弱者を救う「押しつけ」

昔から管理教育で悪評高い愛知県だが、私のいた高校は県下ではリベラルな校風で知られていた。60年代末に制服自由化運動が生徒から巻き起こり、すったもんだの末、制服廃止にまでは至らなかったが、自治会は私服通学黙認を学校側から勝ち取った。
制服反対派の意見は、
・制服制度は、高校生らしさ、○高生らしさという規範の押しつけである
・制服の強制は、服装選択の自由を奪い個性を抹殺するものである
・愛校精神と制服は関係ない
・制服は機能的でない
・男はズボン、女はスカートという規則はおかしい
・詰め襟、セーラーは軍服だから反対、など。
特に「規範の押しつけ」という点に多くの生徒が反応し、高校紛争の最中であることも手伝って、学校側も譲歩せざるを得なくなったらしい。


私が在学していた70年代後半は、全体でいつも制服の生徒が四分の一、いつも私服の生徒が四分の一、残りの半分が、時には制服時には私服という感じだった。だいぶん管理が強まってきた頃で、「私服黙認」の教師ばかりでもなくなっていた。
クラブハウスの壁の「造反有理」という落書きも消えかかっていたが、全校集会ではたびたび制服問題が取り上げられ、それがいかに理不尽な押しつけ(の一つ)であるか、管理教育の象徴であるかを上級生がアナウンスしていた。


そこで上記のような経緯と昔の先輩達の主張を知り、私は「なるほど。たしかにそうだ」と感じ入った。学校の制服制度は、私達の「自由」と「個性」を押し潰すものだ、と。
ただ私のクラス(美術科)担任は頑固な「私服非黙認派」の教師で、私服登校してくる生徒を「教師に反抗的な生徒」と看做してひどく嫌っていたので、制服通学の生徒の割合が非常に高かった。
「私服は黙認されているんだし、こんな不公平な対応はおかしい」と担任に抗議するのが普通と思われるかもしれないが、美術科だけは三年間担任が変わらない。三年間「反抗」の姿勢をとっているのは、すごく疲れる。おそらく成績評価にも響いてくる。だから一部の勇気のある人を除いて、多くのクラスメートは普段は大人しく制服登校だったのだ。


しかし文化祭や体育祭の時は、私のクラスも大抵の人が私服で登校した。夏休みのアトリエ解放期間も、みんな私服で来た。こういう時は私服でもまあ何も言われまい、という空気を読んでいた。
普段制服なだけに、たまの私服では皆、思い思いにオシャレを頑張っていた。私の親も普段の私服登校は決して許さなかったが、イレギュラーな時は容認だったので、自由な服装で学校に行くのが嬉しかった覚えがある。


そういう中で、ほとんど私服姿を見たことのない生徒がいた。
よほど制服が好きなのか、家が厳しいのか。どうしてなんだろう?
と考えていて、私はようやく「規範の押しつけ反対」の盲点に気づいた。


その生徒は、かなりの遠距離通学をしていた。電車を乗り継いで、たっぷり二時間半はかかる距離。定期でも年間の交通費がバカにならない金額になる。
家がお金持ちなら別だが、そうでなかったら、洋服なんかに余分なお金をかける余裕はないだろう。そういう生徒にとって、制服は有り難いものである。
だから、みんながここぞとばかりにオシャレしてきても、着古した服やいかにも安そうな服を着て行って居心地悪い気分を味わうくらいなら、制服でいい。制服があるんだから。
制服を着ていれば、「貧しそうな青少年」ではなく「普通の高校生」に見えるんだから。


学校の制服は、家が裕福な生徒も貧乏な生徒も、見かけ「平等」にするものである。ファッションセンスのある子もない子も、制服さえ着ていれば、見かけ「平等」でいられる。学校の制服制度は、制度という「押しつけ」によって、そういう「平等性」をもたらす。
全員が毎日自由な私服で、明らかに貧富の差やセンスの差がわかる環境で、何も感じず勉強だけに集中することは難しい。私がその立場だったらたぶん気に病んで、「なんで制服がないの? そしたら皆一緒で余計なこと気にしなくていいのに」と思うだろう。


一律制服だったら、かえって素材の差(美醜)が際立ってしまうから、ルックスの弱点をカバーしたり個性を発揮できる私服の方がいいのではないか?という意見はあるかもしれない。
あるいは、すべての高校が私服だったら、どこの学校の生徒か一見しただけではわからないので、高校の偏差値格差を気にしなくてよくなるという意見も出るだろう。
しかし家の貧乏な子やファッションセンスのない子は、そこでますます引き離されるのである。制服では単に「ルックス強者/弱者」、「偏差値強者/弱者」の格差だけだったものが、「経済強者/弱者」、「センス強者/弱者」まで一目瞭然になる。
制服制度はそこのところを、やんわりと覆い隠してくれるものとしても機能していたのだ。


もちろん学校の制服が、「規範の押しつけ」であることには変わりない。そこで賞揚される「らしさ」なるものは「上」からの強制であり、それに高校生が異議申し立てをしたことには「理」があったと、今でも私は思っている。
ルールなんか犬に喰わせろ!そう言って自分達の主張を通さねばならない場面は、確かにある。


しかし自分の反発している規範が、一つの制度として、一定期間、一定の場だけでも弱い立場の人々を救っていることを、私は想像しなかった。
私の目はただ「個性」や「自由」だけに向かっていた。
「個性」や「自由」を謳いそれを堂々と実践する人を眩しく眺めていた。
それが強者の「個性」であり、強者の「自由」でしかないかもしれないことに、私は長い間気づかなかった。