誰にも嫌われたくなかった

観察者と当事者

高校のときいつも一人の女の子がいた(Say::So?)※ブログは閉鎖されました
教室で独りで本読んでた私が鬱陶しく思った人(素晴らしい人的行動(うどんこ天気)
「自分嫌い」が許される性しあわせのかたち


一番目は、クラスの中で孤立気味だった女子を近くで観察していた立場からの文章で、二番目は逆にその当事者の立場からのもの。三番目は、書き手は観察者で相手に拒絶された体験。
どの文章も面白くていろいろ考えさせられるが、私が注目したのは、前者二つが「女子の話」で、三番目が「男子の話」ということだ。


「女子の話」は観察者にしても当事者にしても、それぞれ思うところを相手に問うたり吐露したりしないままで終わっている。両者の間には強固な壁があって、そのことをそれぞれの書き手は(立場は違えど)感じているが、特に「出来事」は起きていない。決定的な「出来事」が起こらないから、余計にさまざまな「思い」が渦巻いたりする。
それに対し男子の話では、観察者は当事者を排除しようとした人に怒りを見せたにもかかわらず、最後に当事者から、はっきりと拒絶の言葉が「壁」越しに投げられるというオチがある。投げられて初めて観察者は、その「壁」の厚さ、高さを思い知った。だからある種結構イタいエピソードにもなっているのだが、「ああ、男の子の話だなあ」という感じがした。個人差はあるとは思うが、「女の子の話」でここまではっきりすることは少ないだろうなと。


自分はというと、中学では「教室で独りで本を読んでいた」方だが完全に独りぼっちでもなく、わりと仲のいい友達がいた。友人間のことより、先生に虐められて転校した経験の方が重い。
高校は(美術科だったせいもあるかもしれないが)、話の合う友達が少し増えて嬉しかった。孤立している子もなく、概ねざっくばらんであっけらかんとした雰囲気だった。大学も同じ。


一番友達関係が重く肩にのしかかっていたのは、小学校時だった。
小学校高学年の女子のグループというのが、なんかいろいろ大変だった。
その時のエピソードを、ある文章の中で書いたことを思い出したので、冒頭に掲げた各記事のテーマとはややずれるが、ここに抜粋、再掲しておこうと思う(全文はこちら)。

小学生女子の憂鬱

昔から、子どもの頃から、女はグループを作るのが好きだった。遡れば小学生の頃から女子は小集団を作って、しょっちゅう集まってはヒソヒソペチャクチャクスクスやっていた。男子はあまりグループで固まらないし、ヒソヒソもやらないが、女子はやる。そして「集団になると女は怖いよな」とか男子に言われて、ますます集団の結束を固める。もちろん水面下のグループ間の対立、抗争もある。


私の小学校時代もそうだった。クラスの中で四つか五つくらいにグループが分かれて、それぞれほぼ別行動。その中でもっとも勢力の強いのが、勉強も運動も上位で、男子にわりとモテる女の子たち五人くらいのグループであった。
リーダー格の女の子は、五年の初めに転校してきた美少女である。たまたま家が近所だったので、私と彼女とは間もなく互いの家を行き来するくらいの仲良しになった。そういう仲になった都合で、私はその勉強も運動もできるモテグループになんとなく入っていた。
私の成績は、国語と音楽と図工を除いて、勉強も運動も「中」である。男子にモテるわけでもない。だから私はそのグループでちょっと浮いていたわけだが、リーダーの一番のお友達(というかお気に入り)なので、他のメンバーは渋々黙認していた。もちろん当時の私にそんなことはあまりわからず、楽しく一緒に遊んでいるつもりでいた。


クラス替えもなくそのまま六年になったある時、どういうわけだかテーブルマナーの授業があった。女子も男子も和室に入れられて、お行儀良く紅茶とケーキを食べるのである。今思うとつまらない授業をやったものだと思うが、みんな前もって教えられた通り、正座して静かに紅茶を啜り、黙々とケーキを食べた。子どもにとってケーキは嬉しいが、変に緊張させられる場面である。
そんな中で私は、思わずフォークをポトリと膝の上に落としてしまった。こういう他人のチョンボを、モテグループの女子が見逃すわけはない。その後の反省会の時、「なにか気づいたことはありましたか?」との先生に問いかけに、グループのナンバー2の女の子が「ハイ!」と手を挙げた。
「大野さんがフォークを落としたのが、いけないと思いました」
そんなこと、わざわざみんなの前で言わなくてもいいだろう。誰だってフォークくらい落とすよ、手が滑れば。
そう思ってその子(斜め後ろ)を見やると、にこっと小首を傾げながら「ゴメンネッ」と言って着席したのである。一瞬殺意を覚えた。


それからそのグループの女の子たちは、私をシカトし始めた。いつもは一緒に遊ぶ昼休みも誘わない。私が話しかけても聞こえないふり。そして時々固まってこっちを見ながら、ヒソヒソやっている。
仲良しだった彼女まで掌を返したような態度なのに、私はひどく傷ついてしまった。「どういうわけ?」と尋ねることもできなかった。何か自分に落ち度があったかなあといろいろ考えてみるのだが、フォーク落とした以外には思い浮かばない。
噂で聞いたところによると、「大野さんてちょっと国語や音楽ができるだけなのに、なんかナマイキで気にくわない」みたいことを、グループ内で言われていたらしい。フォーク落っことしは、格好のツッコミネタだったのである。
そこまで言われたら「フン!」となるのが普通だが、私はクヨクヨと思い悩んでしばらく学校に行くのがつらい日が続いた。


