分裂症というメタファー

一連の「わかる/わからない」および「転移」議論に関してのishさんのエントリ、神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらないの最後は、こう締めくくられている。

 神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらないのです。
 これはあくまで恋ですから、どこか「所詮色恋沙汰」という割り切りも頭にはあります。割り切りながら、ちゃんと巻き込まれている。それが普通の「信仰者」の態度ですし、何も信じていないつもりの人こそ、通奏低音のように神様に恋しているのです。
 目覚めても、まだ隣に貴方がいますように。わたしの欠片が、わたしであるために。


これを読んで突然、6年前にやった最後から二番目の展覧会 『FLICKER/FRAGMENTS』のDMに載せた自分の詩を思い出した。

「見ることは忘れ去ること」
光を通して見えている世界は、瞬きによって無数の断片に切り刻まれる。
瞬きと瞬きの間の短い光の時間。
今見ているあなたの顔が、あなた以外の人の顔に一瞬のうちに擦り変わることはないはずなのに、それが次の瞬きの後もあなたの顔であると、ただ見ているだけでどうやって確かめればいいのだろう。
じっと見ることに疲れてパチパチと瞬くと、世界と共にあなたも明滅する。
瞬きのたび、私はすべてを忘れ、瞬きのたび、新しく世界を作り直す。


当時これを読んだ友人が「大野さん、いま恋をしているでしょ」と言ったが、そういう話ではなかった。私がここに書いたのは、世界をそこにある連続的なもの(god keeping the world)として認識できなくなってしまった人、分裂病者のメタファーだった。ishさんの言葉を借りれば、それは神様に転移(恋)できなくなった普通でない人だ。


ishさんは記事の中で、「普通の人」は表象を通じて対象を「「ある」という前提でしか話ができない」、つまり「「ある」ことを前提とした振る舞いを十分に習得している」「世俗的で十分に信心深くはない信仰者」であると説明する中で、「信仰者と狂信者、あるいは神経症者と精神病者の関係だと思えばわかりやすいはずです」と書いている。
精神病者」と対比させられているところからして、先進国で多く見られる「神経症者」(ヒステリー然り、摂食障害然り)は、前の対比の「信仰者」と同じく、「普通の人」である。そして「精神病者」とはここでは主に、「分裂病者」(今は統合失調症と言うがここでは分裂病で通す)のことを指しているのではないかと思う。


私はもちろん、現実の分裂病者を知らない。なのに、分裂病のメタファー表現(しかもそこに自分を仮託している)を展覧会のDMに掲載したのには、以下のような背景があった。


80年代半ば以降、ドゥルーズガタリの紹介者である浅田彰の言説(大雑把に言えば「パラノイアからスキゾフレニーへ!」)の影響下で、分裂者分析の用語(遊牧、生成、多様性、脱領土化など)がアート方面でも流通した。ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』では、さまざまなメタファーで「神経症」(パラノイア)と「分裂症」(スキゾフレニー)の二項対立が語られている。
80年代から90年代を通して現代美術、あるいは現代芸術全般に「憑き物」のように取りついていたのは、「ポストモダン」「大きな物語の解体」と共に、この「分裂病」「分裂症」というタームだった。


ほとんどの芸術関係者は実際の分裂病者を見たことがなかったはずだし、その臨床例に詳しく当たったこともなかっただろう。だから芸術領域で行われていたのは、「分裂病をメタファーとして捉えること」だった。
アートシーンを席巻していた「分裂病的」イメージ、「分裂病的」な事象への言及。分裂病者でもないのに、それを原理としていた批評家やアーティスト達。それらのふるまいは、むしろ「神経症的」だったのではないかと思う。


そして私も、「分裂病的」なものに「神経症的」に反応したアーティストの1人だったのだ。ずっとほとんどそのスタンスで作品を作っていた。2001年に書いたこの詩も、その時発表した映像作品もまさにそういったものだった。
それが「自分が意図した通りの分裂病的効果」を生み出し、周囲のいくばくかの評価を受けたことによって、私は「分裂病をメタファーとして捉えること」にまつわる、ある種の拭い難いいかがわしさから目を背けていた。


およそ近代美術は、 アウトサイダーアートのような一方的に見出されたものは別として、「分裂病」であることはあり得ず、常に「神経症」の一つの現れとしてしか扱えないだろうと思う。
近代美術のなれの果ての現代美術も同様だ。


あの詩を書いてから二年後に、私は美術を廃業した。それは私にとって、生まれてこの方最大の「憑き物落とし」だった。その後直面させられたのは、それまで見ないようにしてきた「神経症」的な自己だった。
当たり前のことながら、私もどこまでも「普通の人」なのだった。


ishさんの記事からちょっと離れてしまったけど、メモとして。