行動規範と個人的倫理

今回の一連の騒ぎ(?)で、「問題行動の見過ごしは連帯責任か?」という点が各所で言及されているので、改めて自分のスタンスを明確にしておきたい。


私はもともとこれを、ネットのあらゆる人間関係に一般化してはいない。
通りすがりに問題ある言動を目撃しただけだったり、問題の相手と数回やりとりしたことがある程度の第三者に、「注意すべきである」というような規範を一律に押し付けることは難しい。
行動規範を当てはめることが可能だと考えられるのは、継続的でかなり親和的(コメント、ブクマ、トラバなど含めて)な人間関係の中においてである。
その中の1人によって、親和的でない者への脅迫を含む問題発言が繰り返されている、その者が抗議しても対話にならない、あるいはそれを見越して諦めている、その他の関係ない人も面倒が嫌でスルーしている、そういう「場」において、「当人の周囲の親しい者が傍観していないで何か言うべきだ」ということになるのではないか。だからそれに当てはまると思われた「特定の事象」を暗示した。


私の記事を受けてアップされたkanose氏の記事も、その事象に限定言及のものである。
kanose氏が、別にMarco11氏と仲良しでもないのに、「今後問題だと思ったMarco11さんの行為を見かけたら触れていく」と書いた理由が、個人的倫理に基づいていることは明らかである。つまりその「場」に参入はしていないが、第三者として看過しないという個人の意見表明だと私は捉えている。
kanose氏は「はてな村」の村長と言われているらしいので、その言明を「場」にいる人がプレッシャーとして受け取ることは、あり得るだろう。
しかし一方、実際はネットに村長も警察もないのだから、kanose氏があらゆる「ネット上の暴力」をチェックしてないからと言って非難される謂れはないだろうし、またすべての第三者がkanose氏の倫理を基準にせねばならないわけでもない。
それを行動規範として一般化しようとすれば、「無理なのだろうか‥‥無理でしょうね(溜息)」という結論になりがちである(参照:ブロガーの行動規範、はやはり無理なのだろうか)。


先に書いたように「場」が明確に形成されている場合においては、そこに関わっている者(自分が関わっているかどうかの基準は、個々の判断に任されるしかない)に、行動規範は適用されて然るべきだと思う。
だが「スルーした責任」はまず第一にその本人が自分に問うべきものであって、第三者(しかも群れ)による過剰な責任追及は、無意味な党派性しか生み出さないだろう。
そうした行動規範から完全に自由でいたいなら、それに替わる強力な個人的倫理が必要となる。自分の言動が暴力を容認していることになったとしても、より大切と思える自分の規律、価値観に従うことが、その人の変えられないスタンスであればそうなる(Marco11氏は基本的にそういう人かもしれないとも思う。よくわからないけど)。


たとえば、書くことが誰かを傷つけることになる可能性が常にあるのを認識し、どこから来るかわからない批判は覚悟した上で、あえて書くという立場を私は否定しない。それも個人的倫理だと思う。
否定したいのは、コミュニケーションにおいて傷つくということがどういうことかよく知っているにも関わらず、「場」から発せられる暴力的言辞と自分がまったく無縁であると信じて疑わないようなメンタリティである。