その間、グループのあいだで小さな合併だの独立だのあって、私は結局マンガ描くのが好きな子たちの、まあ少しマイナーなグループに入った。クラスで孤立しているのは堪え難かった。モテグループはますます幅を効かせていて、他の女の子たちは目をつけられないように大人しく振る舞っているという状態であった。
そこにまた転校生がやって来た。
その子は、やや知能の遅れがあるが、特殊学級に行かずあえて普通学級に入ってきたという女の子だった。先生は「みんなで助けてあげるように」と彼女を紹介した。ひどく引っ込み思案で勉強も運動もまったくついていけない彼女に、最初はみんな優しく接していた。モテグループはお手本を示そうとしてか、特に何かと親切にしていた。
しかし一方で、イジメが始まっていたのである。


あるグループが講堂の掃除当番の時、その転校生一人にモップがけをさせているということを、誰かがモテグループにチクったらしい。すぐさま、その他の女子全員がモテグループに招集されて講堂に集まった。
そして「裁判」が始まった。
虐めたとされるグループは、クラスで一番地味で大人しい女子のグループだった。彼女たちをモテグループが取り囲み、すごい剣幕で口々に詰問した。
その他大勢はただ固唾を呑んで見守るばかり。地味グループの子たちは、問いつめられて何も言い返せず泣きそうだった。涙目で睨みつける子もいた。
結局、彼女たちは講堂のモップがけを、みんなの前でやり直しさせられた。モテグループがステージの上で監視し、その他大勢はやっぱりその後ろにゾロゾロと突っ立っていた。
ステージの上の十数人は「勝ち組」、下でモップがけしている5、6人は「負け組」という、明確な構図。


ステージの上に私もいた。集団の中に紛れて下から自分の姿が見えないといいと思った。別に悪いことをしているのではないが、居心地が悪い。かといって、一人だけ帰るのは許されないような。
誰か「もうやめようよ」と言ってくれないかな。
正しい側に立っているはずなのに、このいやぁな気持ちはなに。

小さな集団の中で

モテグループがクラスの女子の上に君臨してエバった態度をとってきて、一番鬱屈した思いをしていた地味グループが、そのはけ口を抵抗できない弱い転校生の虐めに求めたのである。
それを制裁したのが、「正義」を代表するモテグループ。
その他大勢は黙ってそれに従うだけ。
まるで世界の縮図のようだと言っては言い過ぎであるが、ある意味、典型的ないじめの構造がそこにあったかもしれない。まだ「いじめ」という言葉はない時代で、中身もずいぶん他愛無いことのように思えるが、小学生にとってそういうことこそ大問題であった。
とりわけ、どこかの集団に入らないと生きていけない(と信じている)女子にとっては、クラスの友達関係や自分のポジションが、人生の明暗を決するとも思えるほど重い。そこがうまくいかなくて「負け組」になったり孤立したりすると、朝起きるのさえ苦痛になる。それが嵩じたら、死にたくなるくらいにツライ。
小学生生活は長いのだ。大人から見たら狭い世界でも、子どもにとってはそこがすべてである。
私は女子の世界の容赦のない残酷さに、いつもどこかで怯えていた。能天気に見える男子が羨ましかった。
(中略)
モテリーダーの女の子が卒業と同時に転校することになった。疎遠になってしまったが、前は仲良しだったので少しばかり寂しい思いをしていると、彼女がやってきて「お別れ会があるから大野さんも来て」と言われた。そしてきまり悪そうに「今まで無視しててごめんね」と付け加えた。
その一言でこれまでのわだかまりもすっかり溶けてしまい、私は喜び勇んでお別れ会に行った。迎えてくれたグループの女子は、「今までごめんね」と口々に言う。あの時の憎たらしい「ゴメンネッ」と何という違い。
「ううん、ぜんぜん気にしてなかったから」
嘘だ。でもそれ以外に何て言ったらよかっただろう。前のことは水に流して下さいと言われているのである。ここでウジウジしていたら、大人げないというものだ。


もっとも今さら仲直りしたところで、モテグループの女子は全員、私立の有名中学に進学が決まっていたので、地元の公立中学に通う私とこの先当分会うことはない。おそらくだから、最後くらいは後味悪くしたくないと、彼女たちも思ったのだろう。
私たちはすっかり打ち解けて、ずっと親友同士だったかのようにはしゃいだ。こんなに楽しいのは久しぶりで、私はお別れ会に招かれたことを感謝すらした。(後略)


私には、「あの子たちのことは許してやらない」というほどの恨みも、「向こうがシカトしたんだから仲良くする必要はない」というほどの自立心もなかった。「ハバにされている」という、ひたすら寂しく不安定な感覚だけがあった。
他に友達もできたのに? 八方美人だったのだ私は。
誰にも嫌われたくなかった。


どうでもいい人から好かれても仕方がないと思えるようになったのは、高校の終わり頃である。
それから数年経って、橋本治『これも男の生きる道』に、「自立する」とは人に嫌われるのを厭わないことだと書かれていて感動した。「これ"が"女の生きる道」だと思った。
しかし私が「自立する」ことの大変さを身に沁みて思い知るのは、その先のことである。