ある掲示板での出来事

もう何年も前の、ある私設掲示板での出来事である。
何人かの人が毎日、さまざまな議論に参加していた。特によく書き込みしていたのは、A氏、B君、Cの三人。
ある時、Dという人物が現れた。彼の書き込みは、A氏と掲示板の議論を一方的に中傷するものだった。A氏はその根拠を問い質して、Dと議論しようとした。が、Dはそれにはまともに応じようとしなかった。
B君とCは、どう介入していいかわからず沈黙していた。これは荒らしなのか、ただ議論のマナーのない人なのか、彼らには判断できなかった。というより、何か言えばDの矛先がこっちに向きそうでこわかったのだ。非常に重苦しい空気が漂った。
A氏は、ネットの議論のモラルについて語り始めた。誰も発言しない。Dもなぜか出てくる気配がない。しばらくして、雰囲気を変えようと思ったのだろう、B君が軽い話題を出した。Cがすぐそれに応じた。二人はその話題を巡ってやりとりを始めた。


気づくと、A氏がずいぶん長時間書き込みをしていなかった。B君やC達が盛んに議論していても、現れなかった。A氏のいない掲示板は、今ひとつ盛り上がりに欠けた。
三日経っても一週間経っても、A氏は復帰しなかった。突然ふっつりと消えてしまったかのようだった。
Cはだんだん心配になってきた。B君に「Aさんはどうしちゃったんでしょう」というメールを出した。B君は「ちょっと疲れたんじゃないですか。そのうち復帰すると思いますよ」と返事をした。しかしその後もずっと、A氏は現れなかった。


Cは思い切ってA氏に、「Aさんがいないと盛り上がらないので、疲れがとれたら戻って来て下さい」というメールを送った。A氏の返事はこうだった。
「たしかにちょっと疲れたところはあります。でも僕があの掲示板から撤退したのは、別の理由です。Dは僕と僕らの議論を中傷しましたが、僕以外に誰もDの態度を咎める人はいませんでした。それで僕は、もうここにいる必要はないと思いました」
Cはショックを受けた。そして掲示板の過去ログを改めて閲覧してみた。A氏がDの攻撃に晒されていた時、Cは何もしなかった。A氏がネットの議論のあり方について語った時も反応せず、何事もなかったかのようにB君とのどかな話題に打ち興じていた。
Cは、A氏がどういう気持ちで書き込みをしていたか、遅まきながらその時はじめて想像した。


CはA氏に詫び、再び戻ってきてくれるように頼んだ。A氏は「もうだいぶん時間が経ったし、改めて議論する熱も醒めてしまったし。メールのやりとりでもしませんか」と答えた。
掲示板ではだんだん書き込みが少なくなっていき、一ヶ月ののちには更新が一週間に一回程度にまで落ちた。その後、機会があってCはA氏と会った。三ヶ月後、Cはホームページを開設し、そこの掲示板でまたA氏を含めた新旧の人々と意見を交換するようになった。そこでもいろいろな出来事があったが‥‥。



Cとはもちろん私のことである。その当時私は、A氏自身があくまで正しい振る舞いをしていると確信するならば、別に退かなくてもいいだろう‥‥とも少し思っていた。あの場で私達を批判することもできただろうと。なのにそれをしないで黙っていなくなったA氏は、ちょっと冷たいなあと。
その後、別の掲示板での議論を通し、A氏他の厳しい指摘を受けながら私は、言葉を書きつけること、対話することの意味について思い知らされることになる。だからA氏は決して冷たかったのではないということはわかった。ただ、正しいと信じる振る舞いが機能しないところにエネルギーを投入することの虚しさ、そこに居続ければ自分をすり減らすだけであるという予感に、A氏ほど敏感な人はいなかった。
かつて膨大な量の書き込みがされた掲示板は、今はもうない。A氏とのリアルでの交流は細々と続いているが、私の中には、彼のメールの一節「もうここにいる必要はないと思いました」が、今でも棘のように刺さっている。