DQN、ビッチはなぜモテるのか

「いま、ここ」の欲望の充足

「殴らぬオタより殴るDQN」「ヤラせぬ喪女よりヤラせるビッチ」
いつものように、話題が過ぎ去った頃に遅れてひっそりのパターンです。あちこちでエントリがかなり上がっていてリンクをはるのも大変なので、そのあたり省略。


「殴らぬオタ〜」の意味としては、Masao_hate氏のこの記事に、
「DVやら浮気やら平気でするような酷い男が、そんなことはしない自分よりもモテているという一部で起こっている現実を見て、一部女性の見る目のなさや恋愛の不条理さを、表現したり嘆いたりする言葉」
という説明がある。「ヤラせぬ喪女〜」はその女性版ということらしい。
そこで「殴る」と「ヤラせる」の位相の違いから、単純に男女逆転できないというような議論もあったようだ。つまり「殴る」ことにDQNは何の呵責もリスクもないだろうが、「ヤラせる」ビッチは当事者としてメンタル的にも身体的にもまったく問題ないのかといったあたりで、男女の性の非対称性の話になる。


しかしそれ以前に、なぜわざわざ「殴らぬ/殴る」、「ヤラせぬ/ヤラせる」という形容詞をつけているのか疑問に思った。「不条理」感がよりはっきりと出るからかもしれないが、「オタよりDQN」、「喪女よりビッチ」だけで意味は通じる。
具体的に言えば、
「オタ」ク男性はそもそも女性に対して積極的な行為に出る"イメージ"はない(殴らぬ)。
DQN」には暴力的な"イメージ"がある(殴る)。
「喪女」は「モテない女」だから性的に奥手でガードの固い"イメージ"(ヤラせぬ)。
「ビッチ」は性的に奔放な女性、日本語だと「ヤリマン」の意である(ヤラせる)。
女を殴るオタもいるとか、モテる喪女もいるとかいう話ではない。それぞれの単語の中に、「殴らぬ/殴る」、「ヤラせぬ/ヤラせる」はイメージとして含まれているということだ(これ既出だったらすいません)。


「オタよりDQN」、「喪女よりビッチ」とは、異性に対して積極的な行動(その中身はどうあれ)に出る者がモテる、というある現実を語っている言葉である。彼らは性的積極性を示すために、外見的にも性的魅力をアピールしていることが多いだろう。
しかしこのわかりやすさが「軽さ」「バカさ」と捉えられるので、長く継続するパートナーや結婚相手を求めている人は、いかにもDQNなチャラ男や見かけ軽そうな女はリスキーと察知して近づかない。
もちろん男女関係が長期継続する保障はどこにもない。ただ、短期よりは長期の方が「良い」といった見方はある。性的関係を人間関係として(も)確立する互いの「努力」と「信頼」への賞賛がバックにあって、初めて長期男女関係は「良い」とされる。
もっと言えば長く平和な婚姻関係(あるいはそれに近い関係)を男女関係の理想とする思考のもとに、浮気やDVをするDQN、気に入れば誰とでも寝るビッチは「努力」や「信頼」を軽ろんじる存在として敬遠される。


しかし彼らはモテる。一部で? どうだろうか。性的魅力を誇示し異性に対して積極的な者が多くの場面でモテやすいというのは、普遍的な事実ではないだろうか。
結婚というものに魅力がなくなってきたり、結婚(そして子育て)など経済的に無理だと思ってしまえば、長期保障付きの安定株を血眼で探すことより、その時その場の欲望に従って生きたくなるのは尚更ではないか。「努力」や「信頼」という時間と忍耐を要するもの、未来への投機を前提とした思考は、そこでは価値が低くなる。
そう思って生きている人は、刹那的に輝やいて見えることがある。そんなものに魅力を感じない者にとっては、底の知れた付け焼き刃のまるで模造ダイヤみたいな安っぽい輝きかもしれないが、たとえそれが”まやかし”のものであっても、同じく長期戦略を持たない(持てない)、「いま、ここ」の欲望の充足を求める若い男女を魅了する。
だからDQNやビッチはモテる。

