方も興が乗らないだろう。そんなんだったら最初からやらない方がましなくらいだ。


と考えてくると、tomo-moon氏の言う「周囲からみると必ずしも気持ちのいいものではない場合もあるので、使う時には注意が必要ですね」とは、どういう場合なのだろうか? 私には思い浮かばないのである。


そこで、自分を当事者にして考えてみた。
私はファックコミュニケーションが苦手な女だとする。他人のやりとりを読むのも聞くのも苦手だ。ただ、ファックコミュで男性と楽しく会話できる女性が、ちょっとうらやましい。だって男性とのコミュニケーションで、普通より幅とテクニックを持っているわけだから、それはアドバンテージでしょう。
そういう女性を疎ましく思う気持ちもある。あんなに簡単に「女」を大安売りしちゃって。またそこに男が群がるんだよな、あームカつく。
また男Aと女Bが楽しそうにファック会話している。私からしたら読むに耐えない酷い内容だ。なのに、互いに好感を抱いているからかえらく楽しそうだ、ムカつくわ。
Aはああいうことさえしなけれりゃいいのに、簡単に乗るからイヤんなる。Aのことを嫌いになって完全無視できれば楽だ。でもそれができない。イライライライライライライライラ。
私はイライラが募るあまり、ブログで
「ファックコミュニケーションできる女って、いろんな男の気を引きたいアバズレだ。男の方も単なるスケベ根性で相手してるだけ」
などと書き、
「それはいくらなんでも言い過ぎではないか」
とpalさん始めとした男女コミュ論者にたしなめられた。
違うんだ、私はAがBとファックするのが許せないんだ。私の見えるところでファックしないでよ!しかけるなら私にしてよ!相手にしてやんないけどね! 
そして私はBのような「寛大な女性」に敵意を示すエントリを、延々と書くようになってしまった。


‥‥ネットは広大なので、そういうふうに自分の嫉妬感情に振り回されて、変に拗れてしまう女性がいないとも限らない。それはまあ致し方ないとは言え、不幸なことである。
なので「使う時には注意が必要ですね」と、tomo-moon氏は釘を指しているのだろう。非常に細かい気配りだと思った。私はそこまで他人に気を遣って書けないな。