「殴れば人は言うことを聞く」のなら

革命家の窮状

数日前から大揉めに揉めていた件について、私が主に見たのは、inumash氏の記事とそこからリンクされたところ。ようやくどういう「事件」が起こったのかは、何となくわかった。情報戦は大変というのが、とりあえずの感想。
ところで、この「事件」とは直接関係ないが、アキハバラ解放デモの前後も今回も、「革命的非モテ同盟のfurukatsu氏=中核派シンパ」説がしばしば出てくる。こういうことは、「組織」が政治や社会運動と関わる時に起こりやすいように思う。以下、ネットで革非同を観察してきた立場から書いてみる。


furukatsu氏はかなり前のブログで、在学中の法政大学に中核派の知人がおり、デモのやり方等の指南を受けたということは書いていたが、自分は中核派ではないと否定してきた。書いている内容はガチだがスタイルはネタ。周りもそう捉えていた。
日本国内に限って言えば少なくともこの二十年以上、左翼過激派によるテロで公衆が殺傷されたというニュースは出ていないと記憶する。だから逆に、furukatsu氏は極左活動家のスタイルをネタにすることができたのだろう。中核派との関わりを問うこちらの質問に対してのfurukatsu氏の回答も、概ね予想されたものだった。


国家や公的権力を暴力装置と看做してそれ(を代理象徴するもの)に奇襲を仕掛ける行為をテロリズムと言う、と私は認識している(かなり狭いテロの定義。広い方はこちら)。
革非同のブログが立ち上がった当初、furukatsu氏はコメント欄での私の質問に対して「無血革命ではない」と書いていたので、じゃあテロしか手段がないじゃないかと思って見ていた。私の最初の興味は、氏が法治国家で取り締まりの対象である暴力革命を志向する行為に対して、非モテの立場からどういった論理を積み上げていくかということだった。
しかしわりと最初の方でその論理展開には行き詰まったような感じもあり、その後は非モテの最大公約数が参加できる具体的実践とその啓蒙に重点を置いてきたようだ。
その中で、イベントとしては成功したらしいアキハバラ解放デモに参加した非モテの人やオタクの人が、しつこく出てくる中核派云々という情報やそれらを巡る「内紛」「事件」にドン引きするのは当たり前だろう。「中核派(過激派)=無差別殺人者集団」のイメージは「右翼=暴力団」くらい浸透している。


今やfurukatsu氏のブログではパフォーマティヴな論調は影を潜め、不祥事の発覚した政治家のごとく低姿勢。真っ赤を基調にしていたブログデザインまで、いつのまにか大人しいグレーに変更するほどの気の遣いようだ。
中核派ばかりがクローズアップされるとアレなので、民青とか一水会とか創価学会とか統一教会の方とも万遍なくお友達になって、「こいつは一体何者なのかわからん」みたいにしてしまえばどうかと無責任に思ったりしたが、それではますますマズいんでしょうね。


しかしどれだけノンポリティカルな活動だと言っても、ああいう言葉遣いでああいう恰好でやっているだけでそれ系の人の注意も引くだろう。多くの人が集まれば「無味無臭」なんてことは普通ない。
そのあたりは楽観的に、清濁合わせ呑むみたいなユルいスタンスなのかと思っていたが、それでは済まないということらしい。
左翼/右翼活動家で非モテでオタクの人が、もし純粋に「楽しそうだな」とか思ってデモなどに参加してみたくても、「そういうレッテルがついてる者に何らかの魂胆がないわけがない」と看做されるのだろう。


「政治的」な言説の限界

さて、去る19日、『奇刊クリルタイ2.0』という非モテ同人誌の打ち上げ会場で、初対面のfurukatsu氏に改めて今後の活動の目標を聞いてみた。


氏によれば、暴力革命を目指しても圧倒的な力がなければ潰されるだけなので、合法的な活動で広く非モテやシンパの人々の支持を集めることによって、一つの圧力団体を形成し政治的発言力をつけ、最終的には「非モテに対する差別抑圧的言動」を違法とすることができるほどの政治権力を得たいということである。
そこで現実の政治の命題とはなりえない「恋愛」を、どう具体的に問題化していくのかはよくわからないのだが、政治(権力)とは結局暴力であり、「殴れば人は言うことを聞く」が彼の政治哲学である。
人と人の関係は暴力によって決定される。ブログにもずっと前そんなようなことが書いてあった。
暴力起源説はそれなりの説得力があるが、えらくわかりやすい権力志向だなと思った。どこをどう切っても「男」だ。


「殴れば人は言うことを聞く」に、「それDVと同じじゃん」とinumash氏が突っ込みを入れた。女を殴って言うことを聞かせるのが一般的なDVなら、非モテ差別者達を(合法的に)殴って言うことを聞かせるのは、政治的DV‥‥やってることは本質的に同じではないかと。
furukatsu氏は活動の動機についてかつて、「告白した女性に拒否されてそのルサンチで始めた」といったことを語っている。それを思い出したので、「ほんとは自分を振った女を殴りたかったんでしょう。それができなかったから、政治的な暴力行使に向かっているんじゃないですか?」と訊いてみた。
furukatsu氏は活動初期に、「もっとも強度のあるコミュニケーションは暴力である」と言っているが、furukatsu氏の告白に対するその女性の拒否こそ、氏にとっては決定的な一撃、「暴力」だったのでは(推測)。


もちろん"フェミニスト"にそう訊かれて、「そうです」と答えるような書記長ではない。furukatsu氏は「男」であると同時に常識人であり、また近代人である。
「女を殴るわけにはいかん」「女を配給制にせよとも言えん」「封建制に戻れとも言えん」「暴力革命も無理」とごく普通に考えていって、「結局こういう路線しかないか」ということなのだろう。「組織」を大きくして政治的発言権の獲得拡大を目指すとなると、そういう論の立て方になるだろう。
だからそのやり方は、巷の市民運動や社会運動と似てくる。言説も最初の頃の一種の崖っぷち感に比べ、今は比較的凡庸な「啓蒙と抵抗の言説」の一つに収まっているように見える。そして文章を読んでも話を聞いていても、なんだかbotが喋っているような感じがする。
騒々しい打ち上げ会場で頑張って説明してくれるfurukatsu氏の顔を見ていて、どうにも腑に落ちない何かが湧いて来た。


自分を袖にした女を一発殴りたいと、どうして言わないのか。 
というか、なぜ今すぐその女を殴りに行かないのか。 
あちこちに「政治的配慮」をして消耗している場合ではないと思う。AERAに出たり、ネットラジオ香山リカなどに媚びを売っている場合ではない。
「殴れば人は言うことを聞く」のなら、まずそれを実行すべきである。
「数の暴力による自由恋愛の打倒」という、いつやってくるのかわからない未来に先送りすることなしに。


もちろんfurukatsu氏に、その女性を殴ることはできないだろう。躊躇なく殴って言うことを聞かせられれば、どんなに楽かと思っても。
そこが、「殴れば人は言うことを聞く」が届かないところ、革非同的な政治言説の限界が現れるところではないだろうか。
そして「欲望」が遡及的に見出されるところ。
「組織」の言葉もシュプレヒコールも権力闘争も役に立たないところ。


(でも「男」はやっぱりそういうのが好きなんでしょうかね)



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