愛と暴力

「殴るDQN」について考えてみる。
「殴る」は、力の強い者が弱い者を従わせるもっともプリミティヴな行為である。これがプライベートな男女間で起こってDVになり、時として深刻な共依存関係を作り出すとして問題になる。
しかし、仮に女性がDQNに殴られているところを見て間に割って入り、そのDQNをボコボコに殴り返して退散させたら、その男性は女性に感謝されるだけでなく、「勇気のある強い人」として好意をもたれる場合があるかもしれない(報復されるとかいう話は別として)。
つまり「殴る」という暴力行為は効果的に使うこともできる。
男という性のもつ攻撃性、支配欲は、「殴る」という行為から「セックスする」という行為にまで、ある程度通低していると私は考える。殴るのもセックスも、ベクトルが違うだけで同じく暴力性を孕んでいるとも言える。
暴力的なセックスなんか厭な女性でも、好きな男性が性的に積極的であることを好ましく思う人は多い。セックスにおいて「強い」ことを求められるのは圧倒的に男性だ。
男性の女性に対する積極的な行為が「強さ」や「勇気」の象徴として捉えられるとすれば、殴るという暴力が自分に向いてきた時でさえ、それを愛情の裏返しと取るような倒錯も起きる。DVを繰り返す男が暴力の後は打って変わって非常に優しくなるといった現象も、女性の判断を狂わせる。それが甘えに基づいている行為でしかないことは、見えなくなるのである。


ということは、セックスという一種の「暴力」を受け入れておいて、殴られることを拒否するとしたら、それは単に痛いか痛くないか、という物理的な刺激の絶対値だけの問題になってくる。
セックスだって女性の場合、身体的苦痛を快感に転換するメカニズムが働くことがあるわけだから、ますますセックスと殴ることの境目は曖昧になっていく。男性のセックスにおけるサービスと、殴った後の愛情表現は、本質的に似ているかもしれない。
‥‥とか書いていて、だんだん憂鬱な気分になってきた。
まるで「女性は男性の暴力を喜んで受け入れる者である」と言っているみたいではないか。”フェミニスト”にあるまじき考察だ。
しかし「愛と暴力は表裏一体のものである」という意見に違和感を感じる人も、「愛と支配は表裏一体のものである」という意見には多少は賛同してくれるのではないかと思う。


「愛」の名の下に支配されないために女性がしたことは、「男並み」になることである。男性が自由な恋愛を謳歌していたなら、女性もそうしてしかるべきだと。
「ビッチ」はその延長線上にある存在様式として捉えることもできる。誰にも所有されず支配されず、己の欲望だけに忠実に「自由」に生きる女。『愛より速く』で七十年代末にデビューした斎藤綾子を思い出した。あの本は十九歳の私にとって実に衝撃的だった。
「ビッチ」を求める男性がいるのは、性的関係を結ぶことで、かりそめでも女性を支配できたという感覚を容易に味わえるからだと思う。ところが相手は「ビッチ」だからその幻想はすぐに破られる。
つまり「ビッチ」が避けられる理由の一つは、相手が自分のものにならない、支配が完全に及ばないことを知っているからだ。これはDQNを嫌う女性にも、ある程度言えるのではないか。相手を支配はしないまでも、独占しておきたい気持ちは、ごく普通の恋愛感情である。


女性を殴るDQNが許し難い存在なのは当然であり、暴力で相手を支配するのは忌むべきことに決まっている。
しかし一方で、男女の「愛」の中には見えない暴力が抜き難く刻印されているとしたらどうだろう。「愛」とは「支配」の別名なのだとしたら。「愛」という名の「不自由」の中に私は進んで身を投じてきたのだとしたら。
なぜそんな苦痛の中に快楽の源がある気がするのだろう。