アネゴさま

古い知り合いで、ショーコさんという五十代半ばの女性がいる。彼女は昔、名古屋でハックフィンというライブハウスを運営していた。
80年代、名古屋にはロックのライブハウスがいくつかあって、その中ではハックフィンはパンク、ノイズ、ニューウェイブ系。「原爆オナニーズ」とか「割礼ペニスケース」といったパンクバンドが、そこからデビューした。まだ「アンダーグラウンド」という言葉が、かろうじで生きていた時代の話である。
ショーコさんはオシャレでトンがっていて、すごくカッコよかった。「ハックのショーコさん」と言えば名古屋アンダーグラウンド界では知らない人はいなかったし、それ以外にもともかく顔が広かった。大学を出て数年の私には、近寄り難い雰囲気があった。ああいうのをオーラのある人というのだろうなあ‥‥と、私はやや遠巻きに眺めていたのである。


私が参加していたバンドはエロバカ素人路線だったので、わりと硬派なハックフィンではライブをしなかったが、バンドの面倒を見てくれていた兄貴分のSさんが、なぜか私を大変かってくれ、バンド解散後、私がギャラリーで音と映像を使ったパフォーマンスをやり始めた時、「ハックでやってみたら?ライブハウスでもじゅうぶんいけると思う」ということでショーコさんに紹介してくれた。
それまでハックフィンに行ったことはあっても、ショーコさんと喋るのはそれが初めてだった。


私がパフォーマンスでやっていたことは、ありもののネタを加工しセクシャルな要素を加えてゴッタ煮にしたようなものだった。歌なんかも入れていた。
見た人には「ローリー・アンダーソンの影響がある」とか「ちょっと戸川純入ってる」とか言われていた。どちらかというと、美術系のパフォーマンスの人にも演劇系のパフォーマンスの人にも、”イロモノ”ポストモダンだと思われていたような気がするが、自分が現代美術の作品制作で取り組んでいることと同じことをしている、というふうに私は思っていた。つまりちょっとは自信があった。

ショーコさんは私のパフォーマンスを見たことがなかったので、「こういうことをやっている」と緊張しながら説明した。
一通り聞いてから彼女は言った。
「何をやりたいか今いち伝わってこないね。はっきり言わせてもらうと、あなたのやってるようなのは、60年代や70年代に私は散々見てきた気がする。話を聞いていても、コレだってものが感じられない。「原爆」の子だって「割礼」の子だって、「自分にはこれしかない」「これがどうしてもやりたい」ってものがあるよ。だから私はあの子達を評価している。他から見ればめちゃくちゃやってるように見えてもね。そういうものがあなたにあるの? こういうことをあなたがやる必然性があるの?」
私は60年代や70年代の焼き直しをやってるんじゃない。全然違うことだと思ってやっている。
しかし、それまで現代美術系の人向けの若干シャラくさい説明の仕方しか知らなかった私は、ショーコさんのハートを掴むようなアツい言葉が出てこなかった。
Sさんがいろいろフォローしてくれて、「じゃあまあやってみれば? でもつまらなかったら、言いたいことを言わせてもらうから」ということで、一応のOKが出た。


帰り道、Sさんは「ショーコさんはああいう人だからさ。まあ頑張れよ」と励ましてくれたが、私はただただ気分が重かった。自分のしていたことを(説明上とは言え)ハナから否定されたことがショックで、悔しいというより、出ばなを挫かれて意気消沈しかけた。


当日は機材準備のため、相当早く小屋入りした。私とブッキングされたのは、男子二人のパンクバンドだった。自分で作ったフライヤーだけで自分のお客が集まるかどうか心配だったが、当時予備校講師をしていた御陰で学生が結構来てくれて(あとはバンド関係の知り合いが十人ちょっと、アート関係が少し)、パンクバンドのファンも加わって大入り満員になった。宣伝に駆け回ってくれたSさんも、「こんだけ集まれば大丈夫だな」とほっとした顔をしていた。
ショーコさんは、始まるほんの5分くらい前に現れた。
今でもよく覚えているが、髪をアップに高く結い上げ、ノースリーブのぴったりしたワンピースからすらりとした腕を出して、隅のカウンターのスツールに腰掛け、ステージの方には一瞥もくれずにタバコに火をつけたショーコさんを見て、私は緊張が極限まで高まった。


一応無事にステージは終わった。あまり普通のライブハウスではやらないタイプのものだったせいか、最初は「なにこれ?」とかクスクス笑いが聞こえたりしたが、その後は緊張感が途切れることなく、最終的にはかなりいい感じの拍手をもらえた。
もちろん次のバンドが始まったとたん、一転して全然違うノリに客席が包まれたのは言うまでもないが。
全部終わって少しお客が退けてから、やっとショーコさんのところに行った。彼女は他のお客さんと談笑していた。
「あのぅ、どうでしたか」
「わりと面白かったよ。あなたいろいろ引き出しもってそうだしね。まあ荒削りだけど私は面白かった」。
う、うれしい。「よかったな」とSさんも喜んでくれた。


それから数回あちこちでやった後、結局私は美術作品の発表活動だけに絞り、ライブハウスからも次第に足が遠のいてショーコさんと顔を合わせることはなくなった。
ハックフィンは若い人に任せて他の店をやっていたショーコさんが、40代半ばになって理系の研究者と結婚し、仕事を辞めたという「意外」な話は、昔のバンド仲間で美容師のMさんから聞いた。ショーコさんのバリバリの現役時代からの友人のMさん曰く、
「ショーコさんもすっかり落ち着いちゃってねぇ、澄まして「ネイルもお願い」とか言ってんの。昔を知ってるからおかしくて」
意外過ぎる。

さて、それからまた十年近く経った今年の夏。
長良川に面した料理屋の二階のお座敷で、ショーコさんと私は酒を酌み交わした。毎年夫の友人が開いている飲み会に、ショーコさん夫妻も参加するようになったのである。
夫や彼の仕事仲間や友人とショーコさんが旧知の仲だったことを知ったのも、自分が結婚してしばらくたってからだった。名古屋とは本当に狭いところである。


ショーコさんは昔より少しふっくらして、着物の似合ういいとこの奥様という感じだった。私はとりあえず、ショーコさんのお召し物を褒めた。
「Mさんと二ヶ月に一回、きもの会やってるの。Mさん、わざと「奥サマ〜」って言うんだわ」
「へぇー、きもの会。それはまたプチブルな」
プチブル? あんたねぇ、こんなとこで酒飲んでそんなもん喰ってるのもプチブルなんだよ!」
ひっ、おこられた。
いやショーコさんはしょっちゅうこういう場所に来てるでしょうけど、ウチは一年に一回の大贅沢なんです。着物も持ってないし。


ショーコさんが専業主婦に収まったと聞いた時、私はなんだかがっかりしたものだった。あのショーコさんが、あそこまで頑張ってきた女性がねえ‥‥と。
しかしショーコさんの竹を割ったような中身は、昔とほとんど変わっていなかった。ニコニコしながら話を聞いている温厚そうな旦那さんの隣で、辛口トーク炸裂だ。ハックフィン時代に私にどんな説教をなぜしたかということも、事細かに皆の前で暴露されてしまった。よく覚えてくれていたのは嬉しいが、恥ずかしい。
「ショーコさん、はいお酒」
「ありがと。これさっきと違う酒?」
「そうだけど。あ、混じっちゃいましたか」
ショーコさんは一口飲んでちょっと顔を顰めた。
「あんた、仕返ししたでしょ」
ち、違います。


強烈なアネゴさまの強烈なパンチを喰らってから、二十二年目の夏だった。