「知っていると想定される主体」への抵抗

転移という疑似恋愛感情

俺に理解ができないような難しい文章を書いている奴はみんな莫迦ひーらーちゃんぷるー
「頭のいい人が書く文章問題」について考えているしあわせのかたち)※現在、ブログは閉鎖されている。
「わかる」ことと作者の転生ish☆サイボーグだから電気羊を数えます


「難しい話をわかりやすく話せるのが頭のいい人なのか」関連の記事が他にもあったが、この三本は最初に瀧澤氏が元ネタとなった増田の記事をとりあげ、それにショータ氏がトラバを送り、それにish氏が反応しているという一連の繋がりになっている。
未読の方は是非読まれますように!(特に最後のishさんの記事はワクワクさせてくれます)。


さて、ショータ氏の記事のブックマークのコメントで、草実氏が「それは「一目惚れ」と似ている、というより、本質的に同じことなんじゃなかろうか。転移」と書いている。
このあたりのことはish氏が記事の前振りでやんわりとリクエストしているように、草実氏がきちんと説明してくれると思うが、その先でちょっと書きたいことが出てきた(たぶん上の三記事のトライアングル内)ので、まずざっと触れておきたい。


「転移」とは精神分析の用語で、治療の際、患者が本来は別の対象に向けるべき感情を、分析者に抱くことを指す。
分析者は短い質問を投げかけながら患者の言葉を延々と聞くわけだが、その中で患者は「この人だけは私を理解してくれる」という恋愛感情にも似たものを分析者に抱くようになり、それを指して転移が起こったと言う。転移は治療を進める上で非常に重要だと言われている。
「この人だけは私を理解してくれる」という感情とは、「この人は何でも知っている、わかっている」という絶対の信頼(思い込み)からくる。この、患者から見た精神分析医=転移対象を、ラカンは「知っていると想定される主体」と呼んだ。
患者は分析医その人に恋をしているつもりでいるが、実際は「重要な情報をもっているだろうと想定される分析医」に恋をしているだけであり、その感情が元は誰に向けられていたものかを治療の中で悟った(事実でなくてもいい)時、分析医への転移も解けることになる。


ちなみに私は、人に勧められたラカン本数冊を途中で頭痛がしてきて投げ出し、あとはもっぱらラカン解説本に頼っているヘタレの者である。
ラカンを援用している学者にジジェクという人がおり、この人の政治文化批評関連の著作はラカンに比べれば格段に読み易いが、それでも私にとっては難解な部分も少なくない。
だがそこにラカンの暗号のような言葉を解読する鍵が隠されているはずだと思い込んでいるので、時々本を開く。ジジェクは私にとって「(ラカンを)知っていると想定される主体」であり、ジジェクに転移を起こすことによって、私は彼の本を読み進める(もちろんそれだけではなく、フロイト-ラカンを知らなくても面白く読めるところは多いが)。


もう一つ卑近な例を出そう。
私はデザイン専門学校でデッサンを教えている。学生に真面目に授業に臨ませるためには、まず最初に「この人は何でも知っている、わかっている」と思い込ませ、転移感情を起こさせることが必要となる。軽い疑似恋愛みたいな状態だ。それがうまくいくと、厳しく叱っても高い要求を出しても、なんとかついてくるようになる。これはどの教育の現場でも普通に試みられていることだろう。
極端なことを言えば、私が実際はデッサンが下手で上辺だけ知っているような顔をしていたとしても、私への転移は起こる。生徒が欲望しているのは私自身ではなく、「自分にはまだわからないデッサンへの探究心と技術をもっているだろうと想定される私」だからだ。
このように、転移は精神分析に限らず、日常どこにでも起こっている感情の現象である。


デッサンのコツを習得し、自由自在に描けるようになった学生は、そこで初めて「そうか、こういうことだったか」という気づきを得て、私への転移も解けていく。つまり「恋」の終わりが来る。
何がどうわかったのか、どの時点でやれなかったことがやれるようになったのか、彼/彼女は説明できないだろう。でもそれでいいのである。

