「不自由な存在」と、働くことのモチベーション

『橋の下のこどもたち』という本がある。対象年齢は小学校中学年くらい。アメリカで発表されたのが1958年、日本での初版は1966年。

小学4年のクリスマスに、親からこの本を贈られた。「家のない子ども達とおじいさんの心温まる物語」といった帯の紹介に、なんか夢のなさそうなビンボ臭そうなお話で、気が進まないなあと思ったことを覚えている。当時私が夢中になっていたのは『ナルニア国物語』や「ドリトル先生」シリーズなど、ちょっと現実離れしたわくわくする冒険物語だった。
でも読み始めたらなかなか面白くて、一気に読んでしまった。そして、こないだ数十年ぶりに読み返した。
以下、物語の雰囲気をよく伝えているamazonのレビューから。

アルマン老人は宿無しだ。手押し車一つに家財道具をつめこんで、パリの街を放浪する。仕事も家庭もなく、ただ気ままに生きてきた。ところがお気に入りの「橋の下」のねぐらを幼いきょうだいと分け合って以来、なぜかこの子たちが気になって落ち着かない。


冷たい空気、人ごみ、ショーウィンドーのきらきら輝く飾りつけ、サンタクロース、焼き栗とクレープの匂い。そんな歳末のパリのにぎわいが、目の前に立ち現れてくるような物語です。そしてこの都に暮らす宿無したちについても、単に貧しく悲惨な人々としてではなく、したたかな生活力で助け合いながら自由に生きているという側面に光をあてて描かれています。


この物語には宿無しをはじめさまざまな立場や考え方の人間が登場しますが、だれが正しく誰が悪人ということではなく、絶妙なバランスで折り合いがつけられていきます。たとえばジプシーは広場のハトを捕ってシチューにしますが、出されたほうはぎょっとしながらも食べてみて「いがいとおいしい」と言うのです。互いの「違い」を認め合うこと、これもテーマになっているのでしょう。


何かを手に入れるためには何かをあきらめなくてはならない、人間は不自由な存在ですが、どちらにするか選ぶ自由は誰にでもあります。それを教えてくれる優しい結末にほっとしました。
(以下略)


ここに書かれているように、社会の底辺で生きる人々のたくましさとおおらかさが活写されており、第一のメッセージは「立場や考え方の違いを越えて助け合うことの大切さ」だ。
そして第二は、「人間は不自由な存在」であるということ。それについて、物語を振り返りながら書いてみる。


アルマンは、拘束されることやあくせく働くことが嫌いな老人である。働こうと思えば働けるのに、気侭に生きたいがために放浪生活をする人は、当時のパリでは珍しくなかったらしい。アルマンは「自由」であることにプライドさえ持ち、長年の経験と知恵を頼りに、それなりにホームレス生活を満喫している。
彼は、自分の静かな生活を邪魔する子どもも苦手だ。なのに、三人のきょうだい(姉、弟、妹)と縁ができてしまう。


働き手の夫に先立たれ、大家に家を追い出された子ども達の母親は、朝から晩まで働きお金を貯めて住む場所を見つけ、”まとも”な暮らしに戻ろうと頑張っているので、子ども達が「こじきのおじいさん」なんかと仲良くすることを酷く嫌う。
とりわけ、アルマンが子ども達に街角でクリスマスソングを歌わせ、人々からお金をもらって食べ物を買ったことを知った時、「あんたは、わたしの子どもたちを、こじきにしてしまったんですね」と怒り、嘆く。アルマンは「オペラ座の大歌手だって、歌を歌えば金をもらう」と反論。
一方で、子ども達をジプシー達のところに連れていく途中、市場を通り抜けた彼の手押し車の中には、なぜかリンゴやセロリや子牛の頭が「勝手に」転がり込んでいたりする。
そんな中で、子ども達はすっかり老人になついてしまい、母親もだんだんと貧しい人々の人情やアルマンの不器用な親切さに打たれて、態度が軟化していく。


子ども達を元気づけようと、アルマンが自分の仲間がアルバイトでやっているサンタクロースに会わせにいく場面がある。そこで子ども達がサンタに言ったのは、「うちがほしい」。一旦は諦めるものの、ジプシー達のテント暮らしに参加してますます「うち」に憧れる子ども達に、アルマンは「サンタクロースがおまえたちのうちをたててくれるんだよ」と出任せを言って有頂天にさせてしまう。
苦手なはずだった子ども達についほだされて、深く関わったことを後悔するアルマンと、「おじいさん」を信じ切っている子ども達。
とうとう「うち」なんか嘘だということを白状せざるを得なくなり、子ども達を心底がっかりさせてしまったアルマンは、みんなが住めるところを見つけるため職に就くことを決心する。
仕事と住処を手に入れ「労働者」となったアルマンが、繕ったオーバーの胸を張ってパリの街を歩いていくところで物語は終わる。



一人きりの孤独と自由を何より愛していたのに、いつのまにか子ども達が好きになり、この子達に住む家があったらと願うようになり、この子達のために仕事をし一緒に暮らそうとまで思うようになる、一人の老人の心の変化。それが、さまざまな出来事を通して浮かび上がってくる。
「仕事を見つけ部屋を借り、稼いだ金で普通の人の暮らしをする」ということに何ら意義を見出せなかった彼を変えたのは、「誰かのために働く」という、それまで想像もしなかった考えだった。


人は何のために働くのか。お金のため。生きるため。ただ生活するためだけの、何のプライドもやり甲斐も感じられないような労働がある。そのちっぽけな仕事だって誰かの、世の中の役に立っている? そんな言葉が虚しく響くような労働。
仕事に何らかのやり甲斐を見出して、多少なりとも働くモチベーションを高めたりできる人はまだいい方だ。生存のための労働は、人から自尊心を奪い取る。
自尊心の高かったアルマンは、だから労働から逃げ、ささやかな自由を守るためにホームレスをしてきた。
しかしいつしか「自分の自尊心」より「他人の喜び」が重要となり、その延長線上に彼は「働くこと」を見出した。同時に「誰かに必要とされる自分」も見出した。


「人は愛情なくして生きていけない」ことを子どもにわかりやすく伝える物語だが、言い換えると「不自由な存在」であることを受け入れる人の話である。
誰かに必要とされるような自分でありたいならば、マイペースの生活は手放さなくてはならない。
親密圏を手に入れるためには、一人きりの静けさはあきらめなくてはならない。
人はしばしば、そんな「不自由な存在」であることを、喜びと共に受け入れる。


しかし「誰か」が現れなければ、アルマンはわざわざ仕事を探す気にはならなかったはずだ。彼にとって、仕事はその程度の価値の低いものだった。
働くことは、拘束され時間を奪われ緩慢な苦痛に耐えること。そうした感覚しか持てない人は、今多いだろう。それをカバーしてくれるかもしれない「誰かのために」というモチベーションを、誰もが見つけられるとは限らない。
そこで労働は、ただ生き延びるため以外のどんな意味を与えられるのだろう。



●付記
合わせて読みたいお話に、『ムギと王さま』(エリナー・ファージョン作/岩波書店)収録の『しんせつな地主さん』があります(岩波少年文庫の方は『天国をでてゆく』に入っているので注意)。当ブログ内書評はこちらの後半部をどうぞ。