「マッチョ」と「ウィンプ」の何故何故論

「何故?」という問いを巡って、一部で盛り上がっていました。とても興味深く面白いテーマです。


「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 - suVeneのあれ
【要約】
「何故ですか?」には、純然たる質問の場合と、相手の意見に対する否定的意味合いをもつ場合の二通りがある。ネットではどちらの「何故?」かの読み取りが難しく、問う側は前者のつもりでも後者と受け取られることもしばしばあるので配慮は必要。だが一方で、問われて(否定されて)神経を逆撫でされたと思う人は、自分の考えが「何故?」と問われないような「正しい」ものとの思いがあるのかもしれない。


否定的「何故ですか?」に潜むやっかいさ - しあわせのかたち ※現在このブログは閉鎖されている。
【要約】
suVeneさんの挙げた後者の否定的「何故?」についての各論。この「何故?」においては、ダブルバインド - 言語的メッセージ(文字通りの意味)とそこに潜む非言語的メッセージ(この場合「おまえは間違っている」)との矛盾 - がある。つまり「何故?」と問いつつも、コミュニケーションの目的は理解や納得ではなく叱責、非難にあり、そこでは権力関係(親と子、上司と部下、先生と生徒など)が前提とされている。



「何故失敗したんだ?」
「何故そうしなかったの?」
「何故こうなっているのだ?」
そんなことを「何故問われるのか?」と言えば、問われる側が(問う側の)「規範から見て間違いを犯した者」だからである。従って「何故こんな(悪い)結果しか出せなかったんだ?」と叱責されることはあっても、「何故こんな(素晴らしい)結果を出せたんだ?」と問いつめられることはない。「よくやった!」で終わりだ。
問う側は「正しい答」をあらかじめ持って権力関係の「上」に立っており、問われる側はどう答えても非難されるだけの「下」にいるというのは、sho_taさんの書いている通り。問われて改めて、「下」であることを思い知らされたりする。
そうした非対称の関係を思い起こさせるがゆえに、「何故?」をいかなる場合も否定的言及として捉えてしまう心性も生まれるのかもしれない。


まだ誰も「正しい答」をもっていなくても、問う側と問われる側の非対称性が出てくる場合がある。たとえば裁判の場。裁判長は尋問し、原告、被告はそれに答えねばならない立場である(黙秘権はあるが)。
殊に被告は文字通り告発された身だから、検察側から厳しく問いつめられる。彼は「法規範から見て間違いを犯した(可能性のある)者」としてのみそこに存在し、裁判長や検察官に対して「何故そんなことを訊くのか?」と問い返すことはできない。弁護側の「その質問に疑義あり」はあっても。「正しい答」(判決)を導き出す者から、「被告人は質問されたことだけに答えて下さい」と釘を刺される。


裁判官から提示された「正しい答」(判決)に、被告からも原告からも文句のつけようがなければそれでいい。
しかしたとえば、無罪を信じる被告に有罪判決が下され、当然彼はそれを不服とし上告したとする。「それでも僕はやってない」と。そこで初めて「下」にいる者から「上」への問いかけが始まる。
「何故僕は罪を被らねばならないのか?」
「何故無実の者を罰するのか?」
「何故こんな理不尽なことがまかり通るのか?」
「何故?」の答は判決文である。判決文は「正しい答」として既に提出されている。しかし彼はその「正しさ」を拒否し、「何故なんだ?」と問う。
ここでも「何故?」は、「正しい答え」はこちらにある、おまえは間違っているという非言語的メッセージを発する言葉としてある。が、それを問う者の立場は入れ替わっている。


つまり、権力関係の「上」に立つ者が「下」の者を非難、叱責する時にのみ、ダブルバインドの「何故?」が問われるわけではないのだ。「上」に立つ者に「下」の者が反駁する時にも、「何故?」は叫ばれる。
「上」「下」は、「マッチョ」「ウィンプ」と言い換えてもいい。親と子、上司と部下、先生と生徒、裁判官と被告人は、相対的に「マッチョとウィンプ」の権力関係にあろう。
「何故あなた達だけがおいしい目をみてるのか?」
「何故こんな不当な扱いをうけなければならないのか?」
「何故我々は(女性は、若者は、被雇用者は、セクシュアルマイノリティは、少数民族はetc)そんな「答」を押し付けられねばならないのか?」
ウィンプ」がそう問う目的は「何故?」の解決ではなく、異議申し立てにあり、「マッチョ」の横暴を糾弾することにある。
歴史を遡れば、「何故?」という問いの封殺された場での、(相対的)「ウィンプ」から「マッチョ」に向けて放たれた、ぎりぎりの血を吐くような「何故?」によって、すべての社会的慣習、規範の名の下の差別構造はその内側から問われてきた。そうした「何故?」の意義については改めて書く必要もないだろう。


「理はこちらにある」と確信して発せられる「何故?」には、人を捉える一定の力がある。それが強大で邪悪なものを敵に回した「弱者」の叫びなら尚更である。
こうした問いを発し続けずにはいられない者を、ヒステリー者と言う。「ヒステリー」と言われて怒ってはいけない。ヒステリー者の問いは真っ当であり、なされるべくしてなされるものである。
その場合、反駁しながらも相手は一応「上」に立っているわけだから、表向きは「答えをもっているはずの責任主体」と見なされている。「この理不尽のわけをおまえは知っているはずだろう。答える責任がそっちにはあるだろう。答えろ」と。
もちろん(裁判は別として)どのように答えられても納得はしない(だって答はこちらがもっている)から、永久に問い続けることになる。そして時に「マッチョ」から問い返される。「じゃあ何故もっと努力しなかったのか?」「何故手を伸ばして食べ物を掴もうとしないのか?」と。「何故?」メソッドによる「上」からの叱責だ。
それによって、ヒステリー者は増々ヒステリー化(問いを先鋭化)する。


問題は、こうした異議申し立て、糾弾の「何故?」を問い続けること、もっと言うと「問いを保持し、問う位置に留まり続けること」が、「マッチョ/ウィンプ」関係の補強になりかねないということだ。
「何故?」と糾弾する「ウィンプ」=ヒステリー者は、やがて自分のポジションにアイデンティティを見出し、問う行為それ自体を手放せなくなっていく。その態度が紛れもなく「ウィンプ」を「ウィンプ」、ヒステリー者をヒステリー者たらしめているのである。
ウィンプ」にとって、この上下関係こそが苦しみの根源であるのに、疑義を発し続けることによって、自ら関係の固定化に荷担してしまうというジレンマ。


ここから抜け出すには、否定的な「何故?」という問いをやめるほかない。
それには「マッチョ/ウィンプ」「上/下」という図式から、横に出るしかない。
そうした問いを生むような関係自体を、無理矢理初期化してしまう。そんな権力関係などどこにもない、くらい言ってみる。あったとしても「ない」と言い切ったところから始めてみる。
権力関係、上下関係があるとしてしまえば、それを問うしかなくなるのだ。いつまでも。それが、問う者の立場の維持確保という転倒を引き起こし袋小路に嵌っているのは、ヒステリー者の問いを保持してきた左翼・リベラルを見てみればわかる。


だからもう「何故?」という言葉で「マッチョ」などに異議申し立てする必要はない。相手を責任主体と看做し、それを糾弾する者の副次的立場に甘んじ続けることはない。権力関係などないかのように振る舞え。答は自分がもっているのだ。だったらそれを実行すればいい。


‥‥ということを、最近自分に言い聞かせてます。ヒステリー者なのでなかなか上手くはいきませんが。