欲望の否認

さて、やっと「頭のいい人」の話。
頭のいい人が自分には理解できない難しい文章を書いていて、それを何としてもわかりたいと思う時、その人を「知っていると想定される主体」と看做し、転移していることになる。
その恋愛感情に似たものは、「頭のいい人」自身に対してのものだと本人は思っているが、実はその人が有しているはずの知的欲求に向けられている。そうした関係をラカンは「他者の欲望を欲望する」という言葉で説明した。


では、自分には理解できない難しい文章を書いている頭のいいと思われる人に、「わかりやすく書けないのは頭が悪い」と言う時、どういうことが起こっているのだろうか。


まず、「頭が悪い」となじってしまうのだから、わからないということに対する苛立ちは当然あるはずだ。その話は自分にとってある程度重要に思えるのに、わからないので苛立つと。
いや、そもそも文章の内容がわからないのだから、自分にとって重要か重要でないかもわからないのではないか?というツッコミもあるだろうが、実際はそう簡単ではない。
たとえば、ゴルフにまったく興味のない人は、他人がいくらゴルフの話題に打ち興じていても、わからないので苛立つということはないだろう。説明されてやはりよくわからなかったとしても、そう腹は立たない。知的コンプレックスを刺激されることもない。


しかし、それがどこか自分の関心領域と重なっていそうに思える場合、自分が普段考えているようなことを、全然異なるレベルと角度から言っているんじゃないか?となんとなく感じられる(本当になんとなく。でもその内容は理解できない)場合は、気になると思う。
その時、相手は「知っていると想定される主体」と看做されているのである。そしてその人のもっている、自分にはまだ理解の及ばない種類の知的欲求に対し、自分の欲望を掻き立てられている。
ところが、出てくる言葉は「わかりやすく書けないのは頭が悪い」。(陽性)転移ではなく、陰性転移(抵抗、反発)が起きてしまう。その原因はいろいろ考えられる。


一つ目は、相手の話法、書き方に反感を抱く場合。いわゆる「上から目線がウザい」というやつだ。
ある「知」について、知っている者と知らない者で上下関係が生じるのは当たり前であり、畢竟知らない者は教えを乞うという立場に立たされるのだが、それが受け入れられない。知っている者は知らない者にわかりやすく教える義務がある、サービスして当然であるという思い込み(というか思い上がり)があるのかもしれない。これは所謂平等主義の弊害かとも思うが、今はそこには触れない。


二つ目は、もしその内容を理解したら、「それまでの自分の思考のフレームを崩されるのではないか」という不安がある場合だ。もうそのあたりまでは感知しているのである。内容は理解できなくとも、これはなんかヤバそうな「知」だと感知している。
たとえば、ある分野についてある程度の知識を蓄え、自分なりの考えを作った後で、思ってもみない思考の枠組みによってひっくり返されるのは、厭なものである。そのことを新鮮な驚きとともに受け止め、ものの見方の更新をしていく柔軟性があればいいが、思い込みが強かったり、大きな変化を望まない場合は抵抗感を覚える。年齢を経れば経るほど、そういう傾向は強くなるだろう(自分の実感としてそう思う)。
その厭な可能性が、どうやらその難しそうな文章に含まれている予感がする時(予感は大抵当たる)、「わかりやすく書けない方が悪い」というかたちで批判する姿勢をとる。あるいは「そんな難しい文章はどうせ、面白くない内容に決まっている」と負け惜しみを言う。「私には難しいのでいいです」と回避してみる(どれも私はやったことがある。口には出さないけど心の中で)。


ではそこで、完全に無視したり否定して関係を断ってしまえるのかというと、なかなか難しい(ish氏はそれを「既に『惚れて』しまっている、ということです」と簡潔に書いている)。
表向き無視し否定していても「どうでもいい」と口に出しても、それは結局のところ「知」に対する自分の欲望の否認でしかないことを、自分は知っている。否認とは実はそれを認めざるを得ないとわかっているのに、反発や怖れから否定しようとすることだ。


なぜ欲望を否認するの?何を抵抗しているの?あなたは私にもう「惚れて」しまっているじゃないの。私のせいじゃないけどさ。「自分には理解できない難しい文章を書く頭のいい人」はそう言って遠ざかっていく。
その魅力的で冷たい背中に向かって、「とりあえず、あとちょっとだけついていってみるか‥‥もうわからないままでいいのかもしれないけど、とりあえず‥‥」と私は力なく呟く。