ネットでの「好き」や「贔屓」と「公正」

瀧澤さんの記事に対して、「自分の好きな人には肩入れしがち」とか、「タッキーは実質贔屓的視点を持っているのにこっちだけを「お前は公平じゃない」と責めてくるのはどうなのか」(追記:その後プロテクトされました)とか「タッキーは違う。すべねさんと同じようには見れないね。当然大野女史もね。そら人に対する公正さが違うんだから当然だろ。」(追記:同上)という意見が散見されるので考えてみる。


こちらのコメント欄で、tomo-moonさんは「大野組」という言葉を使っていて、ツイッターの諸発言と対応している感じがする。つまり「大野さんが好きな人、大野さんを好きな人で構成される仲良しグループみたいなものがあるでしょ?ww」という意味だ(この記事でも、そうした「敵/味方」観を出している(ネタでもマジに受け取るよ))。
なんかちょっと気持ち悪いんだけども、記事に共感することの多い人は何人かいる。おそらくtomo-moonさんの想定しているのは、瀧澤さんとかショータさんとか草実さんだろう。私と比較的よくやりとりしているからね。
それもそうだし、それ以外でもたくさんいる。たくさんではないか。でも四、五人はいる。最近ではusauraraさんとか。一度もやりとりしたことない人も入っている。


「自分の「好き」な人だから「贔屓」している、それは不公平、不公正だ」という批判だが、私がなぜ彼らに共感することが多いかというと、人間関係に囚われない公平、公正なものの見方がかなりできる人、論理を使うべきところではきちんと使える人だと認識しているからである。
公平、公正になれない偏った視点を出す場合は、なぜそうなのかを説明している(たとえば恋愛では誰しも不公平なものだ)。そして、質問にはいつも真っ向正面から答えている。だから議論もできると思っている。
私はそういう人の書くものが「好き」だし、そのスタンスを「贔屓」している。そういう人なら、リアルで会ってみたいという気持ちにもなる。


そうでない人の記事やスタンスは好きではない。共感できる記事を書いたことがあっても、通して見たスタンスが公平、公正ではなく、論理を使うべきところに感情で反応し、質問をはぐらかし、議論も成立しない人は、差別していいと思っている。
これは私の個人的な規範であり、同時に感情だ。
このことを不公平、不公正というのだろうか? 
私にはわからない。


2007年11月19日 kusamisusa 仲良しっぽくてキモイよね… (自意識発病
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20071118%231195386313

ほんとキモいよね(自意識発病