ブログに現れる「私」という症候

「あれはひとりごとなんです。ほっといてください」

先日知人から、興味があればどうぞということで三つの文章がPDFで送られてきた。雑誌『日本語学』に連載されている千野帽子の「本のしっぽ」の第8信〜10信。
千野帽子は私の認識では、少女文化やそれと関連する近代文芸について、ユニークで丁寧な論評をしている書き手である。
知人のメールによると、「ブログなどでよく目にする、通りすがりの人に批判されて『あれはひとりごとなんです。ほっといてください』とキレる未熟な反応」の「原因(らしきもの)についての考察」とのこと。「大野さんよくそういうのに巻き込まれていませんか(笑)?」。そ、そですか‥‥。


早速読んだ。興味深く、そしてちょっと耳の痛いところもある内容だった。
ブログに見られる現象を、少女漫画の形式と結びつける着眼点が面白い。連載三回分の参照項は、ざっと拾っても大塚英二吉本隆明高橋留美子筒井康隆倉橋由美子ミラン・クンデラなど多岐に渡るが、以下におおまかなところを本文を抜粋しながら御紹介。


話は漫画から始まる。
千野氏は、もっとも「少女漫画的」な手法とは「例のフキダシ外のネーム(書き文字よりも写植)による内語でもって『私』『自我』を表現する手法」だと指摘する。フキダシが台詞として「他者に向けられた言葉」、つまり「他人の言葉によって相対化しうる言葉」であるのに対し、フキダシの外のネームは(その人物の)「『ほんとうの私』のひとりごと」=内語として書かれている。
つまり、フキダシの台詞は音声として発せられた結果、相手に反発されたりもするものだが、内語は「私」の心の中のつぶやきだから、「私」の自我は他者の反発、批判から守られている(高橋留美子の『うる星やつら』は、内語大流行の時代にそれをほぼ排していたという意味で、「批評的」な漫画だったとの指摘も)。
こうした「私」のあり方を、「少女漫画的『私』」と千野氏は呼ぶ。


「少女漫画的『私』」が、「ブログなど漫画以外の場所で「私」の表現方法になってしまっているのではないか」というのが、この論考のポイントだ。
「三次元世界では肉体の私が『フキダシ』の中のネームをしゃべっているけど、ほんとの『私』(その『ほんと』が多重人格的に複数であっても)の内語は音声化されず、内語としてこのブログに書かれている」。
しかしブログが基本的に「鍵のかかる紙の日記」ではない、不特定多数に開かれた形式をもつ以上、そこには読者に「『私』を理解してほしい、しかも『こんな私』を私が書いたとおりに理解してほしい、という程度の『自己言及』的操作はしっかりある」。つまりそれらは、「『これってひとりごと(誤読・批評は許さないよ)』という『半分だけ他人に開かれた言語』」なのだ。
だから他人にそれを批判されると、「『こんな私』を私が書いたとおりに理解してほしいという希望が叶えられず、他人の批評的言説によって『内語』をフキダシのなかに入れられて(つまり相対化されて)しまう」ので、「『あれはひとりごとなんです。ほっといてください』とキレ」たりする。


倉橋由美子晩年の著作『あたりまえのこと』では、現代小説においては「自分で自分の意識にこだわる結果、自分が何者だかわからない、といった人間」「自分の感情に過敏に反応するためにひどく傷つきやすい人間、すぐに不安や不機嫌に陥る人間」が登場すると述べられている。
だがそういうタイプの人間像は今は高級志向の文学ではなく、「ライトノベル携帯小説やトラウマ・メンヘル系小説やそこらのブログ」に溢れている。
それは、「ブログという手軽に更新+交流できるインフラストラクチャが整備されたとき、『私にも書ける』『書く手段があるから、書かなければならない』となって」、「むかしだったら文章を書かなかったはずの人たち」がそこにどんどん参入した結果起こったことである。彼らが表現方法として使ったのが、「少女漫画的な『私』」だった。


それら「私語りブログ」においては、「自己嫌悪の表明」がしばしば行われる。
そこには「自分を嫌ってみせる発言を人に読んでもらうことで、『自分のダメなところに気づいてる私』の聡明さを認めてほしい」という「『自己言及』的操作(私ってこういうキャラ)」だけでなく、「そのもうひとつ奥では、じつは『ダメな私』もまるごと承認してほしい」という欲求がある(それに対し千野氏は「でも、いったいだれが承認してくれるのでしょうか?」と突き放している)。


‥‥以上、簡単なまとめ(のわりに長くなった)。詳細は是非、雑誌『日本語学』(8〜10月号)をあたって下さい。以下、思ったことをつらつらと。

電波親密圏と自意識の肥大化

「少女漫画的『私』」現象は、mixiの日記などによく見られるものかもしれない。ただmixiは一般のブログに比べ、はるかに共感、賛同を旨とする島宇宙集合コミュニティであり、批判も「ほっといてください」も非常に少ないようだ。一方、一般のブログでは、書き手と読み手の"幸せな予定調和"はしばしば崩される。
「公私」を使い分けている人もいる。こちらのブログでは、さまざまなテーマを「他者に向けられた言葉」「他人の言葉によって相対化しうる言葉」で語る。つまり批判や議論はある程度想定している。別のブログでは、「ひとりごと」を書く。あっちは「公」、こっちは「私」。
しかし「私」の方も不特定多数がアクセス可能である限り、見知らぬ他者に発見され、批判的視線に(も)晒される。ただ、ポエムやゲロ吐きにマジレスするのは無粋かつ不毛なので、見極めが肝心ではある。


「むかしだったら文章を書かなかったはずの人たち」が、インターネットの普及によって大量に「書く人」として出現したという現象は、前からよく指摘されてきた。その際に言われたのは、「それまで聞こえなかった声が飛躍的に可視化された」「さまざまな人の意見交換が可能になった」といったポジティブな面だった。
ブログという手軽なツールがそれを更に容易にした。


しかし、本当に誰もが「書きたいこと(不特定多数の人に伝えたいこと)がある」と思い、その目的を果たすためにブログを使うようになったのかと言えば、そうとは限らないだろう。みんなが書いているなら「私にも書ける」。目の前に「書く手段があるから、書かなければならない」。
それは裏返せば、その機会、手段に出会わなかったら「私」は何も書かなかったかもしれないということだ。とすると、その「書く人」たちは、ブログというツールに「書かされている人」になるのか。


新しい道具があれば使ってみたいと思うのが人間だが、ブログはそれ以上に、自己顕示欲と承認欲を満たせるツールだったという点が重要だと思う。
特別書きたいことがなくても、キーボードを叩けばネット上に自分のモノローグが活字となって現れ、全世界に公開される。そしてどこかの誰かがそれを読みに来る。共感してくれたりする。この自分の極私的つぶやきに。なんて魅惑的なシステムだ。


もともと日記やそれに準じる文章を個人的に書いている人はたくさんいて、それがブログに移行したのだ、という見方はあるだろう。だが書く形式が変わっても、書く内容がそれほどガラリと変わらない/変われないとしたら、何について書いても「私」を中心とした発話形態から抜けられない、といったことは起こり得る。
私は〜をする(しない)、私は〜と思う(思わない)、私は〜を知っている(知らない)、私は〜が好きだ(嫌いだ)、私は〜な人だ(ではない)‥‥‥という自己言及的記述に終始する文章(もちろん主語の「私」はよく省略される)が行き着くのは、千野氏の指摘の通り「ダメな私」だろう。
私もたまに「私語り」(ダメなというよりイタい私)をするので、このあたりは自分の文章を見直す上でも参考になった。


「ダメな私」「自分のダメなところに気づいてる私」を書いた文章は、エッセイなどでよく見られるスタイルである。大抵のエッセイストやエッセイも書く小説家が、「ダメな私」を一回は書いているものだ。中村うさぎなどはその代表。
しかし書くにあたっては、その「私のダメさ加減」を相対化する視点と、個人の体験を普遍化する試みと、読み物としてのオチが必須となる。それがない「ダメな私」語りは、ダメさ自慢、ダメさの自覚自慢という鼻持ちならない臭気を発するだけで誰も読みたがらない。


ブログでは、そんなことを考慮する必要はない。「チラシの裏に書いている」ことにしておけばいい。
チラシとは、見たらゴミ箱に捨てるか新聞紙と共に資源ゴミ回収に出す紙である。その裏に書いてあることは、捨ててもいいこと、人に解読、反応されてなくてもいいことだ。
ではなぜそれを公開しているのか。そんな「私」でも誰かに見てほしいし、共感してほしいし、承認してほしいからだ。
「ダメな私」の表明と「自分のダメなところに気づいてる私」の表明の二重スパイラル。
自己言及による自意識の肥大化と「堂々巡り」。
精神分析では、抑圧されたものは別のかたちで回帰して症候となるという。ブログに現れる「私」は三次元世界の「私」の症候かもしれない。


●追記
こちらで著者の千野帽子さんが丁寧な補足を書かれています。要参照。
●言及記事
「私語り」の衒学趣味者的感想 - しあわせのかたち